ぬっと現れた骨太な手は、閉まりかけたタクシーのドアを異様なほど激しくつかんだ。運転手に注意されるのもおかまいなしに、彼はドアを力強くつかんだまま、絹糸みたいな雨が降り続ける道路に立ち尽くしている。
 驚いたら、本当に涙は止まるものなのだ。熱を持った目元に控えていた涙がすうっと引っ込む瞬間に、指先が震えた。あぜんとするわたしをエスコートするようにゆっくりと車から降ろし、寿さんは身体の半分だけ乗り込んで運転手に謝る。タクシーの自動扉が閉まった。渋い緑色の車体が夜の大通りに溶けこんでゆくのをじっと見守っていた寿さんは、不意に肩を小さく回してそっと振り返る。柔和な微笑みを浮かべてはいるけれど、煌々と輝くショーウィンドウたちに照らされたその肌は、少しだけくたびれていた。送るよ、の一言は、とてつもなく重たかった。
 メトロノームのそれによく似たワイパーの単調な音が、春のやさしい雨の響きをかき消している。ボリュームが小さすぎてなんだかよく分からない音楽がかかっているけれど、それも同じことだった。外の湿気の影響か、車内の空気もしっとりと水気をはらんでいる。信号機の潤んだ赤が、車内をぼんやりと照らしていた。運転席のドアに寄りかかっている透明なビニール傘も、同じ色に染まっている。
 どうして泣いてたの、なんていうことを、寿さんは言わなかった。ここのところ仕事がうまいことゆかなくて、終バスもとっくに出発している時間で、友達からのメッセージへの返信も滞っていて……どれ一つとして、ろくなきっかけにならない。いろいろなことが重なったせいか、子供でもないのに情緒不安定になってしまっただけなのだ。みっともない言い訳をせずに済んだのは不幸中の幸いだったけれど、こんなところを他でもない寿さんに見られてしまうなんて。それこそ泣きたい気分だった。
 身の程も知らない想いを抱き始めたのは、いつだっただろう。勘の鋭い彼のことだ、わたしの気持ちなんてとっくに知っているに違いない。密閉された空間が息苦しくて、生唾を飲み込む。
 信号が青に変わり、車は滑らかに動き始める。交差点を二つほど通過したところで、寿さんが「スタジオの近くだったよね」と言った。それはバラエティ番組なんかでの口調とまるっきり同じで、わたしは思わず運転席へと目をやった。はっきりとした目鼻立ちのせいで顔に少し影が浮かび、その横顔はまるで彫刻のようだ。思わず目を奪われて、一瞬……ほんの一瞬だけわたしの時間が止まった。空気の微妙な変化に気がついたのか、寿さんは横目でこちらを見やった。そのまなざしは突き刺すように鋭く、それでいて身体の芯から溶かしてしまいそうなほど温かい。わたしはそれにすっかり支配されかけたけれど、わずかに残った見栄に似たなにかが抵抗する。駅までで大丈夫です、とわたしは言った。

「ホテルに泊まるの?」

 彼にしては少し激しい口調だったことになにか感じたようで、寿さんはすぐに短く謝った。
 ここから家までは相当な距離があるから、タクシーで帰るのは高くつく。こんな時間に友人に連絡して泊めてもらうわけにもゆかず、寿さんの言う通り、駅近くのビジネスホテルに一泊するつもりでいた。だから、詰問するような口調に驚きこそしなかったけれど、のんきに「そうです」なんて言い出せなくなってしまったのだ。
 明日、仕事?
 このあと、ちょっと付き合ってくれる?
 車内に沈む痛いほどの沈黙の助け船とも思われる彼の言葉は、明らかに他の意図を隠し含んでいる。でも、その意味を考えたくなかったから、わたしはあれこれ言うまでもなく同意した。走ろうか、と寿さんは言い、その後しばらくは決して口を開こうとはしなかった。
 海浜公園のあたりまで来たらしい。車のスピードはすっかり落ちていた。窓からは海がよく見える。向こう岸に乱立するビルの明りは黒々とした波に反射し、時折鈍く光った。引きずり込まれそうな春の海を見ていると、なんだか背筋がぞっとした。不意に寿さんはウインカーを出し、路肩に静かに停車した。あたりにはろくな街灯もなく、霧のように降り注ぐ雨がわたしたちを孤立させる。寿さんはハンドルに寄りかかるようにしてフロントガラスの奥に広がる闇を漫然と眺め、微動だにしない。ガラスに映った彼のビー玉みたいな瞳は、恐ろしいほどに純粋だ。走行音が止んだせいで、流れ続けていた音楽のボリュームが上がったような錯覚に襲われる。歌詞のない曲だった。
 どこでもない向こうを見つめていた、いつになく印象的な黒目がくるっと動き、ガラス越しにわたしを捉える。力のないまなざしだった。
「寒い? 暖房、強くしようか」薄く微笑んで寿さんが伸ばした手を、わたしは制した。「大丈夫です……大丈夫です」手の甲は、この天気にも関わらずかさついていて、そして子供みたいに温かかった。
 音のない息を吐きながら、寿さんはゆっくりと背もたれに身体を預ける。わたしは顔を伏せた。とんだことになってしまったな、と後悔していた。予想できなかったのではない、予想したくなかったのだ。

「ぼくは、どうしたらいい?」

 視線を感じて顔を上げると、フロントガラス越しに、寿さんがわたしを見つめている。いつもよりほんの少し細められた目は、滴るようななにかを灯していた。その色に魅入られてしまったのだろうか、曖昧に首を振ることすらできない。

「名前ちゃんを送って、家に帰るか……それとも……名前ちゃんと一緒に、家に帰るか」

 その意味を咀嚼し終える前に、寿さんは重ねてわたしに尋ねた。「ずるいと思う?」寿さんのまあるい目が、上澄み程度にとろける。微笑みにも似た表情を変えることなく、ごめんねと優しい声で彼は謝った。
 ごめんね。寿さんがそう言わなければ、その質問はさして「ずるい」ものにはなっていなかっただろう。結局、わたしはなにも言わなかった。少し肌寒かったのが嘘みたいに、今では身体の芯が燃えていた。
 外は冷えているのだろう、窓は結露して白く曇り、さっきまで向こうに見えていた黒い海も消えてしまった。
 雨の音にかき消されかけながらも懸命に流れ続けていたCDは、そのどれもやっぱり歌詞がない。古い映画のサウンドトラックかとも思ったけれど、それにしては曲調がアーバンすぎる。五、六曲ほど似たような曲が続き、またサックスが新しいメロディを紡ぎ始めて、ようやく寿さんがこちらを直接見た。ガラス越しでない彼を見るのは、もうずいぶんと久しぶりな気がする。

「そろそろ、帰ろうか」
「どこに……?」
「うん……イエに」

 彼の言う「イエ」というものが、寿さんの「イエ」なのか、それともわたしの「イエ」なのか……それを聞くことはできなかった。その大きく平たい手のひらが、ハンドブレーキを下ろしたから。
 ここに着くまでののびきった走り方からは想像もつかない、快調なスピードで、海沿いを駆けた。あっという間に海浜公園を抜け、小さめのビルが所狭しと立ち並ぶ大通りに吸い込まれる。時間も時間だからだろう、周りを走るのはタクシーばかりだ。街灯も少ない海沿いにいたからか、ビルの窓からこぼれる蛍光灯の白い光が昼間のように明るく感じる。別世界に来たようで、少しだけ居心地が悪かった。
 見慣れた風景が車窓を流れ始めたあたりから、わたしは運転席を見ることができなくなっていた。彼の言った「イエ」が、わたしの家だったから。そして、あえて答えなかった……答えられなかったわたしの無意識のうちの希望を、寿さんが見抜いていたことに気がついたから。
 住宅街に入り、車はぐんとスピードを落とす。早く家に着いてほしいけれど、まだこうして夜の道を漂い続けたいとも思う。まるで魔法にかかってしまったかのように、意識には白いもやがかかっている。

「次の交差点、左で合ってる?」
「あ……ああ、はい……突き当りです」

 うん、突き当り……突き当り。寿さんは、噛みしめるように繰り返した。それが記憶するための反芻でないことだけは、わたしにも分かった。
 気が遠くなるほど慎重に交差点を左折すると、アパートのちょうど真横に、リニアモーターカーみたいにすうっと停車する。今度こそ、心の奥に熱く沁み入るような沈黙が車内を支配することはなかった。「連れ回しちゃってごめんね」寿さんは、穏やかな笑顔をにじませていた。そこには、なんのよけいなものも含まれていない……本当に、本当に純粋な微笑みだった。海沿いの粗いコンクリートの道に車を停め、抵抗のしようがないなにかを瞳の奥から発していた寿さんは、ここにはいなかった。拾ってもらって一時間も経っていないのに、めまぐるしいほどに彼は表情を変える。その度にわたしは平常心を失い続けるのだろうか。
 わたしがドアを開けるより少し早く、寿さんはエンジンを切ってすばやく降車した。透明なビニール傘を広げ、車の前方から回り込むと、助手席のドアを開けてくれる。傘に雨がぱらぱらと当たる音が、妙に印象的だった。どうぞ、とでも言うようにからっとした顔でわたしを見つめる寿さんと、離れたくないと思った。今さらこんなことを思うなんて、どうかしている。寿さんに悟られないように、なんとか取り繕おうとしたけれど、こういうところに彼はすこぶる敏感らしい、すぐに瞳の様子が変わる。繊細な水彩画みたいに、太陽が地平線に沈む時みたいに、じわじわと。それは海沿いの粗いコンクリートの道に車を停めていた時のものと全く同じ色へと変わり、住宅街には不釣り合いなほど艶めいたまなざしは、わたしの身体をしっかりと拘束した。
「次は、終電逃しちゃ、いけないよ」もう、なにも考えられなかった。


誰もが胎児となりゆく夜へ





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