ヘラの涙
お星さまみたい、と言った彼女の瞳は、星色をしていた。
タルト生地に囲まれた、つやつやのガナッシュ。その上には、ちらちらと瞬く星のように、金箔がちりばめられていた。ひかえめに、でも、その輝きが見失われてしまうことのないよう、ほどよい塩梅のそれは、少女の目を釘付けにした。
「お母さん、わたし、これがいい」
ショーケース越しに見えるそれを、少女は熱心に見つめていた。
「あら?イチゴのショートケーキじゃなくていいの?」
「うん、これ。これがいいの」
ちょうどそのとき、ショーケースの向こう側から声がした。ちょっと不機嫌そうな、とげのある声。ご注文は、という字面とは、およそちぐはぐな声音をしていた。
母親が2人分のケーキを注文すると、これまた少しだけご機嫌斜めな返事と共に、ケーキが真っ白な囲いの中へと納められた。
その所作はとても丁寧で、ケーキが中で倒れてしまわないように、ほどよい大きさに丸められた厚紙が、隙間にはめ込まれていた。
会計を別の店員が対応し、母親の意識がそちらに向いている間も、少女は一切れ欠けてしまった星空を、熱心に見つめていた。
「ねえちょっとアンタ」
「え?わたし?」
「そうだよアンタだよ。ガラスが汚れるってば」
今までで一番いらいらしている声で、白いエプロンを着けた少年が少女に言い放った。
車椅子から身を乗り出すようにしてケーキを眺めていた彼女は、顔を上げる。水からの身体を支えるために、べったりとショーケースに手をついていた少女。その手を、店員の少年は忌々しげに睨め付けていた。
「そこぴかぴかにするの、けっこーめんどくさいんだからね」
「あ、ご、ごめんなさい……」
確かに、少女が手をついた辺りのガラスは曇っていた。少女が慌てて手を引くと、店員はふんと鼻を鳴らし、客側のショーケースに回り込んだ。その手には、白くて清潔そうなふきんが握られている。
「店内は清潔に。客だって例外じゃないんだから」
「はい……」
うつむいた少女を、夜空色の髪が覆う。ゆるく癖のある髪の毛先が揺れるさまが、涙の流れ方に少し似ていて、店員の少年は口を尖らせた。しかし、ガラスを拭き続けるその手を止めることはない。
「……ごめんなさい」
「もうしないでよね」
「あっこら龍卉!」
会計を終えた店員が、ガラスを拭いている少年を見て声を上げた。
白い帽子から、切りそろえられた金色の前髪が覗いている女性は、少年を見て、今にも泣き出しそうな少女を見て、事情を察したのか、眉をつり上げた。
またやったの、と言って、女性は会計を終えたばかりの母親の方へと向き直り、深々と頭を下げた。そのそばにやってきた少年も、小さく頭を下げる。それは謝罪していると言うよりも、ふて腐れてうつむいているものに近かった。
「娘さんに不愉快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
「……すみませんでした……」
「いえいえいいのようちの子も悪かったわ、しっかり言い聞かせておきます」
母親は、ケーキの入ったかわいいビニール袋を提げ、娘の車椅子を押して、店を出て行った。
少女が一度だけ、母親越しに店の方を振り向くと、女性店員に怒られてそっぽを向いている少年がいた。
「お母さん、わたし、悪いことしちゃったかな、もうあのお店、行っちゃだめかな」
「そうね、あなたは悪いことをしちゃったわね。でもね、店員さんにもう来るなーって言われた?」
「うーんと……。ううん、言われてないよ。もうしないでよねって言ってた」
「じゃあ、次は気をつけましょう」
「うん!」
少女は数日後、再び店を訪れた。今度は、父親と一緒だった。
いらっしゃいませー、とやや投げやりな声を上げながら、あのときの店員が奥からやってきた。少女を見ても、少年は全く表情を変えなかった。
店はいつもと変わらず、甘くて香ばしい、夢の詰まった香りに満ちている。
「あの、これ、2つください」
「はいよー」
少女が指さしたのは、前回と同じ、金箔が乗ったチョコレートタルトだった。
誰かが買っていったのか、既に欠けはじめている正円のうちのひとすくい、ふたすくいを、店員は丁寧に箱へと収めた。
「あの、店員さん、この前はごめんなさい。それで、その……」
近くで見たいの。
そう言った少女の手には、清潔そうな白い手袋がはめられていた。
龍卉と呼ばれていた店員はそれを一瞥し、どうぞとだけ言って、少女の父親を相手に会計を始めた。
少女はぱっと顔を輝かせて、大きく深呼吸をする。一瞬苦しそうな顔をしたが、ぐっと何かを飲み込むようにして堪え、前のめりの姿勢になっていた。
「娘がここのケーキが美味しかったと言っていてね、私も食べたくなったんだよ」
「そりゃどうも」
接客マナー的にはおよそ及第点とは言えない、生意気で、素っ気ない言葉ではあるものの、その音の響きには、分かりやすく喜びがにじんでいた。
店員が横目に少女を見やると、彼女はべったりと手をガラスにはり付けて、熱心にケーキを見つめていた。
その横顔は真剣そのもので、何がそんなに少女の心を引きつけるのだろうと少年は訝った。
ショーケースが汚れないように、わざわざ手袋を着けてまで、息を止めて、真剣にケーキ達を見つめている。そこまでして、近くで見たいものだろうか。どうせ食べればなくなってしまうものなのに。
週に1度、多いときは3度、少女は両親と共に、ケーキ屋を訪れた。彼女が頼むのは、決まってチョコレートタルト。彼女が「お星さまみたい」と言った燦めきを持つ、けれど、とても地味な色をしたスイーツだった。
どうせなら、太陽みたいな色をしたオレンジをふんだんに使ったケーキとか、優しい色で可愛らしいフランボワーズのケーキとか、そういうものの方が、ずっと見た目は鮮やかで、人目を引きそうなものを見たらいいのに。
少女が見つめるのはいつだって、正円の欠けはじめている夜空のタルトだった。
彼女はお店に来る度、そのタルトと向き合った。大きく深呼吸をするときは、横を向いて、水面に顔を浸すかのように、息を止めてショーケースにはり付く。
彩り鮮やかなフルーツタルトやバースデーケーキには目もくれず、顔を赤くして、熱心に、チョコレートタルトだけを見つめている。
最後に少女が店に来てから1週間後、再び見慣れた2人が来店した。
しかし、少女の姿はなかった。両親だけが、店に来た。
「いらっしゃいませー」
「ああ。……いつものを、3つ」
「はーい」
既にチョコレートタルトの前で待機していた店員は、箱に3切れの夜空を入れて、真っ白な蓋を店のロゴ入りシールでとめた。
少年は、横目にショーケースを見やる。それはほぼ無意識下での行動だった。最早習慣となっていたその視線の運びが、ちぐはぐな色の瞳が、違和感を映し出す。少女の姿が、ない。
そういえば、店に入ってきたのは大人2人。車椅子を押している様子はなく、少女が両親の後ろに隠れている様子もない。
「あの子ね、もういないの」
「……」
財布からお金を取り出しながら、母親が呟いた。自分に言い聞かせるようなその言い方に、店員の手が止まる。
はら、と一筋、涙が女性の頬を伝った。流れ星みたいだ、と少年は思った。
「最初はあれもきれい、これもきれいって言って眺めていたんだけど、これを見つけてからはこればっかりね」
「いつか天の川を見に行きたいって言ってたもんな」
泣き出した母親の方を、父親がそっと引き寄せる。会計もままならない母親に代わり、彼が財布を手に取った。
「きょーはサービスしたげる」
「え?」
「常連さんだし」
「しかし……」
「ガラス、ぴかぴかなまんまにしてくれてたゴホービね」
半ば押しつけるようにして、店員はチョコレートタルトの入った箱を、ビニール袋ごと父親に手渡した。がしゃがしゃと、ビニール袋が擦れる音がした。荒い音だった。
少女の両親が帰っていく。すっかりしぼんでしまった後ろ姿からは、深い悲しみの色が、くっきりと浮かび上がっていた。
「天の川……」
少女が日に日に弱っていることは知っていた。何度も来店していて、何度も顔を見ているのだから、気付かないわけがない。
最期に来た日、彼女はショーケースにしがみつくようにしてケーキを眺めていた。自分の身体を支えることも最早叶わず、母親に身体を支えてもらわなければ、まともに顔も上げられないような状態だった。
病院の隣にあるこのケーキ屋では、一度きり、あるいは数度訪れたのみで、二度と訪れない客は少なくない。その多くは、見舞で病院までやって来て、行きがけに差し入れを買っていく者たちだ。入院している患者がやって来ることもあるにはあるが、それでもすぐに退院してしまったから再度の来店はない、というのが大半だと少年は思っている。
けれども、今回のようなケースが全くないかといえば、そうでもない。明らかに余命を宣告されたような人が、親族を伴ってこの店を訪れることだってある。
しかし、それも、二度目はないことが明らかなパターンだけだ。
最期に、甘くて美味しいものが食べたいと言って、やって来るのだから。
「……」
欠けたチョコレートタルトを見つめる。ショーケースの表側に回り込んで、少し腰を曲げて、姿勢を低くして。
そうして息を止めて、顔を近づけてみる。
少女の視点で見つめたそれは、少年にとって、何の変哲もない、いつも通りのチョコレートタルトでしかなかった。
「あれ、龍卉?ああそこにいたの」
奥から出てきた女性が、青い目を瞬かせて少年を見やる。
そして、少年がいる場所を見て、もう一度、少年の顔を見た。
「一切れ食べる?」
「……うん」
少年の店員は裏側に回り込んで、自分のために1切れ、タルトをすくい上げる。
夜空の切れ端。
真っ白な皿に載ったそれは、誰がどう見ても、普通のタルトだったが、少女にとっては、何よりも美しく、手の届かないものであったのかもしれない。
片手にはタルト、もう一方にはフォークを掴み、女性が開けたままにしてくれていた、店の奥へと通じるドアをくぐる。
少年と入れ替わりに、女性は店の表へと出て行った。
店の裏で、少年はひとりだった。
小さなテーブルに皿を置く。少々足の高さが揃っていない、年季の入った木製の椅子に腰掛ける。フォークを握り直す。
そこで飲み物がないことに気付いて冷蔵庫を開けてみれば、よく冷えたアイスティーが入っていた。グラスに注ぎ、冷蔵庫をお行儀悪く肘で突いて閉め、ばたんと音がする頃には、グラスがテーブルの上に落ち着いていた。
やや潰れた、ギンガムチェックのクッションが敷かれた椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。
幾度も食べた味だ。制作段階から味見に付き合ってきて、完成して売りに出されてからも、数え切れないほど食べている。
一番尖った、中心の部分を、フォークで刺してすくい取った。
ぽろぽろとこぼれたタルトの細かい欠片を、フォークの裏で押し潰すようにして、くっつけて、口に運んだ。
このチョコレートタルトで一番彼が口を出したのは、タルト生地だった。固すぎると食べづらい、でも、柔らかすぎると食感が悪い。程よく柔らかく、けれどさっくりとした食感は損なわぬよう、ほどよい配合になるまで、なかなかの時間がかかったと記憶している。
味にもこだわった。上に流し込むガナッシュが甘いから、生地が甘すぎると気分が悪くなるし、食べづらい。かといって淡泊な味付けでは、もさもさしているだけでつまらない。
だから、タルト生地には少しだけ、塩を入れてある。チョコレートガナッシュの甘さが引き立って、甘すぎず、何度でも口に運びたくなる味になった。
「ちょっとしょっぱいな」
唇の端についたチョコレートを下で舐め取って、少年はひとり、ごちた。