どうして遙と一緒に浴槽へ入るようになったのか覚えていないけれど、いつからはじめたのかはよく覚えている。
 松岡君がいなくなった時からだ。
***
 インターホンを鳴らす事もなく、裏口からまっすぐお風呂場に向かって脱衣所で服を脱ぐと既に着用していた水着だけになる。
 何の前置きもなく、がらり、とお風呂場に入っても水に潜った遙に動きはない。それもいつもの事なので、気にする事もなく浴槽の横にしゃがみこんだ。
「遙」
 声をかけると、たっぷりと間を開けてから遙が顔を上げる。
「何だ」
「詰めて」
 そう言うと、遙は素直に体を横にずらした。
「ありがとう」
 私は笑ってそう言って、遙が開けてくれたスペースに入った。突然、水に触れた体が驚いたようにぶるりと震えた。でも、しばらくすればこの温度に馴染むだろう。
 そう思うのに、遙は私が入るといつもお湯を足して水を抜いてしまう。いつだったか、不満を言ったら「風邪引くだろ」とむっつりした顔で言われたので言わない。それは遙だって同じだろうに。
 じわじわと温まっていく水温を肌で感じている間、私と遙の間に会話はない。いつもの事だ。
 この時間は必要最低限の事しか話さない。別に誰かが決めた訳ではないけれど、はじめた時からの二人の暗黙のルールだ。
 きゅ、とお湯を閉めた音がした。遙の方を見るが、そこにはもういなかった。代わりに水面から時おりパチパチと気泡が漏れていた。
 水の中にいる遙には水面の向こうの私は歪んでしまって、きちんと見る事が出来ないだろう。
 遙。だから、私は唇だけで水面の向こうの彼を呼んだ。
 もう、傷付かないでよ。一人で抱えないでよ。私達を頼ってよ。
 声ではない声が、浴室の中にぽつりぽつりとあふれていく。
 私、遙が好きだよ。
 そう言った瞬間、遙が顔を上げた。聞こえる筈がないのに、急に恥ずかしくなって私が水面の向こうに消える。ゆらゆらと水の動きに合わせて揺れる視界の中、きっと彼だろう黒に、私はこの狭い水槽から出てしまったら本音なんて何一つ言えないのだろう。
***
 水面の向こうの名前に呼ばれた気がして、歪んだ視界の中にある彼女だろう赤茶色に向かって浮上すると、何故か真っ赤な顔をしていた。
 理由を尋ねるよりも先に水面へと潜ってしまった名前を呼び戻す気にもなれず、何となく彼女の顔があった場所を見る。
「熱かったか」
 そして、思い付いた理由をぽつりと呟いてみる。返答は勿論ない。
 水とは呼べなくなってしまった、ぬるま湯をちゃぽちゃぽと弾かせてみる。いつもより少し温度が高いような気がする。
 木々が紅葉をはじめ、すっかり寒くなってきた。これ位でもいいかと思ったけど、次はもう少し下げるか。
 何だかこの温度に体が馴染んできたので、下げるのも面倒でそのまま浸かっていると、ぱしゃん、と勢いよく水が弾けた。見ると、さっきよりも赤い顔をした名前が上がってきていた。
 やっぱり、もう少し下げるべきかもしれない。
「水、足すか?」
「え? ううん、大丈夫!」
 そんな真っ赤な顔で何を言ってるんだ、と思ったが、追及する気にもなれず「そうか」とだけ答えておく。
 ピンポーン。
 インターホンの音がした。誰が来たのか、大体の察しはついているが、出るのが面倒で再び水面へ潜る。名前が上がろうか上がるまいか悩んでいるのが何となく分かった。
 しばらくすると、足音が近付いて来て「またか」なんて呟きながら、がらり、と扉が開けられる音がする。
「あれ、名前また来てたの?」
「えへへー」
「えへへじゃないよ。寒くなってきたんだし、また来年にしたら?」
「遙があったかくしてくれたから大丈夫」
「大丈夫って」
「本当だよ、ほら」
 ぱしゃん、と水が跳ねたと思ったら、名前のものとは違う手が入ってきた。真琴のものだろう。
「うわ、いきなり何すんのさ!」
「あったかいでしょ?」
「あったかいでしょ、じゃないよ! もう!」
 何だか真琴の小言が長くなりそうだったので、水から顔を上げる。
 名前に腕を握られながら、真琴は困ったような顔で真っ赤になっていた。いい加減、慣れろ。
「……何の用だ、真琴」
「ハル、最近家に引きこもってたし、一緒にどこか行こうと思って」
「面倒くさい」
「言うと思った」
 そう言ったのは、真琴ではなく名前だ。
「私も久々に三人でどこか出掛けたいよー」
「学校、いつも一緒に行ってるだろ」
「それとこれとは違うの!」
「何が」
「気分!」
 元気よく即答されて、ため息が漏れた。けれど、真琴の方は味方の登場に嬉しそうに笑っている。
「名前もこう言ってるし、行こうよ、ハル」
「嫌だ」
「そんな事言わないでよ。ねえ、ハルちゃーん」
 言いながら、ぐりぐりと背中に髪の毛が押し付けられる感触がした。渚によくされる事だが、何だか名前にされると妙な気分になる。
「ハルちゃんって言うな」
「それ、渚の真似なら似てないよ」
 俺と真琴からの駄目出しをスルーして、名前はニコリと笑った。
「ハルちゃんが嫌なら、一緒に出掛けようよ」
「嫌だ」
「両方却下はないよ、ハルちゃん」
「そうだよ。嫌なら俺達と出かけよう、ハルちゃん」
 語尾を弾ませる名前に便乗するように、真琴までハルちゃんと呼び始めた。思わず出そうになるため息を呑み込んで「分かった」そう答えると、名前と真琴は嬉しそうに笑った。


のみ込んだ言葉の水槽





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