ナカゴボシ


 ミオシティは、静かで小さな港町だった。
 朝陽が昇る時間帯が随分と遅いことに驚きつつも、アンネ達は無事船旅を終え、ポケモンセンターに宿をとる。もう太陽は真上まで昇っているというのに、うすら寒い。アンネは厚手のカーディガンの裾を引き伸ばして、冷たい指先を隠した。
 突き刺すような海風を避けようとして、雛の背中を盾にすると、雛にぽんぽんと頭を撫でられた。ホームシックになったとでも勘違いされたのだろうか、とアンネの頬が膨れる。一番寒そうな格好をしている晶が、それを生温い目で眺めていた。肩をすくめたのは寒さのせい、だけだろうか。

「どこかでお昼ご飯食べよ」

 港町というだけあって、海辺がこの街の中心部になっているようだった。海沿いに、飲食店街が軒を連ねている。遠方から来た観光客向けの店もあれば、船乗り達が好みそうな、安くてボリュームのあるメニューを扱う食堂もあった。
 とりあえず適当に入ってみると、カレーのいい匂いが鼻をくすぐる。この店はシーフードカレーが売りのようだ。ここでいいかと尋ねるアンネに、雛と晶はこっくりとうなずく。美味しそうな匂いをかいでしまった3人の胃袋は、もうカレーのためのスペースを作って待ち構えていた。

 胃袋を満たしたアンネたちは、図書館へと向かう。もともと本の虫だったアンネとしては、ミオシティの図書館は憧れの場所だった。5年前の自分ならば、ここに来ることができるなどとは夢にも思わなかっただろう。ほんのり夢心地のまま、アンネは雛と共に図書館へと足を踏み入れた。

「あっ」
「なに?」

 図書館なので、控えめに、けれど十分に驚きのこもった声を上げた雛。その息を呑むような呼吸を、アンネの耳が拾い上げた。振り向くと、雛の視線がとある本に吸い寄せられている。横から雛の視線を辿ったアンネも、雛と同じように、小さく息を呑んだ。静謐さに満ちた場所でなければ、興奮して叫んでいただろう。何度も手に取り、内容もそらで言えるくらい読みこんできた本。それが、目の前にあった。


人と結婚した ポケモンがいた
ポケモンと結婚した 人がいた
昔は 人も ポケモンも
おなじだったから 普通のことだった



 シンオウ神話。小さい頃、読んで欲しいと雛がよくねだっていたことを思い出しながら、アンネは古ぼけた本の背表紙を指でなぞった。字の部分の金箔はところどころ剥がれ落ちている。随分と古い本のようだ。奥付を見てみると、アンネが生まれるずっと前に出版されているものだった。しかし、シンオウ神話は紙の本など存在しない、遥か昔から語り継がれている。シンオウ神話のはじまりからしてみれば、この本ですら赤子のようなものなのだろう。もとは白かったであろう、茶色く変色したページをぱらぱらとめくっていると、最後の方のページに、真新しい紙が挟みこんであった。
 つるつるとした触り心地で薄いそれは、チラシのようだった。夜の港に、大輪の花火。ミオシティの波止場で開催される、花火大会のお知らせだった。しかも、日付は今日だ。行かない手はない、と雛を手招きして、チラシを指さすアンネ。とっくの昔に文字の読み書きを習得してしまっていた雛は、チラシとアンネの顔を交互に見て、にっこりとうなずいた。

 しばらくしてから、ポケモンセンターのロビーで晶と合流したふたり。晶は図書館ではなく、港の方を散策していた。彼女は細かいことを考えるのがあまり好きではないのだ。そもそも人間のモノに触れる機会も少なかった晶は、文字の読み書きもできない。けれど、彼女も花火大会のことは知っていた。

「海辺をぶらぶらしてたら船乗りたちに声をかけられてね」

 年に1度行われる花火大会は、海の上から打ち上げられる花火を、波止場で鑑賞するというものだった。花火というと暑い夏の夜をイメージしがちだが、そういう季節は日没の時間帯が遅い。それに、寒い地方の空は、空気が澄んでいて、花火がよく映えるのだという。
 船乗りたちから輸入品だといっておすそ分けしてもらったらしい辛いポロックをかじりながら、晶がチラシを眺めていた。ホウエン地方出身としては珍しい味ではないが、懐かしくはある。アンネたちがすでに花火大会の情報を入手していたことでがっかりした顔をしていた晶だったが、花火大会に行くこと自体は楽しみにしているようだった。すらりとした、けれど肉付きの良い足を組み替えて、頬づをつく。そんな彼女の様子をじっと見つめていたアンネは、ぽつりと呟く。

「晶ちゃん、寒くない?」
「ん?ああ、それは問題ないよ」

 あついしぼう、と小さく呟いた雛に空のポロックケースを勢いよく投げつけながら、朗らかに晶が答える。ちなみに、晶の特性はあついしぼうではなくちからもちだ。そのせいか、結構な勢いで飛んできたポロックケースは弾丸のように雛の額めがけて一直線。すんでのところで念力を使って受け止めていなければ、確実にあざができていたことだろう。
 いやな汗をかいた雛は、そのまま簡素なパッケージ用のポロックケースをゴミ箱へと指先ひとつで放り投げた。
 
 日没後。海面を、ゆっくりとすべるように動く船の群れ。ちかちかと瞬く小さなライトは、互いに合図を取り合っているようにも見えた。
 波止場の一角を陣取ったアンネたちは、屋台で購入した焼きそばを食べながら、花火が打ち上げられるのを待っていた。腰にカイロを貼っておいてよかった、と思いながら、アンネは湯気の立つ焼きそばをすする。屋台の焼きそばは、暑苦しい熱気に包まれて熱いものを食べるのが醍醐味だが、ミオシティでのそれは、身体を温めるありがたい食べ物だった。
 いつもならばかき氷も食べておきたいところだけれど、とアンネは思う。さすがにこの気温でそういう気にはなれなかった。吐いた息が白いだなんて、ほとんど経験したことがないのだ。
 しかし、アンネが目指す場所は、ここよりもずっと寒いところ。コートやマフラーの準備も必要だ、と頭の中のメモ帳に刻みこんでおく。自分の分を買う時に、晶ちゃんの服も買おう、とアンネは思ったのだった。いくら本人が寒いと思っていなくても、見ているこっちが寒いのだ。

「そろそろかな」

 雛の言葉を聞いて、アンネが顔を上げる。すっかり夜の帳に包まれた港町。街の真ん中を通る大きな運河沿いの屋台は、いつの間にか静まり返っていた。花火が上がっている間は、地上の明かりも消してしまうらしい。海に浮かんでいるはずの船の明かりも消えていて、アンネの目には空も海も一様に黒く、全く区別がつかなくなっていた。

 闇を一閃。打ち上げられてたなびく尾。火花を軌跡として残しながら、空を目指して夜を裂いたそれは、自らの足跡が消えてなくなる直前に、大輪の花を咲かせた。一拍遅れて、ドン、と心臓を直接叩くような音。甲高く空気が鳴いて、ひとつ、またひとつと、空を埋め尽くしていく花火たち。色鮮やかな赤や青が散っていく下では、噴水のように白い閃光が幾筋も噴き出して、船の黒いシルエットを浮かび上がらせていた。

「私、あれが好きだな」

 打ち上げられる花火の合間を縫って、アンネが雛の耳元にささやく。といっても、人々の歓声に掻き消されてしまうから、普通のお喋りと何ら変わらない声量だ。ともすると、いつもより声を張り上げていたかもしれない。
 アンネが好きだと言ったのは、大柳。色こそ派手さはないものの、優雅に広がった光が名残惜しげにたなびくさまが美しい。きらきらと海に落ちていく小さな火花の欠片を、闇が包みこんでいる。
 大輪の花火が打ち上げられるたびに、子供たちが歓声を上げているのを聞き流しつつ、雛は目を細めてアンネの言葉に耳を傾けていた。少し目線を下げれば、まばたきするのすら惜しいといった様子で一心に空を見上げているアンネがいる。彼女の瞳は、色とりどりの光を受けて、きらきらと瞬くように輝いていた。
 ぽろり。首がつりそうなくらい上を見ていたアンネの目から、温かい雫がこぼれ落ちた。

「きれい、だね」
「うん」

 大きな音も、激しい光も、身体に負担をかけてしまうから。花火大会なんて、一度も行ったことがなかった。こんなにも、視界いっぱいに広がる光が、鼓膜を打つ音が、心を震わせるだなんて、知らなかった。知らないまま、部屋の中で、命を使いきってしまっていたかもしれない。
 ほどよく風が吹いているのか、次の花火が打ち上がる頃には、煙たい空気は彼方へと流れてしまっていた。星の光も、今は花火に場所を譲っているらしく、控えめに空の端っこでうずくまっているだけだ。
 
 あっという間に夢のような時間は終わってしまった。楽しく過ごした時間ほど、過ぎ去るのは早いものだ。軽いゴミ袋を指に引っかけて、雛は晶を見やる。耳の良い彼女にとって、花火の音は負担が大きすぎたらしい。頭が痛いと言って、顔をしかめていた。

「晶ちゃん、大丈夫?」
「心配しなくていいって。花火自体は楽しかったし」

 耳が痛くても、アンネの隣で一言も話さず、その場を動かなかった晶。彼女も、花火には心惹かれるものがあったらしい。眉間のしわは取れていないものの、口調は朗らかだった。

「うーん、ならいいけど……今日はゆっくり休んでね?」

 明日はシンオウ地方で初めてのジム戦。実は、アンネの財布の中に、ひとつだけジムバッジが入っている。それはシンオウ地方のものではなく、ホウエン地方の、カナズミジムのバッジだ。トレーナーズスクールの教官でもあるジムリーダーのツツジに挑み、勝ち取ったものである。晶は岩タイプに有利なのもあって、比較的安定したバトルを見せてくれた。
 しかし、シンオウ地方でもうまくいくとは限らない。ミオシティのジムは鋼タイプ使いだ。こちらも相手も、タイプとしては可も不可もない。だからこそ、その他の点で優位に立たなければ、勝筋は見えないのだ。
 出会ったころよりも随分と打ち解けて、砕けた口調で話せる仲になったアンネ達だが、バトルを共にこなした数は、周囲のトレーナーに比べればほんの僅か。ひとつひとつの戦いを大切にすることは意識しているものの、経験が足りていないのも事実。不安は多かった。
 穏やかに会話しつつ、人の群れの中を、のろのろと歩いて行く。人混みにもみくちゃにされているアンネの手を、雛がしっかりと握った。少し離れたところを、晶が歩いている。
 ポケモンセンターに到着する頃には、混雑も解消され、アンネたちは並んで歩くことができた。ロビーはまだ明かりがついていて、まばらに人がいる。時計を見ると、思ったよりも時間に余裕があった。ゆっくりお風呂に入っても問題なさそうだ。

「寝る前にココア飲も」
「ちゃんと歯は磨くんだよ?」
「もう、晶ちゃんったらお母さんみたいなこと言って!……あれ?」

 むっとしたアンネがリュックをまさぐるが、目当てのものが見つからない。さっと彼女の顔が青ざめたのを察して、晶が雛に鋭い視線を寄越した。そして、ヒールを鳴らして晶の背中が遠ざかる。

「盗られた?」
「うん、ど、どうしようスゥちゃん……!!」
「どこだろうね……」

 足早に借りていた部屋の中に入り、目を閉じた雛。元の姿に戻った彼を見て、アンネが慌ててカーテンを閉じる。

「おかしいな……見つからない」

 人の姿に戻った雛が、首をかしげる。

「アンネ、本当にリュックの中には入ってないの?」
「本当に入ってない!」

 ええいままよ、とリュックを逆さまにして中身を全てテーブルにぶちまけたアンネ。トレーナーとして必要な道具一式に、ペットボトルに入ったお茶、ハンカチにティッシュ……。財布以外はすべてあるかのように思われたが、アンネは、食べかけのお菓子が入っていないことに気付いた。晶ちゃんが買ってきてくれたポロックが、まだ少し残っていたはずなのに。
 中身を再びリュックの中に仕舞い込んでいると、カツカツと焦ったヒールの音が接近してきた。それがドアの前で止まり、勢いよく晶ちゃんが部屋の中に飛び込んできた。

「ジュンサーさんには連絡してきたけど、あんまり期待しないでくれって……」
「そっか……どうしよう……」

 冷蔵庫からおいしい水を取り出して、一気飲みした晶が、どっかりとアンネの隣に腰を下ろした。ソファが彼女の重みで沈みこみ、またそれを跳ね返す。アンネの身体がそれに合わせてひょこりひょこりと揺れた。
 あれだけの人混みだったのだから、いつ盗られたのかもわからないし、犯人らしき人物がすぐに見つかるとも思えない。
 今後の対応を話し合っている雛と晶の会話を聞きながら、ぎゅっと長めの袖を握りしめるアンネ。こんなとき、どうしたらいいのか。ちゃんとトレーナーズスクールで学んできたはずなのに、いざ自分がその立場におかれてしまうと、頭が真っ白になって、不安ばかりが心の中を独占する。りあえず、今日はもう寝ていいと言われたものの、“おや”である自分がふたりに任せっきりなのが申し訳なくて、アンネはシンオウ地方での初めての夜を、眠れないまま過ごした。
 ……後々、財布も中に入っているトレーナーカードも無事に見つかるのだが、それはまた別の話。期待と不安に満ちた彼女たちの旅は、まだまだこれからも続いていくのだから。


モドル
- ナノ -