泣くもんか

アンネは喉の渇きを覚え、リビングまで水を飲みに行こうと、ベッドから起き上がった。時計を見たらもう夜の8時。昨日のドライブで疲れ切っていたから仕方のないことではあるけれど、ちょっぴりもったいない気もした。
うん、大丈夫。
立ち眩みもなく歩けそうなので、彼女は、覚束ない足取りでリビングへと向かった。

歩きながら考えるのは、流星の仔のこと。

(スゥはどこにいるのかな。また散歩に行っちゃったのかな…。それとも、テレビでも見てるのかな。)


リビングのドアを開けようと取手に手をかけた時、父親の切迫した声がした。
アンネは思わずそのままの体制で固まり、無意識に息を殺してドアの向こうのやり取りをうかがった。



「頼む…あの子の病気を治してやってくれ…!できるんだろ!?なぁ、頼む、頼むよ……」
「私からもお願いします。あの子に、元気になってほしいの。お願い……!」

「…あ、う……」


雛が責められている。理由なんてどうだっていい。
状況がわかったアンネのすることは、ただひとつ。

「っ!お父さん、お母さん!やめてよっ!」

バン、とドアを開けてリビングへ入り、雛のところへ。走れない身体がもどかしい。特に、最近はよく思うことだ。

「アンネ!」

「ママ…?」

自分の身体を盾にするようにして、両親と雛の間に割り込んだアンネ。
たったそれだけで息が切れて、膝から崩れ落ちそうにる身体。

それでも、背後の愛しい星の仔が、自分の子が、安堵したようにパジャマの裾を握りしめてくれるから。
それだけで背中を支えられた気がして。アンネにとっては、それが、無理をしてまで踏ん張る理由には十分すぎた。


「お父さんもお母さんも、勝手なこと言わないでっ!スゥちゃんはわたしの子どもだもん!困らせないでよっ!」

「アンネ…ごめんなさいね。でも、もう、これしか…これしか、方法が、」

「すまない、アンネ…」

ホウエン地方中のどこを探しても、あなたの病気を治してくれるお医者さんは、いなかったの。ごめんなさい。約束、守れなくて。すまない。守れなかった。

さっき雛を責めていた声音はどこへやら。泣き崩れながらそう口にした母と、その肩をそっと抱き、謝罪の言葉を口にした父を見て、アンネはようやく合点がいった。

目の前が、真っ白になった。

「お医者さん…見つからないの…?」


2人の沈黙は、アンネの言葉にうなずいたかのようだった。


ほんのちょっと前。つい、昨日のこと。両親は確かに約束をしてくれた。連れてくる、と。
とびきり腕利きの、すごい、医者を。

アンネが雛とずっと一緒に居られるように。
確かにそれを約束してくれた。


(なのに。なんで。)


アンネにとってそれは、死を宣告されるに等しかった。手術ができなければ、自分の病気は治らない。それは物心ついたときから知っていることだ。
ただでさえ難しい手術だということも。
その手術をしてくれる医者がいないとなれば、もはや病気は治らないと言われたようなものだ。
昨日まで、自分はすぐに死んでしまうものだと思っていた。それを、両親との約束で、一度は助かるかもしれないと、思ってしまった。だからこそ、そのショックは抱えきれないほどに大きなものとなった。



(あぁ、じゃあ、わたしは。)

年端も行かない小さな少女にとって、その事実は酷すぎるものだった。

(死んじゃうんだ。)



「………」


“息子”の前では、雛が見ているところでは、泣かない。
昔から泣き虫だった自分を戒めようと、雛と出会ってからずっと堅く心に誓っていたものが、呆気なく崩れ去ってしまった。

「ママ…?」

くい、と数度パジャマの裾を引かれる感触がするも、アンネがそれに応える気配はない。


今の泣き顔なんか、絶対に見せたくない。
せめてもの、ちっぽけな、意地だった。


ぐい、と強引に袖口で涙を拭い、口角をにぃっと上向きに無理やり引っ張り上げるようにして、笑みをつくった。どれほどうまく笑えているだろう。ひきつっていないだろうか。


あまりにも歳不相応の笑み。あまりにも、いびつで、あまりにも、滑稽に見えた。

それでもママは、気丈に振る舞うことを決めた。
だって、ママだから。


「大丈夫…!お医者さん、いないけど…っ、いないけどっ……。それでも、スゥちゃんがいるから大丈夫だよっ」

星の仔は、穴が空いたように己の母親と慕う者の顔を見つめていた。
まるで、彼女の顔を初めて見るかのように。


しばらくの間、アンネの母親のすすり泣き以外の音は一切聞こえなくなった。
沈黙が痛い。雛からの視線がまっすぐすぎて、今のアンネには痛すぎた。



その沈黙を破ったのは、不恰好で虚勢だらけの、無駄に明るいアンネの声。


「も、もう遅いから、スゥちゃんは寝なくちゃ。ね?一緒に寝る?」


雛はゆっくりと、首を横に振った。

「ん…いい。ぼく、ひとりで、寝る。おやすみなさい、ママ、お父さん、お母さん」
「おやすみ…なさい、スゥちゃん」


5日目。
出会ってから初めて、彼はひとりで寝ることを選んだ。

アンネは急に淋しい気持ちに襲われたが、こうやってスゥも大きくなっていくのかな、なんて考えると、少しだけ納得がいった。
それでもベッドの隣にあるはずの温もりがないことは、淋しいものだった。







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「お医者さん、お医者さん…すごい、お医者さん…!!」

探さなきゃ。とびきりすごい、お医者さん。

お父さんとお母さんから聞いた。

ママの病気は、ママが生まれた頃からあるもので、治すのが、すごく難しいこと。
治す方法はあるけれど、その手術が、すごく難しいこと。
お父さんもお母さんも、手を尽くして、この地方中のお医者さんを当たったけど、すごく難しい手術だから、誰もママのために手術をしてくれないこと。


すごく、難しいことだらけだ。
いくらお金があっても、できないものは、できないんだって。
だから、ぼくがお金をたくさん持ってきても、木の実をたくさん持ってきても、きれいなお花をたくさん持ってきても、ダメなんだ。

すごい、お医者さんを、持って来ないと、ママは助けられないんだって。

ぼくにはわからないこと、難しいことだらけで、多分、ぼくは、今の状況の半分もわかっていないと、思う。
……でも、それでも。
ママを助けたい気持ちに、変わりはない。


ママに会えなくなるなんて、ママが死んじゃうだなんて、そんなのいやだ!


でも、願い事はひとつだけだから、ママの病気を治すのには使っちゃ、ダメなんだ。ママは、その願い事を、自分を治すのに病気に使って欲しくないって、言ってた。
だから、ママが元気になったら、「ずっと一緒にいる」って願い事を叶えようって、ママとふたりで約束した。
約束、したんだ。

家族は、ずっと一緒にいるものだと、教えてくれたのはママだった。

ぼくだって、ママと一緒にいたい。
だから、願い事には、頼らない。自分の、チカラで、ママを助けたい。



ママが寝静まってから、そっとテレポートしてママの部屋に入る。

たくさんの本が、静かに並んでいた。

前にママが見せてくれた、ワールドマップ、というカラフルで分厚い本を、そっと床におろして、開く。


「ここは…ホウエン地方」

もしかしたら!

他の地方に、すごいお医者さんがいるかもしれない。
少しなら、字は読める。必死に、有名なお医者さんが載ってないか、探した。

でも、載ってない。
この本には、お医者さんは載ってないのかな。どれなら、載ってるのかな。わかんない。

助けたい気持ちばかりが先走って、無性に泣きたくなった。

でも、泣いちゃだめだ。
さっき初めて見た、ママの泣き顔は、見ていたぼくが、びっくりして、辛くなって、泣きたくなるくらいに、悲しそうで、たくましくて、守ってあげたくなった。


「お医者さん…お医者さん…」

「んぅ…」

「!」


小さなうめき声が聞こえて、首が飛んでいくんじゃないかってくらい、ぼくは勢い良くママのほうを見た。ママはおでこにシワをたくさんつくって、少し、泣いていた。

寝てる。泣きながら。

「ママ…」


そっと近づいて、きれいにふとんをかけなおしてあげると、ママはうめくのをやめて、穏やかな寝顔を見せてくれた。


ちゃんと、ママがぐっすり寝てるのを確認してから、また、こっそり忍び足で、開いたままの本のもとへと戻る。

あぁ、押さえておかなかったから、勝手にページがめくれてる。どこまで読んだかわかんないや。

ため息ひとつ。
読みかけのページを探そうとして、本に視線を落とした。

「……エス、びー…SBL研究所…?」

シンオウという、とっても寒い地方の、一番高い山、テンガン山。そのふもとにあるSBL研究所というところの紹介文が、まったくの無意識に、ぼくの目に飛び込んできた。
ぼくが探していた単語が、その紹介文の中に含まれていたから、目にとまったのかな。

読まないよりは、読んだほうがいい。そんな気がして、文を指で追った。

「え、と…“SBL研究所は、テンガン山のふもとにあり…”」

そんなことはもう見出しに書いてあるから見てる。先に、先に進め…。

「“シンオウ地方のみ、ならず…世界でも……”ん、読めない…」


あれ、この文字、何て読むんだろう?
指先ひとつで辞書を棚から浮かせて引っ張り出し、ページをめくる。

「ずい…随一、えっと、“世界でも随一の…医……”っ!」

“医”。その先のなんだかごちゃごちゃした文字は複雑すぎて読めない。でも、この“医”って文字は、お医者さんの“医”と同じ文字だ。

あわてて念力を総動員して辞書のページをめくる。
こんなことなら、もっと読み書きできるようになっておくんだった!

「ん、あった…“医療…ぎじゅ、技術、”世界でも随一の…医療技術…?」

つまり、この世界で有名な、とびきりの……お医者さんが、いるってこと……?


行かなきゃ。今すぐ。シンオウに、テンガン山の、ふもとに。そこにあるSBL研究所に、行かなきゃ。そこのお医者さんなら、ママを助けてくれるかもしれないんだ。
お願いして、ママを助けてもらおう。

行ったこともない場所だから、テレポートがうまくいかないかもしれない。どこか、全然違う場所についちゃうかもしれない。でも、明日1日中探し回れば、きっと見つかるはず!

いつもなら、本を大切にしなさいって、怒られちゃうけど、ごめんなさい、ママ。今日だけは特別にゆるしてね。ワールドマップの、SBL研究所のページをそっと破りとり、懐に仕舞い込む。

願う。念じる。シンオウ地方へ。
いつもよりも何倍も何倍も、うんと集中して、テレポートするためのチカラを蓄えていく。
待っててね、ママ。とびきりの、すごい、お医者さん、連れてくるからね!


「ママは、ぼくが、守るんだ…!」


呟いた瞬間、視界がぼやけて、真っ暗な世界に包まれた。
最後に見たママの寝顔には、穏やかな笑みが浮かんでいた。

モドル
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