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かすかにこの時期特有の甘い匂いを嗅ぎ付けた鼻が、確かめるようにもう一度すん、と鳴った。今言って声を掛ければ怒るだろうか。それもいいかもしれない。でも、どうせなら出来上がったものを持ってきてくれるまで待っておいた方がいいのだろうか。今日ぐらいはちょっかいを掛けずにおいてやってもいい。
そう思って読み止しの本にもう一度手を伸ばそうとしたところで、後ろからため息が聞こえてきた。

「ンだよ姉貴」
「……あんた、さっきからずっとそわそわして。集中できないじゃないの」

同じく本を読んでいた俺の片割れが、イライラをぶつけるかのようにぱたりと強めに本を閉じた。ハードカバーなのも相まってなかなかの威力だ。眉間に皺を寄せて俺の方を睨んでいるが、正直言ってあまり怖くない。こうやって不機嫌そうな時の姉貴はそこまで怒っていないのだ。どちらかと言えば呆れている、と言った方が正しい。

「へェ?俺のことそォんなに気になッてンの?」

にやりと口元を歪めれば、姉貴の眉間が比例してグッと深く溝を刻む。おい、皺になンぞ。口から出かかった言葉を飲み込んだ。さすがにこれ以上はアウトだ。マジで怒らせちまう。もう一度ため息をついた姉貴は栞を挟んだページを再び開いて、下を向く。相手にしても無駄だと思われたらしい。釣れねェな。開いた口から洩れた言葉は、俺に向けられていた。

「はぐらかしてないでさっさと下に降りなさいよ。目障りったらないわ」
「うひャーそれ酷くねェ?」

軽く言ったつもりだったが、思いの外声音が沈んでいたことに自分で驚いてしまう。どうやら俺が思っている以上に、俺は落ち着かない気分でいるらしい。姉貴は目敏くそれに気付くあたり、さすが双子だと思う。逆に俺が姉貴の感情の機微に気づくかっていうのはまた別として。

もう一度本に手が伸びたが、どうにもページをめくる気になれなくて、結局姉貴の言う通り、俺は部屋を出ることにした。甘い匂いが強くなる方へと向かうと、予想通りの人物がキッチンにいた。いつも羽織っている暗い色のポンチョではなく、ラベンダー色のエプロンを身に着けていた。
俺の姿をみとめてはっとするも、すぐにいつも通り睨みを利かせてくる。何だって俺はいつも周囲の女性に睨まれてンだろうな。こんなに紳士だというのに。

「何シてんだ?」
「アンタには関係あらへんわ!シッシッ」

そこらへんのポチエナを追い払うような仕草で追い立ててきた。キッチンから俺を排斥しようとしてくる。ぐいぐいと背中を押されるがままになっているのも癪なので、くるっと身をひるがえしてやった。押すものを失った魅霊は腕を目一杯伸ばしたまま、つんのめる。ざまァみろ。

「何すんねん!」
「チッ」
「今、舌打ちしおったやろホンマに腹立つわー……!!」

すんでのところで踏みとどまり、息を切らしてがみがみと噛みついて来るがうるさいったらありゃしない。うるさいですよとばかりに両耳に指を突っ込んで見せれば、さらにでかい声で怒鳴ってくる。お前いつからハイパーボイス使えるようになったんだよと言うくらい結構頭に響く。

「ハイハイあっちに行きゃあイイんだろ?」
「そうや!最初から大人しく待ってれば……あ、」
「待ってれば?ンン?」

失言だ、とばかりに口を覆うがもう遅い。俺の口角が自然と吊り上がっていくが、どうにもそれは止められそうにない。にんまり。俺は今、最高に意地の悪い顔をしているに違いない。姉貴が見れば、それこそ本気で呆れた視線を向けてくるようなヤツを。

真っ赤になった魅霊の頬を見て、それから口を開こうとした瞬間、オーブンがぴろりろり、と鳴り響いて魅霊を呼んだ。天の助けとばかりに俺に背を向けた彼女を一瞥してから、わざとらしくこう口にする。

「イイ匂いがするなァ……」

大きな咳ばらいが2回ほど聞こえてきた。ちゃんと聞こえていたようで何よりだ。
椅子には彼女のポンチョが少々乱雑に置かれていたので、折りたたんでおいた。もうひとつあいている椅子の方に座って頬杖をついていると、ゴト、と少々荒めにテーブルへと皿が投げ出される。おいおいそれはちょっとないだろ。怒りすぎじゃね?と思ったが怒らせたのが誰なのかは考えるまでもないので黙っておく。こうなるならやっぱり下に降りてくるんじゃなかった、とも思うが、姉貴の言う通り何も手につかなかったのは事実だ。これでよかった、はずだ。

目の前で湯気を立てているのはココア生地のカップケーキのようにも見えるし、小さなガトーショコラのようにも見える。うすく粉糖がまぶされていて、なんとなくシンオウ地方の雪を思い出した。

「はよ食ってさっさとくたばればええわ」
「うひャー手厳しィ!」

ポンチョを鷲掴みにしてずかずかとまたキッチンへ引っ込んでしまった彼女をそのままに、俺はフォークを手に取った。焼きたてのそれにさく、と銀色が入る。ややあって、外側よりも濃厚な色をしたチョコレートソースが湯気を立ててとろりと流れ出す。

「ン?生焼けか?」
「しばくでほんまに」

しっかり聞こえていたらしい。背後から地を這うような返答が投げて寄越された。ひょうひょうとかわして一口、ソースを絡めて口に含む。甘すぎないのが結構俺好みだったりする。ゆる、と頬が緩んでいくのがわかって、もう一口、熱々のフォンダンショコラを口にした。

「ま、うめェんじゃね?」
「ほんま、しば……は?うまいって、」

語調が途中で明らかに戸惑いを含むものに変わっていくのを感じて、わざとゆっくり振り向いてやった。見なくても十分に想像できていたが、果たして魅霊は戸惑いつつも喜びをにじませた頬の色をしている。もう一度目を見て言えば、ふい、と顔を逸らされた。オーブンの掃除をしているフリなんだろうが、さっきまで使ってたオーブンなんて暑くて掃除どころじゃねェだろ。

これ以上は取り合ってもらえなさそうなので残りのフォンダンショコラを楽しむことにする。再び乱暴に、今度はコーヒー入りのマグカップが置かれたときに、お返しは何がいいか聞いてやろう。多分いらないとか言ってつっけんどんな態度なんだろうけどなァ。それで本当にお返しが何もなかったらしょげるくせに。

「ちったァ素直にならねェと損するぜ?」


俺の頭にコーヒーがぶっかけられるまで、あと×秒。
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