耳を揺蕩う美しい旋律をBGMとして、美しい塗装のされた外国ものの本を少女は読み耽っていた。最後の一文字を噛みしめて読書後の余韻に浸る。
 窓の外からの差し込む白い光と、淡い花びらがグランドピアノとその奏者に降り注ぎ、一枚の絵のような完成度をもたらしていた。
 穏やかな春の午後だった。
 少女にはピアノから聴こえるメロディーが何の曲なのか分からなかったが、繊細で滑らかな指さばきから生み出される、優雅で軽やかなそれは少女の心を弾ませる。
 玉響の調べが終わると少女は奏者の少年へと拍手を送った。
 フン、と少年の顔が得意げなものに変わり、さながらコンクールの時のように恭しく礼をしてみせた。

「すごいです、とても綺麗でした」
「あぁ、久しぶりに弾いたが……意外と弾けるものなのだよ」
「ちなみに、何の曲ですか?」
「ラバーズ・コンチェルトだ」

 恋人達の協奏曲。
言われてみると少女は聞き覚えがあったのか、あぁと頷いていた。

「しかし……少し集中して弾きすぎたな。喉が渇いた。……何か飲むか?」
「ミルクティー!」
「お汁粉という選択肢がだな……」
「ダージリンの紅茶にミルクと砂糖」

 少女が有無を言わせずに希望を押す。少女が見かけによらず頑固ということを少年は知っていたから、渋々大好物のお汁粉を諦めて小さな暴君の意向に従った。
既に水の入っていたケトルに火をつけ、ポットの準備に取り掛かる。

「手伝いましょうか?」
「いい、これくらい俺だけでもできる」

 少女は、ぱちりと目を瞬かせた後、口元に笑みを浮かべた。
ミルクティーを作ることを料理にカテゴライズするか迷ったが、料理が苦手な少年が自分のために作るという行為に、少女は嬉しさを覚えたらしかった。
危うげのない手つきで淡い緑と、紫のカップを用意し、要望通りのダージリンが綺麗な赤茶の色が出るまで蒸らす。

「ミルクティーですと……」
「猫舌のお前はミルクが先で、紅茶とミルクの割合は3:1。そして最後に角砂糖3つ、だろう?」

 ひどく驚いた顔をする少女に、少年は先程と同様にしたり顔をした。冷たいミルクの入った紫色のカップに豊かな香りを漂わせる濃い目のそれを注ぐ。

「長年の付き合いだ、お前の好みくらい覚えるのだよ」
「そうかも……ですね」

 ピアノの鍵盤を踊っていたその指が今度は角砂糖を落としていき、ぽとりと落ちた砂糖を追うように、スプーンが渦を作っていく。少年のカップにはそのままダージリンが注がれ、少女のいる窓際に2つのカップが送られ、少女の手に紫のカップが納まった。

「そういえば何を読んでいたんだ?」
「ふー……、トマス・モアのユートピアです」

 一息吹いてから少女は液体を嚥下していく。少女は喉元を通って胃へと落ちていく甘ったるい飲み物に満足したのか目を細めた。

「真ちゃんは理想郷なんてあると思いますか?」
「さぁな。どこにもない良い場所なのだから、判断しかねる」
「ふふ、らしい答えですね」

 トマス・モアの考えは共産主義を思わせる。どの時代も時の権力者から愛されてきた「金」という物質はユートピアでは奴隷の足環になるほど軽蔑されている。

「私もそれほど金は必要ないと思うんです……、現実的な考えは無しとしますけど……。金を装飾として使うなら、そこらで咲いてる花の方がいいです」

 実際少女は、部屋に散っている桜の花びらの方がどんな宝石よりも美しく見えていた。その一枚が少年の肩口に降ってきたのを見た少女は、近寄りそれをつまみあげる。
 ふわり、と宙に漂ったそれが花の絨毯の中に仲間入りするのを見届けた少女は、近寄ったのをいいことに少年の肩に頬を寄せ、寄りかかった。

「私はあると思ってます。と、いうかあります」
「ほう」

 触れた所から伝わっていく体温に少年はなんとなく、胸が締め付けられるような、ふわふわした気持ちが浮いては沈んでいくのを感じた。そんな少年の心情を知ってか知らずか、少女は母親が子守唄を歌うように優しい声で言う。

「花と本にピアノとミルクティーですかねぇ」
「……随分と少ないな」
「まさか、まだありますよ」

 少年からの翡翠の眼差しを受けて少女はクスリと笑った。
 最後に大切なものがもう一つ。
少年の耳元へ唇を寄せて子供が秘密をこっそり教えるように囁きかける。

「そして真ちゃん、貴方です。そうしたら私のユートピアは完成するんです」

 少女が微笑む。
 囁きも、微笑も全て隠しこむように少年が腕に閉じ込めて、春を囀るような唇を塞いでいるとき、二人の瞼の外、少女のユートピアでは一枚の花弁が少年のカップの中、赤茶の海にひらりと迷い込んだ。


寄り添うにいじらしく春よ





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