3−2

「あのっ、この前は、ありがとうございました!」

少し荒い息のまま、途切れがちにお礼を言う。思ったよりも声が大きめに響いてしまって、今のこの時間帯では近所迷惑だったかと少し反省した。走ったのなんて、いつ振りだろう。リビングから廊下を抜けて、外に出るまでのほんのちょっとの距離だというのに、肩が大きく上下している。歩くよりもずっと疲れてしまった。日ごろの運動不足がたたっている。

ゆるみかけたマフラーをぐるりと巻き直してみたけれど、コートなしで飛び出してしまったのでは寒さに対して無防備すぎる。ニットの隙間から、ブラウスの襟もとから、冷気が侵攻してくるのを防げない。背中から寒気が這い上がって、身体全体が震えた。冥斗さんはマフラーもしていないのに、寒くないのだろうか。氷タイプ……ではなかった、はず。

カツカツと黒い革靴を鳴らして冥斗さんがわたしの目の前までやってくる。前から思っていたことだけれど、彼はとても背が高い。でも、不思議と今は、以前に感じていたような威圧がないような気がする。目の色は相変わらず冷めているのに、まとう雰囲気に棘がないのだ。接しやすいというか、声が掛けやすいというか……いや、普通の人に比べたら十分よそよそしい印象であることに変わりはないのだけれども。


寒さをどうにかしたいのと、お風呂の蛇口をひねったままなのとで、とりあえず冥斗さんを家にあげる。浴槽にははちょうどいい具合にお湯がたまっていた。溢れていなくてよかったと思いつつ、なるべく冷めないように蓋をする。冷めても後で沸かせばいい。
洗面所から出ると、リビングにいた冥斗さんは腕を組み、壁に背中を預けていた。座っていてよかったのに。

「すみません、お待たせしてしまって」

返事の代わりに一瞥を寄越した冥斗さんは、すぐにふい、と顔を逸らした。目を細めて蛍光灯を仰ぎ見ている。いや、もしかすると天井ではない何か、遠くにあるものに思いを馳せているだけなのかもしれない。思案顔だった。

「……何故だ」
「え?」
「紅茶、美味いと言ったな。何故だ?」

彼の低い声は、普段聞きなれないものだから聞き取りづらい。けれど、決して早口ではないから、静かな部屋ではわたしが十分噛み砕けるほどによく響いた。
この前わたしに淹れてくれた紅茶のことか。口ぶりから察するに、冥斗さんもその後、自分で淹れた紅茶を飲んだのだろう。あの、ぬるいお湯で淹れられた、茶葉の開ききっていない薄味の紅茶を。しかも茶こしを使っていなかったから、口の中に茶葉が入ってきてしまったんだっけ。

わたしが「美味しい」と言ったことを、お世辞か何かだと思っているのだろう。でも、わたしは嘘をつくのが得意ではないし、ましてやあの時は精神的に相当参っていて、相手を気遣ってお世辞を口にするような余裕は持ち合わせていなかった。
本当にまずいと思ったとして、無難にその場をやり過ごすために何か感想を口にするとすれば、味について言及せずに「ありがとう」とお礼だけ言っていれば済んだ話だ。

「冥斗さんが淹れてくれたからです。わたしのこと、気遣ってくれたんですよね?その気持ちが嬉しくて、美味しいって思ったんです」

筋の通った鼻梁を見上げて言葉を零す。能面のような表情は、一瞬だけ色味のあるものへと揺らいだものの、またすぐに仮面をかぶってしまった。薄い唇から、抑揚のない言葉が吐き出される。

「気持ちで味は変わるのか」
「うーん、少なくともわたしはそう思っています」
「何故」

何故と問われても、うまく言えない。気の置けない友達や大好きな家族と一緒に食卓を囲むと、どうしてだかひとりの時よりごはんがおいしいと思えるような感覚は、言葉でわかってもらえるようなものなのだろうか。実際に自分で体感しないとわからないんじゃないのかな。

わたしはポケモンに関して本当に明るくないから、ヨノワールが群れで暮らしているポケモンなのかとか、どんなポケモンの進化形、もしくは進化前なのだとか、そういうことが全くわからない。
口ぶりからして、誰かと一緒に食事を楽しむような生活は送ってこなかったのだろう。それは少し、寂しい気がした。お節介かもしれないけれど、そういう楽しさは知っておいて損するものではないと思う。それに、これはわたしの勝手な考えだけれど、冥斗さんがちょくちょく遊びに来てくれたらうれしいと、思う。一緒にお茶を飲める人がいるほうが、お茶はもっとおいしくなる。

つい、と切れ長の目がわたしに焦点を合わせてきた。伏せ目がちな表情は、無表情であるがゆえに彫刻のような無彩色の美しさを放っている。それを見つめ返しているわたしは、今どんな表情をしているのだろう。
じっと微動だにしなかった瞳が、迷うように揺れたのをみとめて、わたしは口を開いた。

「……せっかくですから、紅茶飲んでいきませんか?」

今日は、一緒に淹れましょう。
緩慢な動作で冥斗さんは顔を上げた。ゆっくりと目が見開かれていくのは、わたしの言葉が浸透している証拠だろうか。

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