4−5

週末の天気は2日とも晴れ。出かけるにはちょうどいい日だ。相変わらず冷え込む朝晩を避けて、明るい日中に家を出る。地図を手に、この前燐架ちゃんと一緒に歩いて行った記憶を辿る。あの時は真っ暗だったから、随分と違う景色のように感じられる。昼になって気温が上がったせいか、さほど霧は深くなかった。

風はなく、視界も悪くない。丈の高い草むらを避けて、ゆっくり、注意深く奥へと進む。念のためにむしよけスプレーをいくつか買っておいた。ちょっと歩くごとにそれを身体に振りかけながら、地図と睨めっこ。

「そろそろ、かなあ」

呟いた時、急に視界が開けた。霧が晴れて、まぶしさに目を細める。木々の間を抜けると、鏡のように静かな水面が視界いっぱいに横たわっていた。ここが、送りの泉。
辺りを見まわして、誰もいないことを確認する。近づいてもいいだろうか。冥斗さんは、あまり近づいてほしくなさそうだったけれど……。

やっぱり近づくのは怖くて、木の陰から遠巻きに泉を眺めた。泉というからには、てっきり水が沸きだしているものだと思っていたけれど。ちっとも水面が揺れない様子を見るに、湖と言った方が正確かもしれない。

それにしても、不気味なくらい静かだ。野生のポケモンに遭遇しやしないかとびくびくしながらやって来たものの、生き物の気配が全くしない。

……ここは、死者の魂が還る場所。

ふと、冥斗さんの言葉が頭をよぎる。もしかして、あの泉には、死ななければ近づけないのだろうか。死の気配を察知して、ポケモンたちは本能的にここにやって来ないのかもしれない。そんなことを思うくらい、痛々しいほどの静寂に包まれていた。

泉の水面を見つめる。風が吹いても波紋ひとつ立たない、ガラス板のような水面。凍っているのではないかと錯覚するほどだ。

どれくらい時間が経っただろう。時計を見ようと身じろぎした時、背中がぞわりと粟立った。
……誰かに見られている。その“誰か”がどこにいるのかもわからないのに、はっきりとそう感じた。後ろ?前?……わからない。
視線を振り払うように立ち上がり、念入りにむしよけスプレーを使った。

「小娘、それは好かぬ。」
「ひっ!?」

驚きで、息を呑むような悲鳴が漏れ出た。真後ろ、自分の頭より少し低い位置から、幼い子供の声がする。振り向くか、振り向かないかを逡巡する前に、身体が反射的に後ろを向いてしまった。そこにはくすんだ金髪に暗い赤を宿した目の女の子がいた。冥斗さんの赤とは違う色だ。何というか、のっぺりしている。油絵具をべったりと塗りたくったような色だ。

「その匂いは好かぬと言っておるのじゃ」

女の子が指さしたのは、私が手にしているむしよけスプレー。手をひらひらと振って、追い出すような仕草をする。それに合わせて、雪の影のような色をした着物が揺れた。もう片方の手は鼻にあてがわれていて、しかめっ面だ。
私がむしよけスプレーを鞄に仕舞うと、ようやく彼女は袖を口元から離した。

「あの、あなたは……?」
「ん……?ならばこれでどうじゃ。“アレの本当の姿を知らんのかえ?見せてやろう”」
「!?」

それは、あの時耳元でささやかれた言葉そのもの。
呆然とする私を見て、女の子はくつくつと笑う。見た目にそぐわない、不気味な笑い方だった。

「どれ、ついてくるがよい」

コートの裾を引かれ、私は泉の前まで連れていかれる。抵抗しようにも、見かけによらず力が強いのだ。あれよあれよという間に、泉に架けられた橋の先端に立たされていた。

「ちょっと、まって、」
「ん?」

橋の先端というと変な感じがするが、事実そういうことになっている。泉を真っ二つにするかのように存在している橋だが、途中で途切れているのだ。先端部分はちょうど、泉の中心になっている。

「覗いてみるがよい」

まただ。身体がうまく動かない。自分ではない何かに操られるようにして、私は泉を覗きこんだ。

「……!」

暗い、穴。その奥に、うすぼんやりと光が見える。目を凝らしてみると、穴の先に広がる世界が垣間見えた。巨大な黒い影が、いくつも浮かび、ゆっくりと動いている。あれは、岩……?そしてその間を縫うように、青白い光がするすると浮遊していた。まるで燐架ちゃんが出してくれた、意思を持つ炎みたいだ。

「もっと見たいかえ?」

とん、と軽く背中を押され、私は泉に顔から突っ込んだ。冷たい感覚はなく、そのまま穴の中に落ちていくように風を感じる。反射的に閉じていた目を開けば、真っ暗な穴がわたしの身体を吸い込もうとしているところだった。突然のことで悲鳴も出ない。声が喉に貼りついてしまっている。

落下していく感覚がどれくらい続いたのかはわからないけれど、段々と内臓が持ち上がるような気持ち悪さは薄れてきた。慣れてきたのだろうか。

ゴウ、と重たい音がして、自分よりも早く、圧倒的な質量を持った何かがすぐそばをすり抜けていった。巨大な鳥、あるいは翼の生えた蛇。真っ黒な影は優雅に羽ばたいて、いつの間にか現れていた地面に降り立った。なおも落下を続ける最中、なす術もなく周囲を見まわしていると、ゆっくり浮遊している岩に取り囲まれていることに気付いた。心なしか、浮遊感が薄れているような気がする。

そうして、少しの不安もなく、私はゆっくりと地面に足を付けることができた。岩は再び、自由気ままに漂いだす。目の前には巨大な龍。影のような翼を揺らめかせ、金の王冠を頂くその姿は、威厳に満ちていた。不思議と、怖くはない。こんなにも大きなポケモンを目の当たりにしたのが初めてだったから、脳みそがどう反応しようかと困惑しているのかもしれない。

「ようこそ、冥界へ」

龍は灰色を纏う少女となって、くつりと笑った。
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