待ち人来る‐09 

「………?」

いつまで経っても、来るべき痛みは一向にやって来ない。わたしの痛覚神経さんは現在引きこもりでしょうか。
おそるおそる目を開いてみる。そういえば泰奈に会った時も、こんなだったなあ。

「あ、れ?」

なにもサプライズがあるところまで同じにしなくていいのに。地面が自分の真正面にある事実に困惑しながら周囲を見渡してみる。地面に垂直なところから見た景色は、なんだか新鮮だった。どうやら自分は、壁に衝突するのではなく、壁に飛び移ってしまったらしい。
辺りにはやはり、一枚岩がたくさん漂っている。試しに思い切って、地面だった岩に足を向けてみる。

「う、わあ」

すとん、と難なくもといたであろう地面に帰ってこれた。この空間じゃ、地面もなにもあったもんじゃない。というか、どこが地面かとか気にしたらだめだと思う。

もう一度垂直になって、また帰ってくる。ふわっと身体が浮いて、うまく言えないけれど、岩が足を迎えに来てくれるような感覚。…何これ面白い。

『リサ、リサ、』
「琳太もやる?」

再びよっこらしょ、と言って、琳太をショルダーバッグから出して地面にそっと降ろす。
重力を無視したこの不思議空間で、2人して様々な角度を試して遊ぶ。横向きになったり、逆さに向かい合ったり。

「ふふ、」
『んー』

琳太の顔が、真正面にある。目は見えないけれど、見つめあう。

『リサの目、きれい』
「………!!」

もはやコンプレックスでしかなかった、わたしの国では、、というかわたしの世界の人間にあらざる瞳の色。
その瞳を「きれい」と言ってくれた琳太。いまだかつて誰にも言われたことのない、最高の褒め言葉であり、救いの言葉であった。
その一言が心にぽたりと染み渡り、じんわりと暖かい何かに満たされていく。
嬉しくて嬉しくて、涙が溢れそうになった。ここで号泣するわけにはいかないから、ぐっとこらえたけれど。頑張れ表面張力。今日だけで二回も泣くわけにはいかない。

ギュッと琳太を抱きしめて、涙をこらえて。ふさふさの黒い毛から、なんだか洞窟の匂いがするようで、それはつまり琳太の家の匂い、なわけで。お母さんの顔が浮かび、同級生の顔が浮かび、無性に懐かしくなる。なんだろう、望郷ってこのことかな。


「…よし、そろそろ行こうか」
『ん。………ん?』
「………。うん」

琳太が疑問を持った理由がわかった。そしてわたしは非常に後悔している。2人して顔を見合せると、互いの顔が引きつっているのがよくわかった。
さんざん遊びまわったツケは重かった。


「…今、どの向きにいるのわたしたち」

ふざけて色々な方向に立ったために、もとの方向がわからない。
当然、最初の向きなんか覚えていない。岩しかないから目印になりそうなものがどこにもないのだ。

とりあえず進んでみるべきか。でもあちらそちらどちら?
どうしよう。頭が真っ白になって、冷や汗が吹き出る。何か目印を覚えていないか。目立つものはないか。

でも、わたしも琳太もそんなものはちっとも覚えてないし、何回見回しても、やっぱり目立つものなんかない。全方向の岩が同じように見えて、もはやどこが正しい地面なのかもわからない。
やっと引っ込んだ涙が、今度は別の意味でまた溢れそうになった。

「どうしよっ……!」

意味もなくぱたぱたとあちこちの岩の上を歩き回る。こっちが逆さま?いや、こっちかも。
そんなことしても意味がないと知りながら、足を動かさずにはいられない。琳太も首を左右に振って、わたしの動きを追いかけていたが、ふと顔を上げた。つられて立ち止まって、同じ方を見上げる。

「随分と余裕じゃのう。現実逃避かえ?ほほっ」
「ひィッ!?」

上から声が降ってきた。いや、こちらが上で、下から聞こえてきたのかもしれない。
まあそんなことよりも。何だかこの声には聞き覚えがある。しかもあまりよろしくない状況で。

「…鏡の人……?」
「ふむ。身体はまだ縮まぬのか…それに、能力もまだ戻っておらんようじゃな」

ぬぅっ、とわたしから見て天井ともとれる地面から少女が生えた。岩に染みのようにできた影から、ゆっくりと姿を現す。
逆さまのままで向き合っているので、身長はよくわからないが、きっとわたしとそう変わらない。ちょっと変わった和服のようなものを身にまとっていて、どの動作をとっても優美さを感じさせる。ひらりとたゆたう袖が影から抜けたと思ったら、影は彼女の足元へ収束して消えた。
くすんだ金色の髪を鬱陶しそうにサラリと払い(そんな仕草も上品だ、)緋色の瞳を細める少女。舐めるように足の先から頭のてっぺんまで一瞥され、言い知れぬ恐怖に背筋がぞわりとした。




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