玄武岩


 黒くしなやかな肢体が、フィールドを駆ける。口の端から漏れ出す烈火の欠片は、周囲の空気を揺らめかせていた。ライトに照らされ、ビロードのようなつやを放ちながら、白い鉤爪が気まぐれに地を掻いて、飛び跳ねた。軽やかで重力を無視した動きは、戦闘でなければ見とれているほどに華麗なものだった。
 体内で燃えている炎が活性化しているのか、盛んに舌を出して大きく息をしている。その度にゆらぎゆらめく景色を見つめて、アンネは熱い空気を吸った。

「玄、かえんほうしゃ!」

 業火を惜しみなく吐き出す。それと共に、鼻を刺すような臭いがして、アンネはニット生地の袖口で鼻を覆った。こればっかりはどうしても慣れない。熱風が収まるまでしばらくそうしていようかとも思ったが、バトルは待ってくれない。相手が動き出したからには、立ち止まっていられないのだ。

「ゴローン、がんせきふうじ!」
「かわして、スモッグ!」

 地面を割って飛びだしてきた鋭い岩の間を軽やかに走り抜け、毒霧が放たれる。悪魔のようなしっぽが陽気にひらりと揺れ、勢いをつけるように後ろ脚をぴしりと叩いた。そのままゴローンの上に乗っかり、至近距離でもう一度、ヘルガーは大きく口を開けた。濡れた白い牙が覗く。毒霧のツンとしたにおいが鼻をついて、背筋がぞくりとした。燃える色をした瞳が、キュッと細められる。狩るものとしての本能が剥きだしになった顔で、ヘルガーは紅蓮の炎を解き放った。

「ゴローン、戦闘不能!」
「玄、戻って!」

 再度、今にも技を放ちそうな玄を、アンネは慌ててボールに収めた。未だにバトルとなると突っ走ってしまうのは困りものだが、少しは息が合うようになってきた実感もある。いきなりボールに戻されて驚いているのか、しばらくボールはかたかたと揺れていた。
 観客席で見守っていた雛がやってくるのをみとめて、アンネはにっこりと笑みを浮かべた。

「スゥちゃん、勝ったよ!」
「お疲れさま」

 これでまた一歩、テンガン山に近づいた。その証が、アンネの手のひらに。
もうそのままアタシが戦っても良かったんだけど、と少し物足りない顔をした晶が、先回りしてジムの扉を開け、アンネを待っている。さっきバトルしたばかりだというのにぴんぴんしているから、本当に余裕があったのだろう。晶は一度だけ玄の入ったボールに視線を落としてから、アンネが先に出ていったのを見届けて、ゆっくりと扉を閉めた。
 クロガネジムをあとにして、近場のカフェで一息。落ち着いた雰囲気のカフェは、テーブルごとに仕切りがあってくつろぎやすい作りになっていた。小さくジャズピアノがBGMとして流れる店内で、甘いものが身体に染みると言って頬を緩めるアンネを、雛はのんびりと眺めていた。彼がぬるくなった酸味の強いコーヒーをすすっていると、眉根を寄せてアンネが口を開いた。

「スゥちゃん、それおいしいの?」
「飲んでみる?」
「絶対やだ……」

 口の端についた生クリームを拭きながら、アンネがもごもごと答えた。ナナの実のショートケーキは半分ほど彼女の胃袋に収まっている。口直しに紅茶を一口飲んで、またフォークを握る。
 相変わらず苦いのものが好きではない彼女は、コーヒーもミルクと砂糖をたっぷり入れなければ飲むことができない。一方、雛はブラックコーヒーも飲めるようになっている。相変わらずピーマンは苦手のようだけれど。本人はそれが出ても何でもないかのように振る舞うが、ちゃんとアンネは気付いていた。
 ケーキを片付けてから先程手に入れたばかりのバッジをケースから取り出し、しげしげと眺める。それから、丁寧にきめの細かい布で磨き、バッジケースに仕舞った。カナズミと同じタイプを司るジムだったのに、バッジのかたちは全く異なっている。これからいろいろな形のバッジを集めていくのだと思うと、わくわくした。まだ空白がいくつもあるバッジケースは、各々のバッジのかたちに口を開けて、その時を待っている。

「僕、がんばった、?」
「うん、玄は頑張ってたよ!晶ちゃんも、ありがとう」

 熱々のココアをちびちび舐めるようにして飲んでいた玄が、嬉しそうにはにかんだ。ゴキゲンなのか、腰のベルトの余った部分が揺れている。悪魔のしっぽのような形をしたそれは、服なのにどうしてか、玄の気分に合わせて揺れるのだ。

「ママから、ほめられる、の、うれしい」

 彼は、見た目不相応のあどけない笑みを見せた。唯一、アンネのことを“ママ”と呼ぶ玄。雛もそう呼ぶことはあるけれど、今となっては冗談を言う時だけだ。
熱いからという理由で、スプーンを使ってココアを飲もうとした玄の手を、行儀が悪いと言ってぴしゃりと晶が叩いた。晶と並ぶと、彼女の初雪のような肌のせいで、玄の褐色肌が際立つ。温暖な、それこそホウエン地方にいそうな肌をしている。手の甲を叩かれた瞬間に、玄の耳の上から白くて大きな角がひょっこりと顔を出したので、思わずアンネは笑ってしまった。ふと気が緩んだときに出てしまうらしい。擬人化した時でも原型とそっくりな反応を見せるところが可愛いと思った。

「すっかり飼い馴らされたみたいで」

 満足気に呟いてコーヒーを飲み干した雛は、頬杖をついて玄を眺める。アンネにとっては好意的な視線、としか見えていないのだが、その実雛は面白い生き物を観察するような視線でもって玄を見ていた。それが分かっているのは晶だけだったのだけれども。
 有り金を確認してから、用心深く鞄の奥底に財布を仕舞い込むアンネ。花火大会の時に盗まれて以来、ずっとこうしているのだ。幸い彼女の財布は戻ってきた。おまけに、犯人も判明している。
それが今、彼女の後ろをついて歩いている玄だ。

「アタシは今でもちょっとどうかと思うんだけどねえ」

 スリに遭ってしまった翌朝、アンネが目を覚ますと、1匹のヘルガーが鎖で拘束されて部屋に転がっていた。犯人を捕まえた、と得意げな顔をする雛と、少し引き気味の晶。どういう方法かは分からないが、雛は夜の間にカタをつけてしまっていたのだ。念力で財布の在処を辿れないのは彼が悪タイプを持っていたからだと気づいた雛は、どうにかこうにかヘルガーを拘束することに成功していた。
 寝ぼけ眼だったアンネは飛び起きて、雛から渡された自分の財布を確認し、安堵した。現金はともかくトレーナーカードさえあればポケモンセンターに泊まることができるから、野宿は避けられる。それは極寒の地方での旅においては、最も必要なものだった。
 ヘルガーの処遇については、もちろん晶がジュンサーさんへ引き渡すことを提案したのだが、アンネがそれを断った。ちょうど炎タイプが欲しかった、と。そんなのんびりとした危機感のないアンネの返答に、思わず怒りを通り越して呆れてしまったのを、未だに晶は何度も思い返し、その都度溜め息をつく。泥棒に対して怒るでもなく寛容な姿勢を示すというのはある意味尊敬に値するが、それにしても、少し危機感がなさすぎる。

「あなた、名前はある?」
「く、ろ、」
「クロね?」
「そう、クロ、もらった、名前」

 話すためにと一時的に鎖を解かれ、擬人化したクロの顔がわずかに歪んだ。またすぐに雛が指先ひとつで両手両足に鎖を巻きつける。
 ぼさぼさの黒髪は傷みもなく、櫛でとかせばきっとサラサラになるはずだ。小麦色の健康的な肌をしているのに、猫背でぼそりぼそりと喋るから、不気味な感じがする。鎖も相まって、犯罪者が懺悔しているように見えなくもない。……いや、その実彼はしてはいけないことをしてしまったのだけれど。

「あなた、おうちは?」
「もう、ない、なくなった」
「じゃあ、一緒に来る?」
「……あい、して、くれる、なら」

 そう言って、彼はアンネの手を取った。“クロ”という名前と、曖昧な記憶だけを持って、彼はアンネのモンスターボールに収まった。そしてついた名前が玄。身体の色が玄武岩のように黒いから、と彼女が命名したのだ。

「うーん、愛するっていうのがよく分かんないんだけど……」
「まあ、可愛がってあげればいいんじゃないの?」

 雛の投げやりな言葉の裏には、楽しそうな響きがこもっていた。雛がこしらえた、玄の足についている鎖は、歩く分には申し分ないほどの長さで、不思議とよく似合っていた。一種のアクセサリーのようにも見える。歩く度にジャラジャラと音がするから、ふらっとどこかに行ってしまうこともない。犬の散歩で手綱を握っているのと同じ役割を、鎖は担っていた。
 はじめは足の鎖も外した方がいいと言ったアンネと晶だったが、玄は鎖の音が気に入ってしまったらしく、大して嫌そうでもなかった。走ることもできるし、水たまりを飛び越えることもできる。負担にならないならば、とアンネは納得した。
 犯罪者か奴隷を引き連れているように見えやしないかと思っていた晶も、街中を歩いていて特に刺々しい視線を感じなかったため、まあいいかと承諾した。当の本人がお気に入りなのだから仕方ない。女物のような黒のハイヒールに、じゃらじゃらと涼やかな音の鎖。それが玄だった。

「可愛がるっていっても……。じゃあ、ママにでもなればいいかな」
「ま、ま?」

 初めて聞いたとでも言う風に、玄が首をかしげる。その様子にあの日の雛が重なって、アンネは目を細めた。いつか見た光景。限りある心臓の鼓動を使いきってしまってもいいと思うほどの、大冒険。その成果。

(私は玄を、守り、育て、慈しみ、愛する)

 その言葉のどれもが重たすぎて、アンネは何も口に出来なかった。昔の私ならば陽気に言ってのけたのかな、とも思う。当時は言葉の重みなど知らないままに「ママになる」と言っていたから。
 今なら少しだけ、分かる。守ることも、育てることも、慈しむことも、愛することも、すべてすべて、完璧にできるひとなどいないのだということが。今の自分では、側にいて、一緒に旅をするだけで精一杯だ。ただでさえ、自分は雛に幾度も助けられてきた。きっとこれからもそうなのだろう。何か雛にしてあげたいと思っていても、雛はすべてを指先ひとつで、自分の力で済ませてしまう。今回だって、そうだ……。
 意識が沈みそうになっていたところを、じゃらりという鎖の音で引き戻される。

「私はあなたのママだから、ずっと一緒にいてあげる」

 だから、今の自分が言えるのはこれくらい、なのだ。

「火傷痕、もう治った?」
「うん、もう大丈夫だから」

 隠していたのにな、と苦笑する雛に、得意げな笑みを見せるアンネ。うそつき、と言って指をさす。頬杖をついていた雛の、ひらひらとした袖口。そこからうっすらと痛々しい噛み痕と火傷の痕が、しっかりアンネには見えていたと気付いた彼は、一層困ったように顔をくしゃりとさせた。
 傷跡を付けた当の本人は、運動して、甘いものを食べて、満足してしまったのだろう。こくりこくりと舟を漕いでいる。暢気なものだ。人目も気にせずこうして今自分がしたいことをしてしまうところが野良っぽさを感じさせる。

「ちゃんとジョーイさんのお薬塗らなきゃダメだよ」
「はーい、ママ」

 いい返事、と満足したアンネが、リュックの奥底から財布を取りだす。晶が玄の頭をすぱんと叩いて玄の舟を止めた。
 温かい飲みものを飲んでも、甘いものを食べても、外に出れば、また冷たい空気が身体中を突き刺すだろう。痛いほどに。けれど、これはうれしい痛み。生きているから、痛いと思える。

「さっむーい!」

 風除けのために、アンネがぎゅっと雛の服の裾を握って背中側に回った。彼女に手招きされた玄が近づくと、アンネは腕を組んだ。服越しでも触れているところが温かい。

「ほら、晶ちゃんも!」

 しぶしぶ玄と反対側に立った晶が、アンネの手を握る。氷のような冷たさを持つかに思われた晶の指先は、意外とほんのり温かい。アンネの頭の中を”あついしぼう“という言葉が一瞬駆け抜けたが、振り払った。どう見たって晶の脂肪は胸部に集中しているし、スタイルはかなりいい。いわゆる出るとこは出ている体型だ。きっとポケモンは多少の環境変化にも柔軟に対応できるから、そこまで寒いと感じないのだ。シンオウ地方に来たばかりの頃は、意地を張って寒くないと言っていたのかと思っていたけれど、どうやら違うようだった。
 すでに冷え切っている己の指先を晶のそれにぎゅっと絡ませると、晶は少し驚いた顔をしたものの、すぐに無表情のまま歩きだした。引っ張られたアンネは、真正面にいる雛の背中に顔から突っ込むことになる。

「顔が寒くなったの?」
「ちがう!」

 雛に茶化されて膨らんだアンネの頬を、雛が両手で押しつぶす。大きな手のひらの温もりに、アンネは目を細めた。

「ほら、やっぱり寒いんでしょ」
「寒くない!」

 うそつき、と笑う雛は、心の底から慈しむ目をしていた。


モドル
- ナノ -