3−4

ひどく頼りがいのない、小さな背中だと思った。びくびくと何かに怯える仕草を見せていることが、さらにその思いへと拍車をかける。怯えや恐れを見せることは、野生に生きる者としてタブーであるはずの挙動。……というのは人間の常識ではないらしいが。

しかし、自分に対して警戒するそぶりすらないのはさすがに危機管理能力に欠けていると思う。肩手を伸ばし、首を掴み、少し、力をこめるだけ。たったそれだけでこの少女の命は砕け散る。
確かにボールマーカーをつけられてはいるが、主と認めた覚えはない。もし仮にこの少女のかわりを探すということならば、少々手間はかかるだろうが。しかし、そういった面倒を背負うくらいならば、ボールなどどうだっていい。たまたま便利だから利用しただけのこと。

戯れに奪う価値すらないほどに、脆い命だ。
あっけなくつめる花など、手折る価値はない。

タイマーの音にすらびくりといっそ大げさなほどに反応するこの少女が、でたらめに見よう見まねで淹れた茶を美味いと言ったときの顔を思い出した。嘘偽りの類が一切ない、素直な面持ち。直視できないほどに真っ直ぐ、気持ちが伝わる顔をしていた。
あのときのようにとはいかず、少しぎこちない表情で見上げられる。何か言いたげなその顔に、視線だけを下げてやった。

「あの、あとは注ぐだけなので」
「そうか」

茶の淹れ方など知って何になるというのか。戦い方さえ知っていればそれでよかった自分からしてみれば、些末なことだというのに。だと、いうのに。
おのずと手は伸び、空いたカップに湯気を立てる濃い色を注いでいる自分がいた。ふわりとそこから香りが広がっていく。

「どう、ですか?」
「……この前と違う味だ」
「あっ、お口に合いませんでしたか……?」
「いや」
「そうですか、良かった……。寝る前なので、カフェインが入っていない茶葉にしたんです」

悪くない。鼻をくすぐる温かな香りがどうにもむずがゆくて、気を紛らすために長く、ゆっくり息を吐いた。

……悪くない、のだ。こんなぬるま湯に浸かっているような空間が。吐き気がするほどゆるんだ空気が。

向かい側でカップを持つ彼女の手はとても小さい。あんな手でよく盆を持てたと思う。
燐架も華奢ではあるが、あいつにこういった頼りなさや脆さの類を思ったことは一度もない。あれが見た目によらず強い力を持っていると知っているからだろうか。
それだけでは済まされないような気がして、けれどもそれ以上の結論は出て来ない。もう一口、紅茶を流し込むと、最初よりも味が舌に馴染んでいるような気がした。

自分が淹れたものとは全く異なる味と香りを引き出した本人はといえば、小さな星屑をぱくりと口に含み、満足げだった。どれも味は一緒だろうに、さっきとは違う色のものを探して指先がさまよっている。

やはり、くるくるとよく表情が変わる少女だ。幸せそうに金平糖を頬張る表情を見て思う。自分には一生出来ないような緩んだ顔。けなしているのではない。もともと性質が違う、というだけのことだ。

平和ボケとは言いすぎかもしれないが、彼女は自分たちとは違う世界に生きる存在なのだろう、と改めて認識せざるを得ない。血の香りも薄暗い空気も纏わず、いっそ清々しいほどに清浄。
眩しい、と思う。自分の手で触れるのをためらってしまいそうな、触れればそこからほろほろと崩れて跡形もなく消え去ってしまいそうな、そんな存在だとも思う。

それは彼女が人間で、俺がポケモンだからではない。彼女がポケモンを苦手に思っていて、自分から接触したがっていない様子であることも関係ない。
種族云々の前に、すでに厚い壁があった。俺は彼女とは違う世界で生きている。歩み寄っても互いの姿が見えないような場所で生きているのだ、きっと。壁は曇り空よりも不透明で、音も光も吸い込まれて、決して向こう側には届かない。

「……あ、あの、」
「何だ」
「ぼーっとされていたようですけれど……」

何かあったんですか、という彼女の問いかけには答えなかった。ぼーっとしていたことに自分自身が驚いていて、それどころではなかったのだ。うっかりや、つい失念していた、など普段は許されない世界に生きていた自分が、“ぼーっとしていた”?
何でもない、と手をひらひら振って返すので精一杯だった。

「もしかしてお疲れですか?もう夜遅いですし……」

そう言う彼女の方がずっと眠そうだ。言葉を最後まで言い切らずにあくびをかみ殺した彼女は、恥ずかしそうにうつむいた。その目にはうっすらと涙がたまっていて、緩慢なまばたきの合間に袖口がそれを拭っていった。

最後の一口は随分と冷めていたが、それを飲み干してゆっくりと立ち上がる。玄関までついてきた小さな少女は「また」と笑顔で手を振っていた。

ドアが閉まるその瞬間まで絶えることのなかった笑顔が、やけに脳裏に焼き付いた。振り払うように頭を振る。それでもまったりとしたゆるやかな空気は霧散することなく自分の肺腑へと取り込まれているようで、俺はあくびをかみ殺した。

流されてはいけない。
不意によどんだ空気がまとわりついてきて、浮遊した身体は闇に溶けた。
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