2−7

翌朝すっきりと目覚めると、時計は遅めの朝を指していた。シャワーを浴びてすっきりしたところで、空腹感に襲われる。洗濯機のスイッチを入れて、冷蔵庫には何があったかと思案する。

消費期限ぎりぎりでぱさついたパンを、卵と牛乳を混ぜたものに浸しておいて、昨晩放置していたマグカップを洗う。茶渋がついていたが丁寧にこそぎ落として、もとのように綺麗にする。
キッチンに立って驚いたのが、わたしに渡してくれたマグカップの他にも、2,3個のマグカップが流しに転がっていたことだ。きっと一回きりの記憶の中で試行錯誤して、それでも、それ以上美味しく淹れられそうになかったので、一番ましだと思ったものをわたしにくれたのだろう。
こんなに散らかして、と小さくつぶやいてはみたけれど、嫌な気持ちは起きなかった。頑張ってくれたのかな、と思うだけで、多少の面倒は些細なことになってしまったのだ。でも、今度からは片付けも一緒にやろうと心に決めた。

十分にひたひたになったパンを焼いてフレンチトーストにして、もう片方のコンロで野菜スープを温め直す。フライパンにひいたバターが焦げる良い香りがして、食欲をそそる。食べたいと思えるということは、この風邪はそうひどいものでもなさそうだ。大人しくしておけば、明日には治るだろう。


朝食とも昼食ともつかぬブランチを片付けて、お腹が満たされたところで一息ついた。
そういえば、わたしの気分が悪くなる引き金を引いたのは、風邪ではない。燐架さん、といっただろうか。あの少女には、悪いことをしてしまった。今度もし会う機会があったら、謝ろう。会えなくても、冥斗さんが知り合いだから、言伝を頼めばいい。

「はあ…」

十年近くたつというのに、トラウマが癒えることはこれっぽっちだってなかった。燐架さんと冥斗さんには、このことをちゃんと話しておくべきなのかもしれない。そうすれば、わたしが突然恐怖に襲われることもないだろうし、冥斗さんたちが必要以上に怖がられて気分を害することもない。お互いもうあんなことにはならないだろう。

カーテン越しに差し込む光は、冷たく弱々しい。カーテンを引けば、ちらちらと粉雪が舞っていた。洗濯物は、ベランダに干せそうにない。部屋干しは乾くのに時間がかかるから好きではないのだけれど、シンオウ地方に住んでいるのだから仕方ないことでもある。


あらかた干し終えてしまったころ、インターホンが鳴らされた。店長さんかな。でも、体調不良だってことは伝えてないから……誰だろう。
マスクをしているせいでくぐもった返事しか出来ないが、そうして覗いた魚眼レンズには、わたしが予想もしていなかった人の姿が映っていた。深呼吸をしてから、ドアを開ける。もう、大丈夫。

「こんにちは!お加減、どうなのね…?」

心配そうに上目遣いで立っているのは、わたしが謝りたいと思っている人だった。玄関から少し距離を置いて立っている彼女は、わたしの顔を見るなり頭を下げた。彼女の綺麗に結われているツインテールが地面についてしまって、もったいないと思った。

「この前は、ごめんなさいなのね。よくわからないけれど、怖がらせてしまったのね」
「いえ、悪いのはわたしです…。いきなりわたしが怖がったりするから、気分を害されたんじゃないかと…謝るのは、わたしの方なんです」

わたしの言葉をきいた燐架さんは、ちょっとだけ明るく微笑んだけれど、やっぱりすぐに申し訳なさそうな表情に戻ってしまった。
これ、と彼女が差し出したのは、わたしも知っているお菓子屋さんのロゴが入った紙袋だった。わたしの手に押し付けるようにして持たされたのを確認すると、燐架さんはじゃあ、と踵を返した。後を追うように一対の髪の束がふわりと流れる。

「あ、待ってくださいっ」

華奢な彼女の手をつかんだのは、ほぼ反射的なものだった。驚いて振り返った燐架さんが、ぱちぱちと目を瞬かせる。
いつ会えるかわからないのだから、ここで話しておかなければもう機会がないかもしれない。

わたしから接触するとは思っていなかったらしい燐架さんだったが、ちょっとお茶しませんかというと、今度こそぱあっと花がほころぶような笑顔を見せた。それは、わたしもこんな風に笑えたらなあって思えるくらい素敵で、真っ直ぐなものだった。

「体調は、もういいのね?」
「はい、のどが少し痛いですけど、もう大丈夫ですよ」

お邪魔します、と言って入った燐架さんは、家の中を物珍しげに見まわしていた。そういうところは、冥斗さんと同じ反応だ。人の生活にあまり関わったことがないポケモンは、みんなこういう反応をするのかな。

自分のティーカップには蜂蜜をいつもより多めに入れて飲む。喉に効くというし。
燐架さんがくれたお菓子は、チョコチップクッキーだった。そういえばお金ってどうしてるんだろう。燐架さんが誰かのポケモンだというなら納得できないこともないけれど、ポケモンでも働いたりするのかな。

一口、ストレートのダージリンを飲んだ燐架さんは、目を真ん丸にして薄い色をした紅茶をじっと見つめた。結った髪がゆらゆらと揺れるのを見ていると、彼女の機嫌は髪の毛に反映されるのではないかと思ったくらいだ。よかった、お気に召したらしい。

のどを潤して、本題に入る。
わたしがどうして、彼女のことを怖がってしまったのか。

「あの、わたし、実はポケモンが怖くて…」

その言葉を聞くが早いか、ずざざざ、と燐架さんは椅子ごと壁際まで後退った。足だけでどうやってそこまではやく下がれたのかはわからないが、とにかく目を疑うほどの速さだった。
呆気にとられていると、両手でティーカップを持った燐架さんが消え入りそうな声でしゃべった。

「あ、あの、わわ、わ、私、ポケモン…なのね…」
「はい、知っています」

次に呆気にとられたのは、燐架さんの方だった。ポケモンが怖いというわたしが、ポケモンだと知っていて彼女を招き入れたのは、確かに彼女からしてみれば不可解なことだらけだろう。戻ってきてくださいと言えば、おそるおそるテーブルの前までやって来た燐架さんを安心させるように微笑んで見せてから、わたしは再び口を開いた。
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