「治、お帰りなさい」

「ただいま、名字」

治に渡された沢山の本を読み終え、暇になってしまったなぁと思った時。丁度、治が帰ってきた。時計の針は六時を示している。少し皺のついたスーツに飛び込んで、ぎゅぅっと抱き締める。嗚呼、良かった。今日も治が無事で。治は、少し危ない事をしているらしく、時々怪我をして帰ってくる。だから何時も心配だけど、治はちゃんと僕の元へ。僕と暮らすこの場所に帰って来てくれる。何をしているのかは解らないけれど、今の僕の世界は治の存在だけで満足だから。

「今日は名字の誕生日なんだよ。少し遅い時間になってしまったけど、今から一緒にこの前云っていた紅葉を見に行こう」

僕は頷くと、治と御揃いの靴を履いて外套を羽織る。其れから、しっかりと左手を治と繋ぐ。嗚呼、嬉しいな。もうすぐで紅葉の季節が過ぎてしまう。折角綺麗な紅葉が見られる観光名所がこの近くの有るのだから、行きたいと云っていたのだ。

其の場所は徒歩数分で着くけれど、僕を危険に巻き込みたく無い治から無闇に外出をしないようにと云われていた。当然、治に心配をさせてしまいたくは無い為、一人での外出を控えていた。其れに、僕は治と紅葉を見たかったのだ。一人では意味が無い。

其の場所に着くと、辺りは既に暗くなっていたが紅葉はその闇に綺麗に映えていた。思わず感嘆の声が漏れると、名字が喜んでくれて嬉しいよ、と治が頭を撫でてくれた。其れから、左の耳元でチャリンという金属音と僅かな重み。腕時計の硝子を見ると耳に紫水晶のイヤリングをつけた僕が映っていた。触って確認すると、確かにイヤリングがついていた。ふと治を見ると、治の右耳にも其れはあった。

「誕生日の贈り物だよ。お気に召してくださったかな?」

にこりと微笑む治の様子からするに、御揃い、ペアのイヤリングだと解る。

「治、ありがとう。大好きだよ」

御礼を云い抱き締めると、治も「私もだよ」と云って抱き締めてくれる。治からは心地良い治の匂いと、それから少し血の臭いがした。怪我はしていないから、一昨日のだと思う。今度洗ってあげよう。嗚呼、でも本当に幸せだ。だから、絶対に忘れたく無い。


僕には過去の記憶というものが無い。どうやら記憶を失ったのだ。世間一般では記憶喪失と云う。僕が其の事を治に教えられてから未だ一年も過ぎていない。治は僕に沢山の知識と愛情をくれる。それに、治と居ると懐かしく安心する為、不思議と不安とかは無かった。治にとって僕は大切な人だったらしい。覚えてはいないけれど、そんな気がした。兎に角、僕は治の事を信頼している。治は優しくて、僕を本当に大切にしてくれているという事が凄く解る。だけど、時折心配しすぎの気がする。其の事を、確か、そう。過保護と云うらしい。でも、僕は其れで幸せだから其れで良い。

だから、どうか。僕がもう二度と治を忘れないように。忘れる事の無い、消えることの無い記憶を刻む。


消えない記憶が欲しかったんだ




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