1−4

帰り支度、というほどのものもなく、そのまま踵を返して部屋を出て行こうとするヨノワールさんを、わたしはとっさに引き留めていた。彼に怪訝そうな顔をさせるのは、今日だけで何回目だろう。血のように真っ赤な瞳がわたしの顔を映す。


「お茶、出すんで…もしお時間良ければ飲んでいってください」


空調がようやく効きはじめた頃に帰ってしまうのはなんだか惜しい気がする。お礼も兼ねて、身体を外からも内からも温めていってもらおう。

ヨノワールさんの方は特に何も予定がないとのことで、すんなりと椅子に座ってくれた。ちょっと待っててください、と一声かけて、ケトルを手に取る。やかんよりもこっちの方が手軽にお湯を沸かせるし、コンロも占領しないから便利なのだ。

水を入れたケトルをセットして、お湯が沸くまでの間にティーカップをふたつ準備する。個人的にはティーカップよりもマグカップの方が手で包み込めるようにして持てるから好きなのだけれど、今回はお客さんだから。普段は使わないから、食器棚の高い所にあったそれらを、背伸びして慎重に取り出した。

ティーカップとお揃いで買ったティーポット。いつもこればかり使うので、ティーカップの方が不自然にぴかぴかして見えた。茶葉をスプーン一杯、それからもう一杯。さらさらの茶葉が入った缶にしっかり蓋をして棚に戻したところで、ちょうどケトルの中からぐつぐつと音がしてきた。と思ったらケトルのスイッチが切れて、静かになる。お湯が沸いた。

湯気の立つケトルからお湯を注いで蓋をして、腕時計を見る。その時目の前に影が差して、反射的に顔を上げた。びっくりしたので心臓がうるさく暴れまわっている。無駄だと分かりつつも手で胸を押さえてしまう。ちゃんと見上げなければ視線が合わないような距離に、ヨノワールさんがいた。いつの間にここまでやってきていたのだろう。ケトルに気を取られて全く気付かなかったのかもしれない。それにしても気配を感じなかったのは、やっぱり彼がポケモンで、ゴーストタイプのヨノワールという種族だから?偏見かもしれないけれど、ゴーストタイプというと影が薄い印象を抱く。だからわたしはそう思ったのだった。


「ど、どうしました?」


座っていたはずのヨノワールさんがわざわざキッチンまでやって来たということは、何か用事があるのかも。とはいえ目の前にリビングがあるわけだから、大した距離ではないのだけれど。


「…いや、」


何でもない、と彼は言った。けれど、彼の視線はティーポットに注がれたままだ。もしかすると、ティーポットを知らないのかも。そう思って試しに尋ねてみると、果たしてそうだった。今まで野生のポケモンとして生活していたのだろうから無理もない。話題を考えるのは苦手な方なので、せっかくだからこれに乗っかることにした。彼が話を聞いてくれるならば、だけれど。


「今、淹れているのは紅茶です。この茶葉の場合は、えーと…そうですね、2分待てばいいです」

少し進んだ時計の針。見ている間にも秒針はゆっくりと、しかし確実に時を刻んでいく。さっき仕舞ったばかりの缶を再び出して彼に手渡すと、ヨノワールさんは缶を開けないまま軽く振ったりラベルを物珍しげに眺めたりしていた。その間にお茶菓子を出してお盆に並べ、ティーカップとティーポットも一緒に乗せる。

缶を手にしたままついてきたヨノワールさんが座ったのを見計らって、お茶菓子を出した。一応、こんなこともあろうかと、この日のために用意しておいたものだ。仕事からの帰り道にある、小さなお菓子屋さん。そのお店にある、甘すぎないビスコッティ。紅茶に合うかと思い、オボンの実のピールとナッツが入ったものを選んだ。

ティーポットを傾けると、紅茶、と呼ぶには少々色が薄くも思えるものがカップに注がれた。しかしこういう色なのだ。


「これは春摘みのダージリンという種類です。少し甘い香りがするんです」


言っているそばから、独特の香りがテーブルを中心に広がる。それはもちろんヨノワールさんのところにも届いたようで、彼はぱちぱちとまばたきをしていた。


「花みたいだな」


赤や茶色というよりは、オレンジ色に近い色をした紅茶を見て、ヨノワールさんはポツリと呟いた。
その通り、花やフルーツのような、爽やかで甘い香りを想像させる紅茶だった。

一口飲んだヨノワールさんは、再び目を瞬かせた。心なしか、少し嬉しそうに見える気がしたけれど、それに注意を払っていられないくらい、緊張していた。それこそ、彼ののどぼとけが動いて、紅茶が流れていくのを見守るくらいに。


「ど、どうですか…?」


紅茶ではなく生唾を呑んで、私は訊いた。お口に合わなかったらどうしよう、とそれが心配だったのだ。なるべくクセの少ない茶葉を選んだつもりではいたのだけれど。

こくり、静かにうなずきが返ってきて、ほっとしたわたしの肩から何かが抜けて行った。そこで初めて、肩に力を入れていたことに気付く。
安心して甘い蜜の缶に手をのばすと、彼の視線がそれについてきた。


「ソノオタウンでとれた、甘い蜜です。紅茶に入れたり、トーストに塗ったり。わたしこれが好きなんです」


というか甘いものが好きなのだけれど。でも、ソノオタウンの甘い蜜は格別だ。甘さはしつこくないし、舌の上でとろけていく。ヨノワールさんに使うかと尋ねたが、首を横に振られたので、スプーン一杯分それを自分のティーカップに入れた。とろっとした飴色の液体が紅茶に長い尾を引いて落ちていく。スプーンでかき混ぜると、紅茶の色がさらに薄まった。

ビスコッティをかじって、また目を瞬かせているヨノワールさんを見て、彼のこの反応は良いものなのだろうと推測した。乾いた唇から紅茶を流し込む。程よい甘さと温かさが身体に満ちて、それだけで幸せな気持ちになった。


ティーカップもビスコッティを乗せていた皿も空になったところで、ヨノワールさんは立ち上がった。
今度は何をして欲しいんだ、と尋ねる彼に、わたしは苦い笑みを漏らした。


「さっきの紅茶とお菓子は、模様替えのお手伝いです。それに見返りを求めるつもりなんてありません」


そう言ったわたしを見て、それから空になった皿たちを一瞥して、ヨノワールさんは口を開いた。
彼にしては珍しいような、少し、躊躇ったそぶりを見せてからの動作だった。


「もし、また来たら、その時は…」

「…紅茶、飲みますか?」

「…!」


一瞬、ほんの一瞬。見逃さなかったことが軌跡であるくらいの、ほんのわずかな時間だけれど、ヨノワールさんの口角が、緩やかに弧を描いた。錯覚だったかもしれないけれど、そうだと私は信じたい。

石畳の向こうに消えていった彼の背中を見送りながら、次はどんな茶葉と、お茶菓子にしようか、楽しみにしているわたしがいた。


第一話 はじまりは白から Fin.
back/しおりを挟む
- ナノ -