4−3

燐架ちゃん。私はつぶやいたけれど、声にならなかった。身体がうまく動かせない。今の彼女は、いつもと変わりない表情のはずなのに、どことなくこの世のものではないような気がしたのだ。煌々と青白く燃える火が、彼女の顔を照らしている。いつも茶目っ気に満ちた色をしている瞳が、生気を宿していなかった。

「ここは、送りの泉。死者の魂が還る所なのね」

口調も普段通りなのに、やけに他人行儀に感じられる。どうしてだか、近づいてはいけない、見てはいけない存在のように思えてならない。それでも目が釘付けになっている。身体は石のように固まったままだ。
それに、誰か、彼女ではない女の子の声がした。少女じゃない、女の子の、幼い子供の声だ。すぐ傍、耳元でささやかれるそれは、とても蠱惑的で、甘い猫撫で声だった。

「アレの本当の姿を知らんのかえ?見せてやろう」

さあ、と差し伸べられた燐架ちゃんの手。吸い寄せられるようにして、私の心とは裏腹に、手と手が重なった。私の意思は、そこにない。
帰れない。そう思った。どこか遠い場所に連れていかれる予感がした。

「どういうつもりだ」
「チッ」

低い声がして、灰色の、たくましい腕が伸びてきた。私の腕を痛いほどにぐっと掴み、燐架ちゃんから引きはがす。今までにないくらい怖い表情をした冥斗さんが、燐架ちゃんを睨みつけていた。

「あーっ、冥斗!!何でいるのね!邪魔しないでほしいのね!」
「たまたま仕事が入っただけだ。……お前まさか」
「ちがうちがう!見せるだけなのね!見てもらうのが、いちばん早いと思ったから……」
「余計なことをするな」

呪縛が解けたかのように、私の腕が圧迫感を訴える。腕ごと一歩下がる素振りをすると、冥斗さんはあっさり私を解放した。そして、私の視界を遮るように背を向け、目の前に立ちふさがる。まるで燐架ちゃんから私を守ろうとしているみたいだ。

「ユウにならって思ったのね!」
「ここに来れば生者は魅入られることもある。お前なら知っているはずだ」

冥斗さんの身体を避けて燐架ちゃんの様子を伺う。むっとした表情の彼女は、一瞬だけ私に視線を移して、それから、諦めたように目を伏せた。

「ユウ、怖がらせてしまってごめんなさい、なのね……」

燐架ちゃんのしおらしい声が聞こえる。私、そんなに怯えた顔をしているんだろうか。確かに、さっき振り向いたときの彼女の表情には、この世ならざるものを感じた。漠然とした、抗えない恐怖。でも、今の彼女にはそれがない。私はゆっくりと、冥斗さんの横に立った。冥斗さんは何も言わず、燐架ちゃんを見つめている。もう睨んではいないものの、刺々しい雰囲気は消えていない。

「ユウに見て欲しいものがあったのだけれど、ここは今のユウにとってはよくない場所なのね……」
「どういう、こと……?」
「まずはここを離れるぞ」

冥斗さんが再びわたしの腕を掴む。今度は痛くなかった。燐架ちゃんもついて来ようとするが、それを冥斗さんが制止した。

「お前が話すくらいなら、俺が話す」
「……!」

燐架ちゃんのびっくりした表情は、一瞬で闇に飲まれた。驚きすぎたのか、今まで辺りを照らしてくれていた炎まで消えてしまったのである。そっか、と真っ暗闇の中から声がする。その声は残念そうでもあり、うれしそうでもあった。

「こいつは借りていくぞ」
「あとから来ておいて癪なのね……でも許す!」

冥斗さんに腕を掴まれたまま、もと来た道を歩きだす。振り向いても暗闇と深い霧のせいで、もう何も見えない。耳元で知らない誰かに囁かれたような気もするけれど、それも聞こえてくることはなかった。

「……あの、冥斗さん、」

もう会えないものかと思っていたのに。再会できた喜びよりも、違和感が優先した。いつもと雰囲気が違う。もう怖くはないのだけれど、そうじゃなくて、なんというか。うまく言えない。……けど、彼は何かをためらっているような気がした。


地面が舗装されていない道路から、石畳へ。来たときよりも早く感じた帰り道。テーブルを挟んで、私は冥斗さんと向かい合った。

「これから話すことは信じてくれなくても構わない」
「……?」
「あの泉は送りの泉。死者の魂が還る場所だ」

同じことを燐架ちゃんも言っていたような。
トバリシティの外に疎いわたしにとって、あの辺りは印象が薄い場所だ。地図で見かけることはあったけれど、行ったことはない。道中草むらが多いし、普段から霧が深くて視界が悪いのだ。ポケモンを連れているトレーナーでさえも、あそこには極力長居しないと聞いている。

「お墓でもあるんですか?」
「墓には肉体が入る。あそこに入るのは骨でも遺灰でもない。魂だ」
「たま、しい……」

魂。ひとつの命がひとつだけ持っている、目に見えない心のかたち。その重さは21グラムなのだと、何かで見かけたような気がする。命が終わる瞬間、その者の身体がごくわずかに軽くなる。それが、抜け出た魂の重さなのだと。
魂に重さがあるのか、その重さが本当かどうかはさておくとして、魂がある、ということはどうやら事実らしい。冥斗さんの口から出た言葉は、もちろんにわかには信じがたい、オカルティックな内容だと思う。でも今は、嘘偽りを言えるような状況じゃない。冥斗さんのまっすぐな瞳が、真実だと告げていた。

「俺と燐架の仕事は、魂をあの泉まで運ぶこと。」

俺たちは死神なのだ、と冥斗さんは言った。
この世にはあるべき場所におさまらない魂が時々現れる。死んだことに気付かない魂、死んだことを認めたくない魂。それらは現世に留まれば、無意識のうちに器を求めるようになる。魂は肉体に宿る者。その肉体を失った魂は、やがて悪霊と化すこともあるのだという。
そうなる前に、魂を回収して送りの泉へ届けることが、死神の役目。送られた魂は永い時を経て、新たな肉体へと宿り、現世へと還っていく。それがあるべき命の姿なのだ、と。

「お前に見つけられるまで、俺がどうしてあそこでくたばっていたのかも、仕事のせいだ」

還ることを拒んだ魂と戦ったせいであの怪我だったらしい。これでわかったか、と言われて、私は首をかしげた。まだまだ聞きたいことが、たくさんあったから。
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