学園の大掃除はどうしていつも冬の寒い日に行われるのだろう、というのが、私と友人達の間でのもっぱらの不満だった。
 煤や埃で黒ずんだ床は、足袋に包まれた足の指先を震えさせるし、重い箪笥を持ち上げれば、冷たい角をつかむ指先が、赤くなって痛くなって、千切れそうになるほどだった。
 毎日辛い鍛錬をして、忍者としての力をつけている忍たまたちはまだいいかもしれない。でも私達、くのたまにも同じ仕事を求めるのは、いささか酷という物じゃあないだろうか? そう考えた私は勇気を振り絞り、山本シナ先生にすこうし苦情を言ってみた。すると先生は「そうね」と優しく微笑み、
「確かに力仕事は、私達女には少々辛いものがあるわね。じゃあ#名前#ちゃんにはもう少し力の要らない、床の拭き掃除に係を代わってもらいましょうか?」
 と言った。ちょうど近くで床を拭いていたみかが、きらりと目を輝かせて私の方を見る。その指先が水の冷たさに真っ赤に染まっているのを見て、私はさあっと青ざめた。
 近くにあった小さなつぼを持ち上げて、私が「が、頑張って今の係を続けます」と言うと、シナ先生は満足げに頷いて(みかは少々残念そうにうなだれて)、すっと長屋の外を指差した。私は先生に指示されるままに、くのたま長屋をとっとと後にしたのだった。

 私がくのたま長屋から持ち出したつぼは、どうやら今度から忍たま長屋に置かれることとなるらしい。その大きさに似合わず、つぼはずっしりと重い。持ち手もないので、どうやって持とうかと四苦八苦しながら、私は忍たま長屋に上がりこんだ。
 忍たまたちもやはり大掃除に追われているようで、少し辺りを見渡しても、一年生達が一生懸命校庭の掃き掃除をしていたり、五年生が重そうな火気を運んでいたりと、皆忙しそうに働いていた。普段は女人禁制の場所だからだろう、くのたまが一人いるだけで、物珍しさからか警戒心からか、ちらちらと視線が向けられる。早くこの場所を離れようと、私はつぼを両手で持って、慌てて目指す部屋に向かった。
 慌てていた、それがいけなかったのかもしれない。
 ちょうど廊下の角を曲がった辺りで、私の目の前に突然緑色の人影が現れた。きゃあと私は勢いよくつぼを放り出して、つぼを投げつけられた人影は「うわあ」とそのままひっくり返った。その拍子に、がしゃがしゃんと何かが崩れる音がする。
 思わずつむった目を恐る恐る開けば、私の目の前で大の字になって倒れていたのは忍たまの六年生であった。緑色は制服の色である。つぼは彼の胸で受け止められたのか、傷一つなくその忍たまの上に横たわっていたが、代わりに重たいつぼをぶつけられた彼は完全に目を回しているようだった。打ち所が悪かったのかもしれない。
「す、すみません! 大丈夫ですか」
 彼の隣にしゃがみこみ、息があるのを確認しながら声をかける。ううん、と彼が声を漏らして、私はほっと息をついた。
 つぼを彼の胸から脇によけ、それからふと、つぼが無事なら先ほど聞こえた音はなんだったのだろうかと思案する。がしゃんがしゃんと、軽い木切れが落ちるような……からんからんと、小さな陶器が音を立てるような……
 す、と私が視線を隣に移動させると、彼の腕の横から、白くにゅっと細いものが飛び出しているのが見えた。ぱちぱち、と何度か瞬きをしてから、ようやく私はそれが何なのか理解した。「ひっ!?」パッと素早く体を起こし、ものすごい勢いで彼から距離を取る。ずるりと足が滑るのは、私から垂れた冷や汗によるものだった。
 あの白くて堅そうな、それでいて細いあれは、あれは授業で習ったまさしく……!
「ほ、骨が……!」
「ほね?」
 私の声に意識を取り戻したのか、彼が曖昧な声を漏らした。そしてそのまま体を起こそうとするので、私は慌てて彼に駆け寄って、「駄目です!」とその体を押さえつけた。
「ほ、骨が飛び出るなんて重体なんですから、大人しくそのままいてください! せ、先生をいま」
 呼んできます、と続けることは出来なかった。私の下から、突然「あはは」と笑う場違いな声が聞こえてきたのだ。私の下にいるのは六年生の忍たま一人であり、しかし彼は大怪我をしているはずで笑えるはずもない。これは一体どういうことだ、と混乱する私を容易く持ち上げて、よいしょ、と彼は上体を起こした。私の体はぽん、と彼の正面に軽く置かれた。
 私に優しく微笑む彼は、よく見れば血の跡一つなく、倒れた時に着いたであろう埃で濃緑の制服が少々汚れているだけである。ただただ瞬く私の頭を撫でて、彼は「心配してくれてありがとう」と言った。
「でも安心して、これは僕の骨じゃないんだ。僕はこの通りぴんぴんしていて、これは僕のコーちゃんの……」
「コーちゃん?」
 あっ! 突然彼が叫び声をあげ、ぴょんと立ち上がって後ろを振り向いた。そうすると私にも彼の下敷きになっていたものが見えて、ああ、と私は納得する。
 彼の下に無残な格好で落ちていたもの、それは骨格標本だった。
 きっと私が彼にぶつかりそうになった時、彼はその骨格標本を背中に背負っていたのだろう。大掃除のために、部屋から運び出そうとでもしていたのかもしれない。しかし私が現れて彼につぼをぶつけたせいで、彼は骨格標本から手を放し、その上に倒れこんでしまったのだ。
 おまけに倒れた彼の制服の下から覗く骨格標本を見て、動転した私はてっきり彼が怪我をして彼の骨が飛び出したものと思い、慌てて彼を押し倒してしまったのだろう。
 そういうことか、と納得して頷く私とは逆に、彼は骨格標本(コーちゃん?)の哀れな有様をみて、すっかり落ち込んでしまったようだった。いくつか骨も外れ、おかしな方向に頭を傾げさせたコーちゃんを前に、「そんなあ」と頭を抱えてしゃがみこんだ。
「せっかくこの間修理が終わったばかりだったのに……今度は自分で壊しちゃうなんて……」
「す、すみません」
 出合い頭にぶつかったのだと言えば互いの責任にもなろうが、思い返せばどう考えても私の前方不注意が原因だ。加えて、彼は忘れているようだが、私は彼の胸に思い切りつぼをぶつけて目を回させてしまったのだし。なんだか私はひどく申し訳なくなってしまって、小さくなってそう謝罪した。すると彼は私の存在を思い出したのか、ああ、と言って私を振り返ると、
「いや、君のせいじゃないよ。僕はどうにも、不運なことが多くてね」
 と、それでもやはり幾分気落ちした様子で言った。不運、という言葉に何か引っかかりを覚えたものの、さほど気にすることもなく、でも、と私は言葉をつづけた。
「やっぱり私がぶつかったせいですから、修理くらいはお手伝いさせてください」
「そこまで責任を感じられると悪いなあ。だけど、そうだね、手伝ってもらえると助かるよ」
 僕の部屋はこっちなんだと指差された方向には、六年は組と書かれた札がぶら下がっていた。そこまで聞いてようやく私は、この六年生の忍たまが誰なのかということに思い当たる。落ちているコーちゃんの大腿骨を踏んで目の前で転ぶ彼の姿を見て、私は「手伝うなんて言ったのは、少し早まったかなあ」と後悔した。
 六年は組、善法寺伊作。保健委員長でもある彼は、他の人よりちょっぴり、運が悪い。



「それにしても、骨というのは思った以上に軽いものですね」
 コーちゃんの脛骨と腓骨を善法寺先輩に手渡しながら私がそう言うと、そうかな、と彼が相槌を打った。先輩は受け取った二本の骨を大腿骨に取り付けようと、骨の角度をあれこれと変えながら難しそうに骨を眺めている。
「そういえば、小平太もそう言っていたな。骨の中は空洞なんだから、軽くて当たり前だと思うけど」
「空洞なんですか?」
 そうだよ、あ、そこの足を取ってくれない。善法寺先輩に言われた足首から先の骨の組を渡すと、彼は慣れた様子で足の骨を組み立てた。私の仕事はただ、置いてある骨を渡すだけだ。
 くのたま二年生の私には骨の種類も数もわからないので、組み立てる手伝いができるわけもない。きっと私がいない方が、彼は手早く修理できるのだろう。それでも私をここにおいてくれたのは、おそらく私の罪悪感を減らすためだ。
 不運であっても、優しい人だと思う。「ようし、あともう少しだ」と笑いかけてくれる顔を見ると、殊更にそう思う。

 先輩が足の骨の点検をしている間に、私はコーちゃんの腕の骨を手に取って、しげしげと眺める。
 指で小さく叩くと、こん、と軽やかな音がする。表面はざらざらしているように見えて、引っ掛かりはない。まるで質の良い木材みたいに、手に程よい触感を残す。骨の細いところから太いところへと向かう曲線は、ぴったりと私の小さな手に吸い付いた。
「骨って、綺麗ですね」
 骨同士がぶつかり合う、からからという音が不意に途切れた。顔を上げると、善法寺先輩が呆けた顔でこちらを見ていた。何か変なことを言っただろうか、と私が怪訝そうにすると、不意に善法寺先輩の口の端が変な具合にゆるんで、笑いたいような、そうでもないような表情を浮かべた。
「……綺麗って、骨が、かい?」
「ええ、先輩は、綺麗だと思いませんか?」
「いや、そういうわけじゃないよ。でもそれは、初めて聞いたなあ」
 く、と奇妙な音が漏れたかと思うと、善法寺先輩の体が急にくの字に折れ曲がった。驚いて、私が駆け寄ろうとした瞬間、彼の方からくっくっくと声が聞こえてきた。笑い声である。
 その、どうにもこらえきれずに笑い出してしまったようなそれに、私はしばし呆然としたが、すぐにぱっと顔を赤くしてそっぽを向いた。
「……どうせ私は、ろくに人体を知らない小娘です」
「ああ、いや、違うよ! 君を馬鹿にしたわけじゃない。僕も君と同意見さ。ただほとんどの人は、骨を気味悪がってしまって」
 君が僕と同じ意見だと知って、嬉しかったんだよ。顔を上げた彼は、満面に笑みを浮かべていた。それはあまりにも嬉しそうな笑みだったものだから、腹を立てていた私も、そのまま怒りつづける気もなくしてしまう。
 考えてみれば、彼が言うのは当然のことだった。この時代だ、自分の手で家族や知り合いの骨を埋葬した生徒だっている。上級生にもなれば、敵や味方の死に触れることも多いだろう。
 悲しみや憎しみ、死の象徴でもある人骨。不吉だと思ったり、気味悪がる人がたくさんいるのは当たり前のことだ。
 私がそう感じなかったのは、ただ単に私がまだ下級生で、そして私の周りで今まで大した不幸もなく過ごしてきたからにすぎなかった。でも善法寺先輩はきっと違うだろう。保健委員会で、誰よりも死の近くで生きていて、それでいて、死と人体とをしっかりと切り離して捉えているのだ。
 なんてすごい人だろう。
「骨って、とても綺麗だよね。その形に、一切無駄はないんだ。人間が長いことかけて作り出してきた滑車や蝶番の形が、自然にその中に組み込まれているんだよ。そしてとても強くて、しなやかで、美しい」
「本当に、そうですね。私には、難しいことはよくわかりませんけど、でもすごく綺麗だってことはわかります。硬いのに重くなくって、無骨じゃなくって、一つ一つ、しっかりと意味があって」
 そっと私はその長い骨に触れた。この寒い冬の季節に、硬い人骨は、しかし私の手を凍えさせることはない。和紙のような手触りは、いっそ暖かみさえ伝えてくれるようだった。
 だから私は、笑ったのだ。

「これじゃ、善法寺先輩ならともかくとして、私みたいに不器量な人間じゃ、死んだ後のほうが綺麗かもわかりませんね」

 それは、ほんの冗談だった。
 本気で思っていたわけじゃない。だけどほんの少しも、そう思う気持ちが無かったのかと聞かれれば、私は何とも答えられない。だからきっと一厘くらいは、もしかすると一分くらいは、本気で思っていたのかもしれない。大して器量よしでもなく、優しい心も知恵もないこんな私よりは、皮膚も筋肉も血も何も失った、骨だけの私の方がよっぽど美しいんじゃないかって。
 それでも、たったの一厘だった。一分だった。十分の一にも満たない、ちっちゃな気持ちだった。
 それなのに善法寺先輩はこう言ったのだ。私を振り返って、その大きな瞳で鋭く私を睨みつけて、こう言ったのだ。

「そんなこと、冗談でも言うものじゃない」

 まるで燃えるような瞳だった。その目に睨まれた瞬間、私の心臓は火傷したみたいに大きく跳ねて、今にも胸郭を破って飛び出さんばかりに、熱さに恐れ慄いたのだから。
 善法寺先輩は床を擦って私の正面に正座すると、私の手から乱暴に上腕骨を取り上げて、それを横に置いた。そうして彼は私の手をつかんだのだが、その動作は驚くほど優しくて、先ほどの彼の火のような目にも、骨を取り上げた時の乱暴さにも、とても似合わないものだった。
 いいかい、と彼は言って、そっと私の手を私の胸に押し当てた。私の平べったい胸は先ほど彼に睨まれて以来、一つ飛ばしに鳴っていて、何故だか私はそれを彼に知られるのがたまらなく嫌だった。彼の手を押し返そうと私はもう片方の手を添えて力を込めたのだが、彼の手はびくともしない。いかに柔々と見えていても、善法寺先輩はやはり六年生だった。
 彼は私が抵抗しているのにも気づかぬ様子で、じっとそのまま動きを止めていた。見上げれば、彼は瞼を閉じていた。
「分かるだろう。この奥に、君の心の臓があるんだ」
 私は震えた。善法寺先輩の口から、私の心の臓という言葉が聞こえたことが。彼の手のほんの三寸先に、私の心の臓があるのだということが。何だかとても信じられぬようで、恐ろしいようで、息さえつげないほどだった。
「ぜ、善法寺先輩、熱いです」
「そう、熱いだろう」
 それが、生きている、ということなんだ。善法寺先輩の言葉は力強く、静かだった。だからこそそれは、まるでこの世の唯一の真理のように私に聞こえたのかもしれない。そして実際、唯一とは言えなくとも、私が生きているということは事実ではあったのだ。
 生きている! 私は酸素の足りない頭で繰り返した。生きている! これが、生きているということなのだろうか? この、猛る心音が、熱傷にもなりそうな、この熱さが。今にも死んでしまいそうな、いや、いっそ死んでしまいたいようなこの苦しさが、生きているということだというのだろうか?
 だとすれば、人の生というのは、なんて、なんて懸命なのだろう!
「確かに、人の体というのは綺麗だよ。骨格も筋肉も、無駄がなく美しい。でも僕は『生きている』ということ、その方が、ずっとずっと尊くて、儚くて、美しいと感じるんだ」
「ああ、ああ、先輩。私にも少しだけ、先輩のおっしゃることがわかりました」
 私がやっとのことでそう言うと、彼は「そうか」と笑って私から手を離した。途端、私はまるで呪縛から解放されたかのようにふっと気が遠くなって、倒れこんでしまわないように私は床に手をついて、どうにか体を支えなければいけなかった。
 その間に善法寺先輩は立ち上がって、元座っていた場所に戻っていた。ほとんど元の形に戻ったコーちゃんを手に持って、「さあ」と微笑む。
「残りの作業を終えてしまおうか。急に変な話をして、悪かったね。保健委員会の僕としては、捨て置けない話だったものだから」
「いえ、私も、変な冗談を言ってすいませんでした」
 善法寺先輩の手が離れてややもすれば、どうにか私の心臓も正常に戻ってきたと見えて、少しずつ私の鼓動は元の規則正しいそれへと戻っていった。今にも私の胸は破裂してしまうのじゃないかと恐れていた私は、それでようやく安堵の息を漏らす。

 けれど、一体なぜだろう、この胸が妙に寒く感じるのは? あの恐るべき熱さに慣れてしまったのだろうか。それとも遅れて忍び込んだ冬の吐息が、いたずらに私の胸をくすぐったのだろうか。そっと自分で胸に手を当ててみても、うすら寒さは消えようとしない。
 上腕骨を接ぐ彼の方をちらりと見る。彼がもう一度あの炎のような眼で私を見てくれれば、もしくは熱い手で私に触れてくれれば、この心臓の寒さは消えてくれるのだろうか。ふと私が「先輩」と呼ぶと、彼はなんだい、とこちらに目を向けることなくそう問うた。私は何かを言おうとして口を開いたが、しばし唇を震わせただけで、そっと目蓋を閉じて押し黙った。
 胸に穴が開いているようだ。冷たい冬の風が入り込んで、胸郭をぶるぶると震わせている。
 ああ、いつかは戻ってくれるのだろうか、この寒がりの心臓は。


寒がりの心臓





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