気まぐれは世界を越えて

一旦鍋には蓋をして、お茶を入れてリビングで休憩。温かいマグカップを両手で包み込むと、身体が手先からゆっくりとほぐされていく感覚がする。

「泉雅さんとか、呼ぼうかなぁ」

改めて声に出すと結構しっくりきた。曲がりなりにも、わたしは彼女に恩がある。泉雅さんがどんな食べ物を好むかは知らないけれど、そこまで好き嫌いが分かれるメニューはないはずだから大丈夫だろう。
それに、彼女は鏡を通して移動できるようだし、すぐに来てくれるだろう。そう思ったが、こちらからはどうコンタクトをとったらいいのかわからない。わたしたちが鏡の中へ入れるわけではないから、一方通行なのだ。少しぬるくなった紅茶を飲み干して、洗面台へ向かう。いざ鏡を前にすると不安げな自分の表情が見えて、ちょっと笑ってしまった。

大声で呼び立てて、何の反応もなかったら恥ずかしい。だから、ささやくように鏡に向かって口を開く。向こう側の自分も、同じように口を開いた。

「泉雅さん、泉雅さん……いらしたら返事してください……」

まるで鏡よ鏡よと乞い願うどこぞの王妃のようだ。しばしの沈黙。都合よくいるわけがないし、そりゃそうかと鏡に近づけていた顔をすい、と離したとき、波打つように鏡が揺れた。びっくりして固まったわたしの顔も、歪んでいる。

「呼んだかえ、狭間の仔よ?」

するり、とろけた鏡の中心から、波紋と共に現れた暗い金髪。
ひらりと彼女が身にまとっているゆとりのある和服の袖口が揺れて、そこではっと我に返った。一歩下がるのとほぼ同時。一瞬前までわたしがいた場所に、泉雅さんが降り立つ。
半ば冗談で声を掛けたようなものだったから、まさか本当に聞こえているとは思わなくて、うまく言葉が出てこない。かつん、泉雅さんの靴が床を鳴らす。何で呼んだんだっけ、そう、クリスマスパーティだ。

「泉雅さん、わたしの声聞こえてたんですね…」
「暇を持て余しておったからの!」

高笑いと共に答える彼女は、口元に手を添えるその姿すらも優美で、高飛車だと言わざるを得ない態度なのに、それを認めてしまう。
というか、ちがうちがう、それが言いたかったんじゃない。考えと口先がちぐはぐに動いてしまって、いったん深呼吸して落ち着くことにした。そうこうしているうちに、先に口を開いたのは泉雅さん。

「ほう、良い匂いがするではないか」

つい、と洗面所を出て、匂いのもとを辿るように歩き出した泉雅さん。わたしを気にも留めないそのうしろ姿を追う。
突然現れた泉雅さんに、琳太も九十九もびっくりしている。特に九十九は椅子から転げ落ちそうになって、慌ててテーブルにしがみついていた。申し訳ないけれど、そんな彼のいつも通りの姿にちょっとだけほっこりしてしまう。

「クリスマスパーティしようと思ったんです。よかったら一緒に、と思って」

背中にわたしが声を掛けると、泉雅さんはちらりと視線を寄越して、ほう、とだけ言った。ややあって、確か、と続ける。

「確か、信じもしない神の誕生日にかこつけて、人間どもが好き勝手に騒ぐとかいうものだったかえ?」
「……大体合ってます」
「当然じゃ!余は異世界を渡り歩くことを許された存在なのじゃから!」

そうだ。泉雅さんがわたしをこの世界に連れてきてくれた。わたしが暮らしていた世界の知識をかじっていても、何ら不思議ではない。もしかして、世界というものは、わたしの知らないところでもっとたくさん存在していて、そのどれもが少しずつ、繋がっていたとして。泉雅さんはそのもっとたくさんの、いくつもの世界を知っているのかもしれない。

クリスマスに関しての認識はちょっとずれているというか、本質からは相当かけ離れているのだけれど、まあ、パーティをするという認識があるのならば話は早い。もう一度誘いの言葉をかけると、泉雅さんは目を細めて頷いた。

陽が傾き始め、カーテンの隙間から差し込む光がオレンジ色を帯びてきたころ、ぬるくなったシチューを温め直す。フランスパンは輪切りにして、オーブントースターで焼いてから、ガーリックバターや木の実のジャムを添えた。何を使うかはお好みで。
湯気の立つシチューを真っ白な器によそって、お盆に並べる。気をつけてね、という言葉と共に、両手でしっかりとお盆の取手を握った琳太を見送って、別のお盆に載せた空のお皿に、野菜を盛った。葉物にポテトサラダ、コーンを散りばめて。ドレッシングを添えて、今度は九十九を見送る。

冷蔵庫を開けてこっそりとケーキの様子を確認した。今更どうにかなるってわけではないけれど、どうしても気になって仕方がない。

「リサー!はーやーく!」
「ごめん、すぐ行く!」

琳太のわくわくが抑えきれないといった声が聞こえてきて、慌てて人数分のスプーンとコップとを持ってリビングへ向かった。四つ出された椅子のひとつに、足を組み尊大に腰掛けている泉雅さん。まあお客様だし仕方ない。しかも絵になっているおかげで苛々のひとつも
感じないから不思議なものだ。

「あれ?」
「何じゃ。せっかくの料理が冷めてしまう」
「は、はい」

壁際に向けていた視線を無理に戻してテーブルにつく。わたしが座ったのを皮切りに、琳太がぱん、と手を合わせた。いただきます、とみんなで唱えて思い思いに手を伸ばす。シチューを一口。じゃがいもがほっこりとほぐれていって、優しい味の中に溶けていった。表面をこんがり焼いたフランスパンは、ガーリックバターも美味しかったけれど、木の実のジャムも甘さ控えめで素材の味が引き立っていて、食べ応えがあった。
みんなの手の動きが落ち着いてきたころ、わたしはどうしても気になっていたことを口にする。