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前々から姉貴と俺で綿密に練られていた計画なのだ。失敗は許されないし、するつもりもない。実行するなら、他の支部に研究員の多くが行ってしまって警備が手薄な今日しかなかった。

けたたましく鳴り響くサイレン。続いて流された緊急放送に研究所は騒然となった。

「NO.4001脱走。直ちに捕えよ。生死は問わない!」

「…はぁ、はぁッ……」

無機質で薄暗い廊下をノンストップでひたすら走る。くたびれた足はとうに痛みなど忘れてしまっているうえに、肺が酸素を求めているが、当分それには応えてやれそうにない。休んでいる暇などないのだ。追手は待ってくれない。

手首にまだ残っている、鎖の感触を振り払うようにして腕を振り、走り続けた。
長い長い廊下を、懐かしい匂いを目指してひたすら突き進み、いくつもある鋼鉄の扉のひとつで足を止める。……見つけた。


[NO.4000]と書かれた冷たい金属性の扉。思い切り睨み付けるが、やはりそれだけではびくともしなかった。

「……」

乱れた呼吸を整えることもなくその扉の前に手をかざし、強く念じる。
扉はメキメキと音をたてて歪み、凹み、圧縮され、ゴトリと床に落下し無惨な鉄屑と化した。トドメに数字が羅列されたプレートをぐしゃりと踏みにじってやる。二度とこの忌々しい数字を拝まなくていい日が、今日だ。
顎から汗が滴って、タイルの床に落ちた。

さあ、早く。

はやる心を抑えきれずに、疲れも痛みも忘れ部屋の中へと飛び込んだ。

「姉貴ッ、逃げよう!……え?」

鎖で両手と首を繋がれた姉貴は、虚ろな目をしてどこか遠くを、自分ではない何かを見ていた。薬の副作用か。もう一度、強く念じて檻を変形させ、歪んだ鉄格子の隙間から、空っぽの姉貴のもとへと向かう。間に合え間に合え頼むから!錆びて劣化した両手の鎖は、いとも簡単に引きちぎることができた。しかし首の鎖はなかなかに頑丈で、サイコキネシスをもってしてもキズひとつつかない。

擬人化を解けないように特殊な加工が施されていたのは知っているが、自分のそれは、ここまで頑丈ではなかった。だから、金具を壊してここまでやって来られたのだ。

姉貴はボロボロなのに。
この鎖はキレイなのか。

「くそッ…姉貴しっかりしろ!逃げようッて、一緒に逃げるて言ってたじゃねェか!?」

肩を強めに揺らせば、虚ろな目にようやく自分が映った。ついぞ拝んでいない、朝焼けを追いかける空の色。そこい、ぽつりと俺の、情けない顔が浮かんでいる。

「あ、」
「姉貴、実行は今日だろ?」

瞳が光を取り戻す。安堵して抱き締めれば、受け止めて抱き返してくれた。以前よりも頼りなくやつれた、細い身体に愕然とするが、暖かく柔らかい匂いは変わらない。

「…迎えに来てくれてありがとう。ねぇ、これから私が言うこと、よく聞いて?」

抱きついたまま姉貴を見上げる。まだ自分よりも身長が高いのか。生まれた時間に対して差はないというのに。いや、もしかしたら姉貴は俺よりも実験がうまくいって、皮肉なことに、少しはマシな食事が与えられているのかもしれない。
まあ、今はその位置譲っておいてやるよ。これから追い越していけばいいさ。なにせ時間は、

「時間が無いの。貴方だけでもいいから、逃げて。今の私はただの足手纏いだから。一緒には、逃げられない」

まっすぐに目を見て放たれた言葉に瞠目する。きっぱりとした口調にはためらいなど欠片も無かった。

「な、に…言ってンだよ」

こんな、命を数字の羅列で処理するようなところに残る気か。俺だけ逃げろと。
そして自分だけ毎日訳のわからない薬を飲まされ、痛め付けられ、ろくに手当てさえしてもらえずに地獄のような日々を過ごすのか。

「もう追手がすぐそこまで来てる。もう私は技をつかう力も逃げる体力もないの。だから、」

「だから何だよ!?計画はどうした!?俺だけおめおめと、姉貴置いて逃げろっていうのかよ!!ふざけ…」

言葉は最後まで発音されることなく、虚空に消えた。初めて姉貴が泣いているのを見た。

何だよ。何で泣くンだよ。何で泣きながら笑ってンだよ。俺より姉貴の方がずっとずっと辛くて苦しいはずなのに。なに俺のコトばっか考えてンだよ。

「どう、して…姉貴は…姉貴はそれでいいのかよ……」

嫌だと言ってくれ。そう言ってすがるように見上げた姉貴の顔はやっぱりキレイに、首の忌々しい鎖なんかより遥かにキレイに微笑んでいた。

「私は大丈夫だから」

ウソだ。

「また会いましょう」

大ウソだ。

「大好き」

「バカ姉貴ッ……」

「じゃあ、あんたはバカの弟じゃないの。……ほら早く、」

「嫌だッ」

「早く行きなさい!!」

姉貴が叫んだのと追手が現れたのはほぼ同時だった。

「捕まえろ!」

「捕まえられないなら殺せ!」

「早くしろ!」


我を忘れた哀れな操り人形と化したポケモン達がクズどもの命令で一斉に飛びかかってきて、足がすくんだ。檻の中、逃げられない場所でうずくまっている俺たちに、逃げ場はどこにもない。とっさのことで、身体が震えて言うことを聞いてくれなかった。
思い切り目をぎゅっと閉じ、身を硬くするも、衝撃はいつまでたってもやってこない。


「逃げて!!」

技が使えないなんて、逃げる体力が無いなんて、

「クソ姉貴ッ……」

ウソっぱちじゃねェか。俺がキズひとつつけられなかった鎖を粉々にして、その両手の指じゃ足りないくらいいる追手どもの動き全部封じといて何が「逃げて」だ!

「いいから、はやく!!」

俺が逃げる間だけ抑えておく気か。きれいごとばっか言いやがって。

「クソ姉貴なんか、大っ嫌いだ!!!」

次に会ったら一発殴ってやる。そう心に誓った。姉貴の挑戦的な微笑が脳裏に焼き付く。いい度胸してンじゃねえか。その顔ぐずぐずにしてやッからな。

生きて。

脳に直接響いた声。無駄に念力使うなよ。
これ以上は姉貴の体力が持たない。時間だって一刻も無駄にすることはできないのだ。
踵を返して走り出した。

未練?そんなもの……。


まだ俺を縛りつけていた鎖の効果は切れていないようで、なかなか原型には戻れない。擬人化して、こののろまな二本足走り続けるしかなかった。走って走って、こける。起き上がる。振り返ることなく逃げる。身体中が軋んで、酸素を求めて、目の前がくらくらした。

ちらほらと追手もやって来たが、それらすべてを人、ポケモン、関係無くがむしゃらに蹴散らす。


「どけッ!邪魔だァ!!」

怒号、悲鳴。そんなもの知らない。俺には関係ない。

「ああぁあァあッ!!」

シャドーボール、数人が宙を舞って地に落ち、動かなくなる。

「この化け物!」

白衣を着た男が喚いた。好き勝手に言うもんだ。こんなにしたのはお前たちなのだから、報いなら自分の身で受けてろ。ギガインパクト、ポケモンを数匹、叫んだヤツもまとめてぶっ飛ばす。ヤツの眼鏡のレンズが粉々に砕け散った。思ったよりも反動が大きくて、がくりと膝から力が抜ける。それでも立ち止まるという選択肢はどこにもなくて、ただただがむしゃらに這いずって進んだ。

分かれ道で迷っていると、四方八方から囲まれたから悪の波動。空中の奴等も残さず撃ち落とす。

「NO.4000が暴走!NO.4001も脱走!大人しくさせろ!脱走した方は殺しても構わん!」

「その名で、数字で…俺等を呼ぶなあァ!!』

ようやく身体に本来の感覚が戻ってきて、瞬時に原型に戻り、シャドーボールでで邪魔者ごと無理やり壁を抉って道を開く。出口が近いのだろう、外の匂いが強くなった。水と、草木と、新鮮な空気の匂い。

サイコキネシスで頑丈な鍵のかかった扉を蝶番ごとぶち破る。擬人化して壁についている出口の門のロックセキュリティシステムに暗証番号を叩き込んだ。姉貴が念力で割り出した番号は、果たして合っていた。

これだけは、毎晩姉貴と呪いのようにひっきりなしにぶつぶつと呟きあって脳ミソのシワに刻んである。計画では、俺が見張ってその間に姉貴が解除するはずだったのに。

頭の中は真っ白で、それでいて悲哀と憤怒の感情に満ち溢れていた。
痛みも疲れも感じている余裕すらなく、邪魔なモノはただひたすら排除した。


 
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