3−7

身体は軽いのに、心が鉛のように重たくて足が前に進まない。
店長さんにギンガ団の一件は言えずじまいでいた。余計な心配をかけてしまうし、人の良い店長さんのことだ、送り迎えをするとまで言い出すかもしれない。

ボールを冥斗さんに返してしまおうか、と何度も考えた。ボールというものがわたしの手のうちにないからといって、冥斗さんや燐架ちゃんたちと出会ったことがなかったことになるなんて思ってはいない。ボールがなくても、わたしは冥斗さんたちと知り合いのまま、のはず。けれど、それは違う気がした。それに、ボールを持っていない時に襲われたのだから。
別に、ボールは持ったままでも構わない。数日たてば不安も和らいで、そういう風に考えるようになった。

この間、燐架ちゃんたちがわたしのもとを訪れることはなく、ひとりでゆっくり考える時間が取れたのは幸いだった。今までは、ひとりきりでいれば自分の殻に閉じこもってしまいそうになっていたし、モンスターボールなんてもう見ていたくない、という気持ちになっていたかもしれない。けれど、ギンガ団はギンガ団、冥斗さんの件とは別物、そう割り切ることが出来るようになっていた。


いつも彼らは何の前触れもなしに訪れる。立ち話だけしていくこともあれば、お茶を飲んでいくこともあるが、非常識な時間帯に来られたことは一度もない。ゴーストタイプというからには夜行性のような気がしていたのだが、そうでもないのだろうか。彼らは人間と何ら変わらぬ仕草や立ち居振る舞いでわたしと言葉を交わす。

わたしの気持ちが幾分か落ち着き、波も穏やかになった頃を見計らったかのようなタイミングで、ふらりと冥斗さんがやって来た。

いつも通りお茶にしていたら、それまで無言だった冥斗さんが口を開いた。

「どうか、したのか」

投げかけられた言葉にはっとするわたしの動揺を写し取り、紅茶がマグカップの中で揺らめいた。一旦、マグカップから手を離して冥斗さんの顔を見る。言いたいこと、考えていることはあるのに、いざ本人を目の前にすると、それらがすべて砂の城のように崩れていく。
言葉に出来ない、もどかしい気持ちに区切りを付けたくて、ぐっと手のひらを握りしめた。昨日切ったばかりの爪が容赦なく食い込む。

「わたし……わたし、この前ギンガ団って人たちに絡まれて、それで、ポケモンを持っていないのに寄越せって、言われて……それで、」

たどたどしい口調で、テーブルの木目に向かってひたすら言葉を紡いでいく。ずっと冥斗さんは黙ったままだった。いつも彼はそうなのだけれど、今回はそれがどうしようもなくありがたかった。じっと待ってくれている冥斗さんは、話し終えたわたしがそろりと顔を上げると、終わりか、とだけ言った。うなずく。終わりだと。
ゆっくり、湯気の立つマグカップを傾けたあとに、冥斗さんが言った。

「もう、俺のボールを持つのはやめたいか」
「……!」

わたしはそんなこと、一言も言っていない。ただ、ギンガ団に襲われたこと、ジュンサーさんが助けてくれたこと、それから、とても怖かったこと。それだけを吐き出したのだ。ボールを手放したいとは、もう思っていない。

「ちょっと、それを考えていたこともあるんです。でも、やっぱり嫌だなあ、それは違うなあって」
「何故だ。リスクを減らして俺と関わるのをやめればいい。そうしたら多少はマシだろう」
「それは……そうかもしれません、けど」

いざ相手の口からそれが口にされた時、わたしは思った以上に傷ついた。
冥斗さんにとって、やっぱりわたしはただの都合のいいボール保持者でしかなくて、それ以上にはなれないのだと、はっきり線引きされてしまった気がしたからだ。事実、この人の中ではそうなのだろう。

どうしてギンガ団がわたしに目を付けたのかはわからない。本当にたまたま通りかかったのがわたしで、向こうは手当たり次第襲う気でいたからかもしれないし、もしかするとボールの微かな匂いを、彼らのポケモンが嗅ぎ付けていたのかもしれない。今となっては知る由もないことだけれど、わたしの中で出た結論としては、ボールを手放す気はなかった。

なのに、こうもあっさり手放せばいいと言われてしまうと、悲しくもなる。
所詮その程度の関係なのだから捨て置けと言われたようなものだ。

「今度から、わたしがちゃんと気を付けます。これからも冥斗さんのボールを持ち歩いたりはしませんから……」

ポケモンを持っていないわたしができることなんて限られているけれど、なるべく明るくて人通りの多い道を選んで帰って、防犯ブザーを携帯することくらいならできる。やらないよりはきっとましだ。

「気を付けた程度で追い払える相手ならいいんだがな。この前助かったのは運が良かったからのように思えてならない」
「うっ」
「大体、そこまでしてボールを持ちたがるのは何故だ。お前にメリットはないだろう」
「……」

残り少ない紅茶を飲み干した冥斗さんは、いつになく饒舌だった。正論すぎて何も言い返せない。
最近ではティーカップがすっかりお呼びでなくなって、もっぱらマグカップである。たくさん飲めて冷めにくいので、長話にはもってこいだし、包み込むようにして持てるので、わたしはマグカップの方が好きだったりする。お客さん相手に使うものではないと思うけれど、それはつまり、冥斗さんたちとの距離が縮まったということだ。

だからこそ、正論が耳にも心にも痛い。言っていることは間違っていないのに、胸の中のもやもやが肥大していく。仲良くなれたと浮かれていたのは、自分だけだったのだろうか。
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