好き、嫌い

古いホウエンの文献によれば願いを叶えると言われている伝説のポケモン、ジラーチ。

タマゴのようなものから孵ったというそのポケモンをアンネが拾ったことも驚きだが、世話をすると言い出したことも十分驚きに値するものだった。
生まれつき心臓が弱い彼女に、あと七日間しかこの世界で生きる権利を与えてくれなかった神様の、せめてもの償いなのだろうか。奇しくも、ジラーチが眠りから覚めていられる期間も七日間だ。

はじめは反対しようかとも考えたが、アンネの目を見たら何も言えなくなってしまった。「ママになる」というアンネの意思を、何よりも尊重しなければならない、そんな気がした。
アンネの母親は、そっと夫と視線を合わせ、それからどちらともなくその視線を愛しい娘へと向けた。昨日の、それこそ夢のような出来事が、夢ではないことを確かめたかったという気持ちがあった。

星の子が千年の眠りから目覚め、アンネの新居で暮らしはじめて二日目の、穏やかな昼下がりのことだった。


『ママ、これなあに?』
『ねぇねぇ、ママ、これきれい!』
『どこいくの、ママ?』

ママ、ママ、とアンネのあとをついてまわるカナリア色の幼子は、まさに刷り込みによって母鳥のあとを追う雛鳥そのもの。

「これは、しおり。どこまで読んだかわかるように、本に挟むの」
「きれいでしょ、この絵本!北の地方の絵なんだよ。」
「ちょっとお水を飲みに行くの。スゥちゃんも一緒に行こうね」

自らを慕いついてまわる星の子の質問に逐一答えてやり、優しく頭を撫でるアンネの振る舞いもまた、雛鳥を慈しむ母鳥そのもの。

その様子はままごとのようでもあり、本当の親子のようでもあり、幼いポケモンの世話を焼くトレーナーのようでもあった。アンネはジラーチを、雛と名付けた。カナリア色の頭部と、背中からはえている、同じ色のたなびく尾羽のようなものからイメージを得たのだろう。

もしも、本当に、ジラーチが願いを叶えてくれる存在だったとしたら、あるいは…。
そこまで考えて、その先を続けてしまうのはやめた。どうするかは娘次第。彼女が雛の、“母親”なのだから。



「アンネ、雛ちゃん、ごはんよ!」
「はーい!行こう、スゥちゃん」
『うん、ママ!』

今日のお昼はピザだ。医者の承諾を得て、この七日間は娘の好きなものばかりを作ってやることにした。度重なる入退院や手術、そして食事制限の繰り返しだったのだから、この七日間くらいは、もういいだろう。そういう考えがあってのことだった。

「わあ…!」

リビングのドアを開けた瞬間に、焼けたチーズの香ばしいにおいが届いたのだろう。アンネはいっぱいいっぱいに深呼吸をして、むせそうになりながらもニッコリと笑った。

「ピザだ!」
『ぴ、ざ?』

ピザを知らないのだろう。それでも、美味しそうな匂いだと判断したのか、雛もアンネにならって、くんくんとピザの焼きたての香ばしい匂いをいっぱいいっぱいに吸い込んでいた。

「さあ、二人とも座って。冷めないうちに食べちゃいましょう」
「『はーい!」』

ポケモンを一度も持ったことがなかったため、はじめはどうやって世話していけばいいのかと頭を抱えた。いきなり雛と暮らすことになったのだから、当然ポケモンフードは家にはない。買えばよい話ではあるのだが、はたしてどんな種類のものを買えばよいのか。野生にそうそういる種族ではないというのはうすうす感じていたために、ポケモンセンターに連れて行って相談するなどといった、好奇の視線にさらされるような行動は控えたかった。何らかの危険を招く恐れがあるかもしれないから。

しかし、昨日の晩御飯の時に、その悩みはあっさりととけてなくなった。

「「いただきまーす!」」

雛は、生まれたばかり(この場合は目覚めたと言うべきだろうか)の幼子であるのにもかかわらず、すでに擬人化を会得していたのであった。ポケモンと密接なかかわりを持ったことはなかったけれど、ポケモンが人の姿をとり、人の言葉を話すということは、うっすらとだが知っていた。
これでご飯の問題は解決した。

エスパータイプが入っているのか、原型の時でもテレパシーを使って話しかけてくるし、世間知らずのきらいはあるものの、日常会話には支障をきたさない程度の語彙力もあった。

「わーのびた!のびた!」
「はい、スゥちゃんの分だよ」

アンネがピザを取り分けている様を、ぼんやりと眺める。アツアツのチーズが、一切れ一切れ小皿に分けられていくたびにとろけて伸びるのが、雛にとっては感動ものらしい。
あわてて買い足した子供用の真新しい椅子に座り、床につかない足をぶらぶらさせている男の子は、そのカナリア色の髪から、間違いなく雛である。フォークを握りしめ、飽きもせずに“母親”の手際を熱心に見つめていた。
夜空色の瞳がキラキラ輝いていて、なるほど、この子はまさに、星の仔だ。

以前まではじっと私たちが取り分けていたご飯を、見ていただけだったのに、今となっては自分で進んでその役割を担っている。責任感や比護欲がわいたのだろう。それはきっと、雛がいなければずっと娘にはなかったものだっただろう。

娘が触れ合ったポケモンがこの子で、本当に良かったと思った。



「お母さん、おなか、いたい?食べない、の?」

天使のような顔立ちを心配そうな色でいっぱいにしながらこちらを見ている雛に気づき、ハッと我に返った。見れば、アンネもフォークを止めてこちらを見ている。そんなに長い間、考え事をしていたのだろうか。


「なんでも、ないわよ。晩ごはんのこと、考えてただけだから。ほら、アンネ、ピーマンも食べなさいよ?」
「うー…」

ピザは好きだが、どうにもピーマンだけは苦手なアンネ。きれいにピーマンがのった部分だけを残してかじっている。雛はというと、はじめはぱくぱくとアツアツのピザを嬉しそうにほおばっていたが、ピーマンを口に入れた瞬間に、ギュッと顔をしかめた。雛もピーマンはまずいと思ったらしい。

「うえぇにがーい!」

ごくごくとオレンジジュースを飲み干してしまった雛。
二人とも同じものが苦手で、食べたときに同じ反応をするのが、なんだかとてもほほえましかった。何もそんなところまで似なくてもいいのに。

二人して小皿のピーマンを凝視している光景に、自然と苦笑が漏れた。その様子に、一家の大黒柱も困ったように笑っている。


「アンネ、せっかくのせたんだから食べなきゃ」
「うー!なんでのせたのー!?」
「だって色味がきれいでしょ?それにお父さんもお母さんも、ピーマンは平気よ?」
「わたしは平気じゃない…」
「ほらほらアンネ、雛にお手本を見せてあげなきゃ!」

フォークでピーマンを異物のようにつんつんといじくっていたアンネが、ハッとして、はじかれたように顔を上げた。
ピーマンとにらみ合うこと数秒。瞳を閉じると同時に、ギュッとフォークを握りしめた“母親”は、大きく口を開けてピーマンを迎え入れた。ほとんど噛まずにオレンジジュースで流し込んでしまったことから、本当にしぶしぶ口にしたことが見て取れるけれど、前まではなんだかんだと言い訳をしてごねて、結局食べずじまいだったのだから、これは大きな大きな進歩だ。

「ママ…?」

雛はピーマンを完食したアンネの顔を、穴が開くほど見つめている。そこに浮かぶのは、あこがれや尊敬の気持ち。アンネの顔を見、自分の小皿を見、またアンネの顔を見、次第に戸惑いの表情になっていく。

「ママ、食べた…?」
「うん。ほら、スゥちゃんも!」
「う…い、いやだ…!!」

フォークをおいて試合放棄の雛。床についていない足をじたじたとさせて、首はぶんぶんと横に振られている。幼いころがんこにごねていた娘を彷彿とさせる。説得は難しそうだ。

「スゥちゃああん…わたし食べたのにいぃ」
「苦いのはいやだ…」
「ス、スゥちゃん、わたしのこと、ママのこと、嫌い?」
「!す、好きっ!ママ好き!!」
「じゃあピーマンも、ほら、」

アンネが小皿に転がっているピーマンをフォークで刺し、雛の口元まで持っていく。
雛鳥は追いつめられて、おろおろと視線をさまよわせた。口はギュッと引き結んだままだ。

「ううううう…!ママ、ごめん、無理!ご、ごちそうさまっ!」
「あっちょっと!もう…。ごちそうさま!」

パタパタとサイズの合わないスリッパを引きずるようにして、星の仔は“母親”の部屋へと戦線離脱していった。後を追うアンネ。

ちゃんと歯磨きをしなさいよ、と声をかけると、きちんと二人分の返事が聞こえてきた。


娘の成長を見守るのもいいが、晩ごはんは、ちゃんと彼女の好きなものだけにしようかしら。オムライスがいいかしら。でもそれならピザソースとケチャップとが同じ味でつまらないわね。トマトつながりでいくなら、スパゲッティミートソースも、ミネストローネもだめね。

…そうだわ、シチューにしましょう。



「あら、でも…」



アンネは、ニンジンも嫌いだわ。
そしてまた、晩ごはんのメニュー考察は振出しに戻るのであった。





野菜


モドル
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