旅立ちは星の降る夜に


 ずっと、一緒に。あの瞬間を、生涯自分が忘れることはないだろう。安らかな寝顔を眺める横顔は、カナリア色の癖っ毛に覆われていてよく見えないが、それでも穏やかに微笑んでいるということは、その仕草から見て取れた。
 夜空のような髪を、長い指先がくしけずる。ん、と小さく唸って寝返りをうったアンネの寝顔を見て、雛の顔がいっそうほころんだ。

 アンネのことを「ママ」と呼ばなくなったのは、いつの頃からだっただろうか。ずっと一緒に育ってきた雛の身長は、ぐいぐいアンネを追い越していた。骨ばった手と、薄い腰。声変わりを経た雛は、成長した男の身体になっていた。
 あの頃は小さくて可愛かったのに、とは、最近のアンネがよく言う言葉。拗ねたような口調と、とんがった唇が愛らしくて、恨みがましい視線を向けられても、どうと思うこともなかった。笑って流せば、それはそれでまた拗ねられてしまうのだけれども。

 「ホント飽きないよね、アンタってヤツは」

殊勝なことで、とため息とともに言葉を吐きだしたのは、少し前に新しい家族として迎え入れられた女だった。豊満な胸にむきだしのふともも。アンネに寒くないのかとよく心配されているが、温暖なホウエン地方ではむしろ、アンネの服装の方が暑くないのかと突っ込まれてもおかしくない。
 
「晶(あきら)だって好きでしょ、アンネのこと」
「いやいや、アンタの“好き”と一緒にしないでよね」

ドアの隙間から顔を覗かせるようにしていた晶が、忌々しいとばかりに顔を歪めて吐き棄てる。それでも、「好き」を否定しなかったということは、そういうことだ。ふふ、と笑った雛に、晶がもうひとつため息を追加した。

「……今日で、いいんだよね?」
「うん」

 今夜、アンネたちは旅に出る。ここホウエン地方を出て、船でシンオウ地方へ。目指すは、テンガン山の山頂。世界を創造したとされる神のおわします、遥か彼方の神殿。シンオウ地方で腕を磨いてきたポケモントレーナーたちですら、そこにたどり着くことはほとんど不可能だとされている。
 まず第一の関門として立ちはだかるのが、ひでんマシンと呼ばれる特殊なわざマシンの存在。道を遮る木を薙ぎ払い、巨石を押し、乗り越え、ときには打ち砕く。あるときは荒波を乗り越え、海流をくぐり抜ける。そしてまたあるときは風に乗り、暗く立ち込める霧を払って進む。険しい自然環境をポケモンと共に乗り越えていくために編み出されたわざの数々は、先人たちの残した知恵に等しい。それだけに、扱う側の技量が厳しく問われる。
 これらのわざマシンは、入手こそ容易ではあるものの、使用するにあたってジムリーダーの許可(バッジ)が必要とされる地方もあった。シンオウ地方はその規制が著しく厳しい地方のひとつとされている。
 ホウエン地方であれば、ジムバッジを持っていなくてもひでんマシンを使うことは暗黙の了解で、自己責任だとされているのだが、シンオウ地方ではそうもいかない。というのも、テンガン山という極めて特異な環境を擁しているこの地方において、バッジを持たずして険しい環境に足を踏み入れることは、死を意味する。
テンガン山は神域だ。山頂を目指すということは、命知らずと言ってもいい。
 だからこそ、シンオウ地方のジムリーダーのレベルは総じて高く、ひでんマシンに関してもシビアな規制が設けられているのであった。
 そして第二の関門が、アンネの親である。シンオウ地方を巡ることでさえ十分に危険だというのに、最も難関とされるテンガン山の、さらにその頂上を目指すということは、並大抵の努力では決して成しえないこと。その第一の関門と並べてしまうのはよそ者からしてみればおかしいと思われるかもしれないか、身内からすれば大真面目な話だ。
 アンネの旅立ちに最も難色を示しているのが、父親。アンネが旅に出ると言いだしたときの父親の顔は、もう夢ですら見たくない、とは雛。何度説得しても、危ないからと言って取り合ってくれないのだ。雛が大きくなって男らしくなってしまったことも、父親がイエスと言わないことに拍車をかけていたが、そんなことを当人たちが知る由もなかった。

「はい、これ」

 父親をどうやって攻略しようかと悩んでいるアンネ達にある日、母親が一枚のチケットを差し出した。

「お母さん、これ……!!」

 それは、ミナモシティ発の船のチケット。行き先は、シンオウ地方。チケットをしげしげと眺めた雛が、到着先の町を見て呟く。

「ミオシティ……大きな図書館がある港町だね」
「ええ。ミナモシティとミオシティの間には定期便があるの」

 折しも時刻はおやつどき。父親は夕方まで仕事で帰って来ない。内緒話にはもってこいのタイミングだ。驚きで未だにチケットへと目が釘付けになっているアンネの前に、母親がバームクーヘンの乗った白い皿を置く。
 バームクーヘンを見た雛が懐かしげに目を細めていることに気付かないまま、アンネはフォークを手に取った。現金なもので、ケーキを前にすれば、チケットは一旦置いておこうということらしい。
 晶の分だけ生クリームもモモンの実のコンポートも乗っていないのは、彼女が甘いものをそこまで好いていないからだ。生クリームやチョコレートのようなものは「どぎつい」と言って食べたがらない。だから、今日のバームクーヘンは甘さ控えめのものになっている。
さらに生クリームを追加しているアンネを見て一瞬顔をしかめた晶だったが、思い直してフォークで切り分けた年輪を口に運んでいた。

「これ、出発が真夜中だね……」
「だって、そうでもしないと出られないでしょう?」

 口の端に生クリームを付けたまま、アンネは目を見開いた。母親のいたずらっ子のような笑みを見て、固まること数秒。ゆっくりと、握りしめていたフォークを置いた。頭の中を駆け巡る、五年の月日。そのどれもが今となっては愛おしい、色鮮やかな思い出だった。
奇跡の七日間が終わり、八日目を迎えたアンネ達。手術が終わってからのリハビリは、過酷なものだった。もともと寝たきりだったアンネは、手術後さらに体力が落ちてしまい、手すりにつかまらず自立できるまでに三日、歩けるまで二週間。退院してからも、リハビリは続いた。人並みの体力を取り戻すまでに二年。
 手術後、車椅子は一度も使っていない。それはアンネの意思でもあり、主治医の指示でもあった。とはいえ主治医がリハビリに付き合ってくれるわけではない。ただ週に一回、五分だけ、テレビ電話でアンネの様子を見て、指示を出すのみ。

「アンネ、きつくないか?」
「ううん、大丈夫よ」

 父親は一度だけ、うまく立てなくてもがいているアンネに手を差し伸べた。決して手助けをしてはならないという、いっそ意地悪ともとれる主治医の言葉を投げ捨てて。
けれど、アンネはその手を取ることを拒んだ。

「昴さんはきっと、正しいから」

 目が回るほどに忙しい研究の合間を縫って、五分間をアンネの為に割いてくれていることが、どれほどすごいことなのか。ありありとその実感を得ることは、幼いアンネには出来ないことだった。ただ、彼の一見底意地の悪そうな言葉を全て鵜呑みにしなければならないという漠然とした使命感だけは、成長した今でも失われていない。
 だって、昴は笑わなかったから。アンネが、テンガン山の頂上まで、いちポケモントレーナーとしてたどり着きたいという夢を。
 地獄のようなリハビリの甲斐あってか、三年も経てば、アンネはどうにか同年代の子たちと並ぶくらいの体力を持てるようになった。けれど、これだけで満足することは出来なかった。もっと上を目指さなければ、テンガン山には程遠い。
 両親にとって、アンネがテンガン山を目指してひたむきに努力することは、良い事だった。リハビリで弱音を吐くことはあれど、サボることは一日たりともなかった。だからこそ、驚異的なスピードで回復できたのだから。元気な娘の姿を見ること以上に、親としての喜びがあるだろうか。
 けれど、アンネがトレーナーズスクールに通いたいと言いだしたときは、さすがに戸惑いを隠せなかった。シダケタウンにトレーナーズスクールはない。通うためにはカナズミシティまで行くしかないのだ。カナシダトンネルを通れば最短コースだが、途中で野生のポケモンに襲われないとも限らない。はじめは反対されていたアンネだったが、雛がその問題を解決してくれた。
 もとより彼は伝説のポケモン。彼を外で原型の姿に戻さないことは、家族の中で暗黙の了解だ。彼の力が借りられない以上、どうしても、あと一匹、アンネにはポケモンが必要だった。そのチャンスを、雛は図らずも作りだしたのである。

「晶ちゃん、ありがとうね」
「何だい突然……」

フォークをくるくるとまわしていた晶が、困惑した顔でアンネの方を見る。

「なんでもない!今日は早く寝よ!」

 出発は真夜中。いつかのひとりっきりの大冒険を思い出して、アンネの口が、にんまりと弧を描いた。
 やっぱり出発の夜は、星がきれいな晩だと決まっているのだ。


*******



 深夜、多くの命が眠りにつく頃。
 雛はアンネの身体をそっとゆすった。やっぱり寝ないで出発の時間を待とうと言っていたアンネを、半ば無理やり寝かせていたのだ。真夜中といえど、船に乗ったら、興奮して眠れなくなってしまうだろうから。
 
「ん……」
「アンネ、行こう」
「……ん」

 寝ぼけ眼なアンネの目の前に、雛がリュックを置く。ぎっしり荷物の詰まった、新品のリュックサック。それを見た瞬間、アンネの目がぱっちりと開いた。きらり、流星のように瞬く瞳。

「うん、行こう、スゥちゃん」

 腰にボールホルダーを付けて、晶が入っているか確認する。リュックサックを背負い、母親からもらったシンオウ行きのチケットを握りしめた。
 そっと、音を立てないように、雛が念力でドアを開ける。いつもならこんなことしちゃいけない、と怒るアンネも、今回ばかりは彼の魔法使いのような力に頼るほかない。
 抜き足差し足、玄関へ。原型の姿でふよふよと漂う雛は、耳をそばだてながら、アンネの背中を追う。無事に玄関へとたどり着いたとき、ふたりは顔を見合わせて、触れ合う程度のハイタッチをした。
 
「……?」

 靴を履こうとしたアンネが、異変に気付く。固まってしまった彼女に気付いて、雛が肩越しにアンネの視線をたどった。
 そこにあったのは、新品ピカピカのスニーカー。両親のものにしてはあまりに小さい。そして、いつも自分が散歩のときにはいていたスニーカーが、下駄箱のどこにも入っていなかった。
 そうしてしばらく視線をさまよわせていると、雛がアンネを小突く。雛が指さしたのは、新品のスニーカー。左の靴の中に、小さな紙が入っている。丁寧に折りたたまれていることから、型崩れ防止の紙でないのは明らかだ。
 そっと折りたたんである紙を広げると、それは手紙だった。見慣れた字体に、アンネは目を見開く。彼女の前に回り込んだ雛が、上から一緒に紙を眺める。ふたりが小さく息を呑んだのは、ほぼ同時だった。

きっと、引き止めても行ってしまうんだろう。
昔から頑固なアンネのことだ。
そっと抜け出してでも、ね。
いつか、この日が来ると思っていた。
だから、見送ることにしたよ。
シンオウ地方に、この靴で足跡を残してきておくれ。
父さんより   


 ぽろ、と新品の靴を、涙が濡らした。くしゃっと手紙を握りしめ、アンネは、声を押し殺して泣く。雛が背中から伸びるカナリア色の帯で、やさしくアンネの髪を撫でた。その雛の表情も、何かを堪えているように、かたいものだった。
 新しいスニーカーの靴紐を、ほどけないようにかたく結び、アンネは立ち上がる。雛がそっと開けたドアを通り抜け、玄関を振り返った。
 12歳。一般的な子供たちよりは、少しだけ遅い旅立ち。
 それは、本当に、星が降るような夜だった。


モドル
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