3−1

わたしが出勤するなり足元へとすり寄ってきたメレシーさんを撫でていると、店長さんが店の奥からやって来た。

「おはようございます」
「おはよう。あらあら、憑き物が落ちたような顔をしているわね。よかった」

先週のわたしは、そこまで疲弊していたっけ。思い当たる節が無くて首をひねると、店長さんは何でもないわと微笑んでから店開きの支度をはじめた。


滞りなく仕事を終えて、店仕舞いをしているときに気付いた。そういえば、確かに肩が軽いような気がする。冥斗さんも燐架さんもゴーストタイプで、どちらかというと憑く側だろうに。ひとりでおかしくなって、誰にも聞こえないように小さく笑った。

薄暗い店内でガーネットがきらりと光って、冥斗さんの顔が浮かぶ。それと同時に、家まで運んでもらったお礼を言いそびれていたことも、思い出した。しかし、どうコンタクトをとったものか。彼は成り行きでわたしの家を知っているけれど、わたしは常々彼の居場所を把握しているわけではない。一応野生のポケモンだから、このトバリシティ近くにいるとしても、ひとところにとどまっているとは考えにくいのだ。
つくづく、わたしは冥斗さんのことを何も知らないのだと思い知らされる。こんなことなら、燐架さんに彼がよく行く場所でも尋ねておくんだった。ポケモンを持っていないわたしが行ける場所かどうかは別として。
もしかしたらふらりと立ち寄ってくれるときがあるかもしれないから、まあ気長に待つとしよう。やきもきしていても仕方ないことだ。

店仕舞いをして店長さんへの挨拶を済ませてから、茶葉がもう残り少ないことを思い出した。次は何を飲もうかと考えながら、トバリの街中へと足を向ける。こうやってどの茶葉を買うか考えているときが、一番楽しかったりする。淹れて味わうという結果自体よりも、色んな種類を吟味する過程が楽しいのだ。吟味なんて大層な批評ができるわけではないけれど。

既に真っ暗な空が支配しているはずの時間帯だが、トバリの街は暗闇を吹き飛ばして有り余るほどに活気があり、明るい。眠らない街と言っても差し支えないほどだ。夜を無視して光り続けるネオンからは少し離れた、落ち着いた明りの灯る街灯の下を歩く。

レンガ造りの小さなお店に入ると、落ち着いたクラシックがゆるりと聴覚を包み込んだ。ここはカフェも兼ねている茶葉専門店。大都会という響きは個人的に苦手だけれど、こういったお店がある点では助かっている。品揃えも申し分ない。

この前冥斗さんに飲んでもらったのは、確かダージリンだったっけ。今度は違うものを用意しよう。目についたのは、紅茶ではなく烏龍茶。コンビニやスーパーでペットボトル入りのものを買って飲む印象が強いけれど、こうやって茶葉を入手して自分で淹れたほうが、格段に美味しいのだ。
じゃあお茶に合わせて、お菓子もあんまんやゴマ団子の方がいいだろうか。和菓子でもいいかもしれない。

結局、烏龍茶の茶葉と、普段飲むいつもの紅茶の詰め替え用を購入して帰宅した。こつこつとかかとの低いパンプスを鳴らして、石畳の上を歩く。さっきまで屋内にいたせいもあって、随分と寒さが厳しく感じられた。しょうがと蜂蜜を入れた熱い紅茶が飲みたい。あれ、カフェイン抜きの茶葉はまだあったっけ……。なかったら仕方ない。ゆっくり湯船につかって温まろう。


かじかんだ手を手袋から抜き取って、覚束ない感覚でポケットをまさぐる。ちゃり、と軽い音がして鍵が引っ張り出された。内側から鍵を閉め、チェーンも掛ける。すっかり習慣化されているから、今更意識する動作でもない。

バスタブの蛇口をひねって、ぐるぐる巻きにしていたマフラーをほどく。コートを脱ぐとやや肌寒い。この家は、ひとり暮らしするには広すぎるせいで部屋が暖まるのが遅い。お風呂から上がった頃に、やっと暖房の効果が実感できるくらいだ。

お湯がたまるまでに茶葉を食器棚に戻して、コートをハンガーにかける。カーテンがレースだけになっていたので分厚い断熱性に富んだ布の方も、と思って窓際に立った時、微かに赤い光がちらついた。じっと目を凝らさなければ気付かないほどに、レース越しのきらめきは微小なものだったのに、どうしてわたしはそれに気づくことができたのだろう。
ひとつだった光が、ぽつりとふたつにわかれる。ややあってこんこん、と窓がノックされて、わたしは分厚いカーテンから手を離した。白くシミひとつない、視界を遮ったレースを取り払う。

「冥斗さん!?」

椅子の背もたれにかけていたマフラーをぱっとつかんで、首に巻き付けながら部屋を飛び出した。チェーンを外す指がいつものようにいうことを聞いてくれなくて、もどかしい。

ドアを開けて、今度は彼にも聞こえるように名前を呼んだ。窓の前に立っている冥斗さんは、ゆっくりと首を回してわたしを赤い瞳に収める。

「こんばんは!」

弾んだ息と一緒に夜の挨拶を言葉にすれば、冥斗さんも同じ言葉をぼそりと返してくれたのだった。
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