2−5

あのあと少女はどこへともなく消えていって、わたしはヨノワールさんとふたり、並んで歩いた。前もふたりで歩いた道だけれど、コンパスの違いに苦しむことはなかった。とぼとぼと歩くわたしの歩幅に、ヨノワールさんが合わせてくれていたのだ。
空はすっかり暗く、冷たい色に染まっている。澄んだ星空は、トバリシティの中心街では決して見ることができないものだ。街を出れば、もっとたくさんの星が闇にちりばめられることだろう。

「事情は大体燐架から聞いた」
「はい、迷惑かけてしまって、すみません……」

わたしも、そしておそらくヨノワールさんも、よくしゃべる方ではないので、会話はぷつりと途切れた。汗をかいたせいで、寒さが余計に身に染みる。早くお風呂に入って温まろう。風邪をひいてしまいそうだから。体調を崩してしまったら、また店長さんとメレシーさんに迷惑をかけてしまう。それだけは、何としてでも避けたい。

無言のまま歩き続ける。響くのはふたりの靴音と、服が擦れる音。遠くから聞こえてくる車のエンジン音。
黙っていると、自然と先ほどの出来事が思い出されて、ため息が出た。困らせるつもりじゃ、なかったのに。でも、恐怖には勝てなかった。ずっと黙っていると気が滅入りそうだったわたしは、何か話そうと口を開いた。

「あの、燐架さんとお知り合いなんですか?」
「仕事仲間みたいなものだ」

どんなお仕事をしているのだろう。それも気にはなったけれど、もっと気になることがあった。彼女がわたしに声をかけてきた理由だ。ヨノワールさんが彼女と知り合いだというのなら、彼は知っているかもしれない。

「わたし、冥斗さんって人のお友達かって、訊かれたんです」
「…!」

今まで前を見て、無表情で歩いていたヨノワールさんが、はじかれたようにわたしの顔を見下ろした。いきなりのことにびっくりしてわたしが立ち止まれば、彼の足も止まった。彼の緋色の瞳は、ガーネットみたいだと思った。職業病かな。
薄い唇が何度かはくはくと動き、ややあって、言葉が紡がれた。

「…冥斗は、俺だ」

ほう、と白い息が口から洩れるのもそのままに、わたしはぽかん、と口を開けていた。口と同じように、目も真ん丸に見開かれているのが自分でもわかる。
彼の瞳が煌々と、やけに鮮明だった。月が出ていない夜だから、余計にそう思えた。

燐架さんが探していたのは、やっぱりわたしで合っていたのかも。でも、わたしとヨノワールさん、もとい、冥斗さんは、お友達と言って差し支えない間柄なのだろうか。
話が繋がったのはよしとする。そういえば、わたしはまだ冥斗さんに名前を教えていない。そういったタイミングをすっかり逸してしまっていたのだ。

「遅ればせながらですけど、わたし、ユウっていいます」
「ああ」

わたしが路上でへたりこんでいる間に、燐架さんが伝えていたらしい。そっけなく返して、冥斗さんは再び歩き出す。
近くにいるのに、紅茶の香りはよくわからない。鼻がかじかんでいるせいかな、とも思ったけれど、一度飲んだ紅茶の香りがそう長く続くとも思えない。わたしでさえ、自分がどんな匂いをしているのかよくわかっていないのだから。他人からしてみれば、わかるものなのだろうか。化粧や香水の香りに、している本人が気づかないというような。
彼女もきっとポケモンだろうから、人間より鼻がきくのだろう。それでわかったのかも。
……だめだ、ポケモンって単語だけでも息をするのが苦しくなってる。

「どうした」
「いえ、大丈夫です……」

足元が、また覚束なくなってきた。家はもう、目の前だというのに。足がうまく前に進んでくれない。踏み出そうとして、もう片方の足に引っかかり、ぐらりとバランスが崩れる。あ、倒れる、と思った矢先、強い力で腕をつかまれた。圧迫されたことによる鈍い腕の痛みと、少し低めの体温が、もやの向こうから伝わってきた。

それから先は、よく覚えていない。

ただ、悪い夢を見た。獣の荒く獰猛な呼吸が間近に迫り、恐怖で声が出ない。瞳がぎらぎらとわたしを見据え、足音ひそかにやってくる。来ないで。お願い。思いもむなしく、焼けつくような痛みに貫かれた。熱い。痛い。
ぎらつく瞳の色は、血のように赤い色をしていて、…ガーネット、みたい。

ぱちり、とまばたきをしたガーネット。痛みが嘘のように引いていく。恐怖も痛みと道連れで、どこか遠くへ去っていった。
残ったのは生ぬるい温度と、不思議と安心する匂い。これが彼女の言っていた匂い…?彼女って、誰、だろう…。視界の端に、一瞬だけちらついた紫色の髪の毛。赤い瞳は相変わらず側にいて、それが安心感をもたらしてくれた。

ずぶずぶと、わたしの意識はあらがえない安らぎの中へ埋没していった。
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