凪いだ吹雪がゆるりと眠る

子どもは風の子だなんて、一体誰が言い出したのだろう。目の前に果てしなく広がる純白のやわらかな絨毯に、ライラはうずきを我慢することができずに走り出した。



テンガン山から初日の出を見ないかという話になり、一も二もなくホウエンはミナモシティの港から、シンオウ行きの船に飛び乗ったのが昨日のこと。港で出迎えてくれたのは、龍卉とゼルだった。
こちらの地方のジムバッジを所持していないライラがすぐさまテンガン山に行くには、ゼルと共に“空を飛ぶ”しかない。

「重たくない?」
『正直に言っちゃっていーワケ?』
「やっぱ何でもない」

ケタケタと笑う緑龍は、ふわりと美しい羽音を奏でる。冷えて研ぎ澄まされた空気のせいか、その歌声は寒空に冴え渡っていた。
かじかんだ鼻の感覚がなくなって、はたして自分の顔に今、鼻はついているのか、もう風で吹き飛ばされてしまったのではないかと不安になってきたころ、ゆっくりと龍卉が下降を始めた。高度が下がっているのに、あまり暖かくなったとは思えない。
ゼルがライラの背から離れ、地面に足をつけて初めて、彼女は背中が温かかったことを悟った。

大きく身震いして、鼻と同じくらいかじかんだ手でバランスをとりながら、そろりそろりと地上に降りる。雪が踏み固められた地面は踏み慣れない凹凸をはらんでいて、足場が悪い。長時間同じ姿勢でいたせいもあり、冷え固まった身体は平衡感覚を失ってぐらついた。

小気味よい音を立てて開いたボールから、赤い光を残像のように纏った影が飛び出して、ライラの腕を力強く掴んだ。もちろん鋏ではなく、擬人化した人間の腕で、だ。

「大丈夫ですかい?」
「あ、りがとう朱羅……!」
『チッ』
「おい」

ボールの中から聞こえてきたパートナーの舌打ちを、ライラは聞き逃さなかった。
腰につけていたホルダーからボールがぽんぽん弾けて、カラフルな面々が現れる。ホウエン地方では決して味わうことのない段違いの寒さに、身体の芯から凍り付くようだった。けれど、ここはテンガン山の麓。初日の出を見るならば、もっと上まで登らなければならない。
いくつかある山腹のロッジはこの時期予約が殺到するのだが、運良くゼルはその一室を押さえていた。

「とりあえず今日はロッジまで行って、それから夜中にそこを出る」
「はーい!」

長距離飛行の労をねぎらい、ゼルは龍卉をボールに戻して歩き出した。ライラがそのあとを追う。
やがて新雪をさくさくと踏みしめられるような場所になり、地面の傾斜も山のそれになってきた。刺すような空気を白い息に変えて、山道を踏みしめる。どうしたってコンパスの差は埋まらなくて、やがて泰奈と雷瑠の足取りが重たくなり、少しずつ集団から引き離されていく。ふと振り向いたライラがそれに気づいて前方の銀髪の男を呼び止めようとしたとき、彼の足が止まった。

「その中に入るの?」
「ああ」

ぽっかりと開いた穴は大人がふたり並んで入れるくらいだ。洞窟の中なら、雪風もしのげるだろう。それに、中の方が慣れない雪山の道よりも歩きやすいかもしれない。これからさき、吹雪かないとは限らないのだ。テンガン山は頂が雲に隠れて見えない上に、年中雪に覆われているというから、てっきり毎日吹雪が吹き荒れて人を寄せ付けないものだと思っていた。しかし、今はどうだろう。冷たい風は吹くものの、凪いでいる時間の方が長いと感じられるし、雪もちらつかない。山が迎え入れてくれたようだと思うほどに。

洞窟に入ってすぐ、ゼルはおもむろに近場の岩へ腰を下ろした。ちらりと肩で息をしている赤い鼻の泰奈を見やり、休憩するか、と呟く。その言葉を皮切りに、雷瑠が固い岩に背中を預けた。
洞窟は仄暗い程度で、新雪のまぶしさにやられた眼が馴染むのにはかなりの時間がかかった。とても静かな空間に、いくつもの足音だけが反響する。

「ボールに入ってもいいのに……」

手袋をした手で足をさすりながら、ライラが零す。しかし、雷瑠も泰奈もそろって首を横に振るのだった。

「せっかくお外、きれいなんだもん」
「そうなの、です。それに……その、れ、麗音にいさまの方が」

泰奈が皆まで言わずとも、その場の全員が察した。麗音は原型の見た目が一番この中で雪に近いくせに、一等寒さに弱い。風の吹かないこの場所ですら、体育座りでガタガタ震えている。

「でも、さっきまで遅れがちだけど割と元気じゃなかった?」
「あ、あああああれは、う、ううううごいてた、たか、ら!」

まさに歯の根が合わないと言ったふうに意味のない音を混ぜつつ、麗音は真っ青な唇を震わせてライラに返事をした。苦笑した瑞稀がしょうがないですね、と自分の分のカイロを手渡すと、「おお女神さま」と言って跪いていたから、本当に寒がっているのがよくわかる。そのあと榮輝に後頭部を足で押さえつけられて必死にもがいていたから、少しは暖かくなっただろう。


さて、とゼルが立ち上がったのを皮切りに、みんながぞろぞろと動き出す。洞窟の中は風がなく、足場もしっかりしていて歩きやすい。けれど、どこか秘密の場所をこっそりと歩いているような、かすかな罪悪感に絡めとられるような気分がするのは、山の頂におわします主のせいだろうか。天顔とも読める名を持つこの山は、まさに天子さまの姿そのもの、神聖さの象徴ともいえる圧倒的な存在感と厳しさとを、純白の内に秘めていた。

暗闇に慣れた目が、次第に明るさを感知していく。きゅっと瞳孔が狭まって、山の外側が近いことを告げる。

「天祇も粋なことするもんだ」

臆面もなく天子の名を口にしたゼルは、わずかに口角を上げた。彼の少し長めの髪がなびいて、映し出された光景にさらりと溶け込む。雪は地面に静かに、厚く横たわり、甲高く不安定にがなりたてる吹雪は鳴りを潜めている。雲間からは陽の光が差し込み、天使のカーテンが広げられていた。

子どもは風の子だなんて、一体誰が言い出したのだろう。目の前に果てしなく広がる純白のやわらかな絨毯に、ライラはうずきを我慢することができずに走り出した。

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