NOVEL | ナノ

 一年と半の氷を融かそう

目を開ければ、愛しい顔が、姿がそこにある。

そして誰より愛するその彼が、俺の目の前にはいない。





一年と半の氷を融かそう





「どうした?」

至って冷静に、知らない風を装って、目の前の赤司征十郎は首を傾げて見せた。

「別に、」

挑発に簡単には乗らない。
すぐカッとなると称される自分だけれど、実は全くそうではないということを一体どれほどの人間が知っていることだろう。
昔から、意に沿わないことが嫌いなだけだ。イラッとすることはそれは人よりは多いのかもしれないが、挑発されたところでからかわれたところで、自分が気にならないことなら全く感知しない。
今のところ目の前の赤司征十郎に何ら苛立ちを覚える要素はないので、そのまま彼の口ぶりを受け流しておく。
それがお気に召さないのなら、彼自信で突破口を作るべきだ。
…案の定お気に召さなかったらしい彼は、少し不満げに、だが上品に口角を下げる。
決して首を上げて見上げたりしないのが今の赤司征十郎の矜持なら、それを支えているのは大きな猫目だ。
キッと上を向き、半眼で睨み付けてくる見知った恐ろしさ。
ただ今日に関して言えばその威力は全く発揮されてはおらず、その内俺のことを睨んでも無駄だと判断したのか、彼の方から目を反らし溜め息を吐く。

「お前も、また奇妙なことを言いに来たのだろう。」

お前も、の意図するところ。
恐らく、赤司のことなら何でも知った風な口ぶりで話すあの緑色あたりがそれを問うたのだろう。
うんざりといったその口調に、その回数やしつこさが垣間見える。
彼ならやりかねないし、実際していないなんて考えられない。
誰より赤司の傍にいたかった自分には常に厄介な存在であったものの、事実赤司と最も行動を共にし、知る限りでは一番彼の役に立っていた、助けになれていた存在。
そして、赤司も彼になら、ひた隠しにしていた面まだ自分にも見せていなかった部分を晒すこともあったのだろうと推察している(…これもまた癪に障る)。
立場が思考を歪ませる、浅ましい嫉妬だと今なら分かる。彼自身はブレのない、良い奴であること。赤司にとっては最良の友人であること、もしくは、あったこと。それは紛れもない真実だ。
…彼は、あの日からガラッと人格を変えてしまったかつての友を(今も、友である、と、)、放っておけるような、また放っておくような人間じゃない。

…では、自分はどうなのか?
不意に押し黙ってしまった赤司征十郎を前にして思う。

今まで、彼に何か行動を起こしてきただろうか。その問いへの答えは、ノーだ。
今の今まで、もやもやを抱えながら進路を別にし卒業し、あまつさえIHの時すら必要以上の接触を避け、迎えてしまったWC。
ここで決着を着けなければ、と思うにはあまりに遅い。
だが、もう逃げたくないと思った、準々決勝翌日。
あの日から。
自分が易々とそして考えなしに…引き金を引いてから、もう一年以上が経過していた。
敗者の戯言になど耳を貸さないのではと半ば危惧していた身には、目の前に赤司征十郎がいることだけでもう十分に奇跡だ。
その上会話も成り立つと言うのだから、このチャンス逃すわけにはいかない。

俺は赤司征十郎の正面に立ち彼の顔を覗きこんだ。
彼に言わせれば頭が高いのだろうけれど、服従を飲んだ俺に対してはその感覚はオフにしているらしい、ただ不愉快そうな視線はそのままに、無愛想にこちらを再び見上げてきた、赤の猫目と、金の猫目だ。
見慣れはしないオッドアイ。だがそれを含めて今の彼。どういう仕組みでこうなったのかは想像すら出来ないけれど、…纏めて彼の要素だとするのなら、否定する気は全くない。

「、ふう」

俺は大きく溜め息を一度吐いてから、再度彼の目を見つめた。
…さすがだ、と思う。
もう居心地悪そうな素振りはまるで見せず、堂々と俺の目を見つめ返してくる。
凛々しい居姿と、共に在る狂気。苦しさを喜びとさえ認識してしまいそうな、まやかしの感覚。
およそ君と考えたくない要素で出来た君と対峙するのはエネルギーが必要すぎて、加えてあまりに自分は無防備な気がして、これまでずっと逃げてきた。
一年を過ぎた逃亡の結果、何か自分に身についたのかと言えば全く、今の状態は昔と同じく丸腰であるのだけれど。
…けれど、いつまでも逃げていることなど出来ない。

それは、準々決勝あの試合で見た、現チームメイトの諦めの悪さと覚悟、整然と輝く性質の悪い執着、そんなものに背中を押された結果なのかもしれない。

「別に、あんたにそんなこと、言う資格は、俺にはねーし、」

「ふうん。じゃあ、こんな風に呼び出して、何だって言うんだ?お前にはそうでもないのかもしれないが、この体には貴重な時間だ。あまり無駄に使うことがこれへのメリットだとは思わない。」

この体には。
あるいは、これへの。

一々その言葉が突き刺さる。だがそれよりも、今でも要務に身を削り、疲弊を余儀無くされる赤司征十郎の立場に胸が痛んだ。
一年生という時間は酷く安定しているもので、監督先輩その他支えてくれる存在に囲まれ健やかに過ごしていられるものであるはずなのに。
けれど、容易にその想像はついた。
中学生であったときから、彼が背負っていたのは歳不相応な重責だったからだ。

立場というものはそれに見合うだけの職責を付随させるものであり、当然こなすのに労力を存分に必要とする。
鍛えているから、また凡庸な一般人に比べれば高度なスペックを持つ君だから、目立って面やつれをしたり倒れたりすることはなかったけれど、自分に比べれば遥かに小さく細い肩に腕に、のし掛かる重みを思う度苦虫を噛み潰す思いがしていた。
ただ結果としても経過としても、自分は彼の役には立てなかったし、立とうともしなかった。
…今思うと果てもなくひたすらに悔しいが、中学生であった自分は今よりもっと、ずっとずっと考えなしの身勝手な子供だったのだ。他者の思いなどには気付きもしない、考えようともしない(今でもあまり進歩はしていないのだが)…それは、この世の誰より愛しいと思った赤司に対してもだった。
無論、こんなのは言い訳に過ぎないのだけれど。

“好き”だったし、“愛して”いた。だが、それが“大切にする”という感情を引き出してくれるほど、成熟したものではなかった。
そして、あの日、…、

「…違えし…ちゃんと用はあんだよ、」

思考のループに陥りそうになり、慌て気味に早口でそう告げた。
俺の慌て具合を動揺と受けとったのか、目の前の赤司征十郎はことのほか上機嫌ににこりと不敵な微笑みを返してきたけれど、構わなかった。

「ミドチンとか?…が、何言ったとか、知らないけどさ、」

「鋭いね。…言ったよ、彼はこう。
“お前は、誰だ?”
“本当に赤司なのか?”
…笑ってしまうだろ?僕は目の前にいるんだ。その僕が僕でないのなら、あいつの前にいたはずの僕は何だと言うんだ?
…それに、仮に僕が偽者だとして、それを僕に質して何か事態が好転するとでも思ったのかな?」

赤司征十郎はいつになく饒舌に、ただ淡々と続けた。

「でも、」

記憶の中の彼もまた、言葉はすんなり出てくるタイプだったけれど。
これほどまでに流れるようには話さなかった。声は凛として滑らかで流暢ではあったけれど、そこにはいつも、(自分には全く縁のない)他者への配慮や思いやり、きっとそんなものからくる、言葉を選ぶ間があった。

それが、この赤司征十郎にはない。その分だけ、スピードが速い。

「君はそうではないようだね。さすが、聡明だと”これ”が認めていただけのことはある。」

そんなことを、今更。

そっか、赤ちんは俺のことそんな風にも見てたんだ、なんて。
今となっては何の役にも立たない。
ただひたすらに虚しいだけの、過ぎた事象の一つなのだ。

「意外かな?…そうだな、“これ”はあまり表立って評したりはしなかったかもしれない。でも、いつでもそう感じていたし、拠り所にもしていたよ。…まあ“これ”は、君に悟られないようにしていたようだけれど。」

それと、ここからは僕の勝手な推論だが、と前置きし、赤司は続けた。

「君にはいつまでも純粋でいてほしかったのではないかなと僕は思う。無邪気で、子供のままでね。…まあ僕に言わせれば君のその無邪気さは他者を排除するのにはうってつけの残酷さでもあるからね、それはそれで良かったと思うことにしたよ。
…ただ“これ”が危惧していたのは本当に本当の子供みたいな君の方だ。…君は“これ”の言うことに忠実にあろうとしたから、聡明だと賞せばきっと君はもっと“これ”の役に立とうとしただろう。それが、嬉しくもあり寂しくもあり、といったところかな?」

耳に障るほど、とにかく滞りなく話すことに余念がない。

そんなこと、本当に今更だ。

…今は切に願っている。君と共に在りたいと。君の傍に在りたいと、支えたいと。
あの頃でさえ、近付けるものなら近付きたかった。
公私共に赤司の精神的な、そして実質的な支えとなっていた緑間のように。
だがそれは、自分には出来ないことだと初めから諦めていた。俺には俺だけにしか出来ないことが、役割がある。そんな言い訳をして、あの頃の自分はただ赤司の横に在るだけだった。
共に、より良い関係を築こうという、共に歩もうというその努力すらしなかった。
何も考えることがなかった訳ではないはずだ。しかし、君のために何が出来るか、なんて前向きに悩むことはまるでしなかった。
ただ盲然と、小さく強く見えたあの肩に追従してきただけ。時に他の存在に(それは主に彼の補佐を務めていた緑間に)、子供じみた嫉妬をして。
本当に、馬鹿みたいだ。
その横で君はずっと、何の役にも立とうとしない俺のことを見ていたなんて。

「笑えねー…、」

「そうか。」

笑うでもなく冷たい視線を投げかけるでもなく、目の前の赤司征十郎は薄ら目を閉じた。
諦めたような表情に、どうしても胸の奥がじくじくと痛む。
こうやって、こんな風に、赤司は諦めてきたのだろうか。自分という存在に。深層では聡明だと思っていた、だけれど何の助けにもならなかった紫原敦という存在に。
そして…、…あのときだ。
いよいよ瓦解が始まった自分たちを何とか繋ぎ留めようと苦慮したときに、自身を責め苛むこともあっただろう。そんな君に、無遠慮なことを言った。
自分としてはいつもの延長だった、ちょっとした、反抗だった。駄々を捏ねてみた、それだけ、だった、…。
だけれどそれがあんなことになって。

あの日を境に、赤司はガラッと変わってしまった。

「別に、あんたにどーのこーの、言うつもりは俺には、ねーよ、」

視界の端で、赤司征十郎は怪訝そうな顔をしている。
こちらの動向を窺っているような、計りかねているような、戸惑ったような表情だ。
その身に纏う、危うげで脆く、しかし鋭利な刃物のように鋭い香りはあの日初めて見た”赤司征十郎”のものよりもいくらか丸くはなった。けれど、相変わらずの狂おしさを含んでいた。

(…ああ、)

割り切った。
とうに、割り切ったと思っていた。
だが、叶わないと分かっていても、考えても仕方のないことだとは分かっていても、頭の中に浮かぶ君のイメージ。消せるはずがないじゃないか。
あの日から忽然と、姿を消してしまった君。
俺の前に、姿を見せてくれなくなった君。

“紫原、紫原、”

(赤ちん、次のお休みデートしよ〜俺ね俺ね、ケーキバイキング行きたいの!後ね、あ、俺にーちゃんから割引券もらったの〜、文化祭の代休さ、ディズニー行こっっっ!!!ちょうどハロウィンやってっし!!!後ね後ね〜、そうだ、次の次のお休みはね、映画とか行こーよっっっ!赤ちん映画行ったことないって前言ってたじゃん?その頃何がやってんのかな〜…ん〜…あんま難しいと俺寝ちゃうんだよね〜。あ、すっげ先の話だけどさ〜、初詣とか、皆で行かね?)

“ちょ、ちょっと待て、そんなに、いきなり、たくさん、…あまり困らせないでくれよ、”

記憶の中の戸惑った君はもう少し困り顔で、

(うう…赤ちんごめん、んじゃ…とりあえず…)

“っハハ、だから、待てってば。誘っておいてシュンとなるなよ?…〜でも、困ったな…。”

“…お前がそんなに楽しそうにするんだから…”

“…行くしか、ないな?”





…でも、よく…。

眉根を下げて、笑ったっけ。





「君は、さっきもそんなことを言ったね。その資格がないとか…それは、どういう意味だい?もしかして君が、僕を呼び起こしてしまったとでも思っているのか?」

だとしたら、とんだ見当違いだ。
もしくは、思い上がりだ。

そんなことを言いたそうに、だが実際に何かを述べる訳でもなく、ただ不審そうな視線を投げかけてくるだけの赤司征十郎。
その目を、両のオッドアイを、すっと正面から見た。
思えばあれから初めて、彼の目を直視した気がする。

身長差ゆえ、上目の君を見ることが多かった。
戸惑いに揺れるのは稀だった。揺らぐことのなかった、大きな猫目。
それは彼持ち前の矜持と自信、そしてそれを裏付けるだけの努力や実力にしっかり基づいていた。
色素が薄いアルビノの、毛細血管の色の映った赤い瞳は美しい宝石の様に見えた。飴玉の様だと思った。
そう告げたら、どっちなんだ、全然違うじゃないかと笑われ嬉しそうに細められた、左右に輝くガーネット。

(ん〜だから〜…。宝石みたいなの…多分、見た目とか宝石…ガーネット?姉ちゃんの誕生石、こんなんだったと思うし…。だけど、)

“…”

(、美味しそう。)

他愛のない会話。聞きようによっては、自分から赤司への揶揄。だが自分に全くそのつもりはなく、赤司にしてもそうは受け取らなかった。
…ただ自分の意図する通り、言葉の意味を真剣に酌み受け取った結果、彼は頬から耳から真っ赤にさせて黙ってしまったっけ。

対して。
“赤司征十郎”の目は、右目がべっこう飴と左目がいちご飴で出来ている。
初めて凝視した瞳は、そう言われた方が納得出来る色だった。
宝石のように見えなくなった訳ではなく(むしろその瞳に湛える光は鋭さを増し、ブリリアントカットのダイヤモンドにも引けを取らない)、ただ俺が金色の宝石を知らないだけだ。

「そうだし…、そうじゃねーし…」

先程の”赤司征十郎”の発言を引き継ぎ、続けた言葉に覇気はない。

「資格がねーってのは、確かに、そう。…でも、」

ここで一呼吸置いてから、もう一度見た君のオッドアイ。今となってはそれだけが、君の見せた変化の証拠。
それがなければ、具体的に二重人格だなどと人格障害などと、密やかに話すことすら憚られただろう。

「…言うつもり、ねーってのはさ、」

「…」

「あんたが出てきて、赤ちんがどっか、行って。…行ったの、隠れたの?」

語尾を上げてみたが、”赤司征十郎”は予想に違わず表情一つ眉根の一つも動かさなかった。

「でも、あんたも、含めてさ、赤ちんなんでしょ、」

先程の彼に勝るとも劣らない滑らかさで、次々に言葉が出てくる。
そうだ、今までずっと、一年と半、考えて考えて考えていたことだ。そのまとめを述べているのだから、構成も間のはかり方も、この上なく完璧だ。質疑応答だって自信を持って臨むことが出来る。

今なら言える。伝えられる。

「あんた、話すの上手じゃん?だから今までもさ、出てきてたんでしょ。時々、ううん、もしかして、もっと頻繁に、」

中学生になったときには、その機会も大分少なくなってはいたのだろう。
そう推察をつけた。そして、その仮説は間違っていないと思っている。
後天的な二重人格を生じる、ごくごく一般的でオーソドックスな要因。

「あんたが…赤ちんのこと、ずっと守ってきたんだよね…?」

「!」

目の前で、”赤司”が大きく目を見開く。
その中心で瞳孔の開く、色違いの瞳は、やはり飴のように見えた。

「…赤ちんが辛いとき、ヤなとき、苦しいとき…そうやって、赤ちん支えてくれてたんでしょ、?」

ううん、今も。

過酷な環境に身を置く者が、その現実から目を逸らしあるいはやりすごすため別人格を作り出す、というのはよくある話だ。ましてや厳格な父を片親として持つ財閥の御曹司、全てを背負った一人っ子。
その決して広くはない両肩に、幼い心に、乗りかかる重圧は想像することすら出来はしない。

開いた瞳孔のまま、赤司は息を飲んだ。
瞬時にはどちらか量りかねたが、ヒュッと空を切る音は息を吸い込んだ音だろう。
図星を指されて呆然としている訳ではないだろう、だが多少ないし、驚かせることに自分は成功したらしい。
未来の見える“赤司”を。

「だからあんたを、俺は、否定しねーよ。」

むしろ、ありがとう、と、

…言わない、そんなことは、言えない。

けれど、あのとき、幼さで浅はかさで血迷った俺から、”彼”を庇い守ってくれたのが”彼”なら、

「それに、」

俺は続けた。言葉は相変わらず流暢に口から出てくる。
今、伝えなくてはいけないんだ。そのために、普段気怠げだと称される自分の言葉はこんなにも明瞭に響いているのだ。
そんな気がしていた。

「あんたと赤ちんと、どーゆー力関係になってっかは分かんねーし。でも…でも、あんたは、多分、…、しない。無理強いしたり、無理矢理、心の奥んとことかに押し込めたり、しないと、思う。あんたは赤ちんのこと、傷つけたりしない。…少なくとも、俺みたいに。」

「…」

ようやく瞳孔は小さくなり、落ち着きを取り戻したように見える表情。そこに垣間見える、まだ残る少年のあどけなさに、赤司を…赤ちんを、感じる。
不意に緩む涙腺を、一度唇を噛むことで叱咤した。

「だったら、赤ちんが…赤ちんが、どっか、行っちゃったり、隠れちゃったのは…理由があんだって俺、思う。
赤ちんが考えてそうしたんだから、俺は…俺は、何にも…言わねーし、」

言えないよね。

最後だけは力なく、肩を落として俺は言った。
これで、良いんだ。思っていたことは、考えていたことはもう全て言い切った。
全身から脱力することはなかったが、息は切れた。口が疲れた。舌が痙攣しそうだ。
これが君と長く口づけた後、散々愛し合った末の変化ならどれほど嬉しいか。
叶わぬ願いに首を振り、”赤司征十郎”に何度目かに向き合う。
平常を取り戻した赤毛の君は、口を真一文字に結んでこちらをキッと睨んでくる。

…それで良い、それが今の赤司なのだろう。

…でも、それが、辛い。赤司に、赤ちんに会いたくて。

(ごめんって、言いたくて、)

何度でも何度でも、それこそ、舌が顎が唇が、痺れるくらい痙攣するくらい。
それで窒息し、命を落としたって構うものか。

でも、それは叶わない。
今は、まだ。
でも、いつか、





「赤ちんは、考えがあって多分、隠れちゃったん、でしょ…?」

最後の”でしょ…?”という部分に。

胸の奥底の氷河の中、閉じこもっている君に届けばと、精一杯の温かさを込めた。





いつだって壊れそうな足場の上で俺らをまとめ、家では抑圧されていて。
本当は少し怖がりで不安で不安で、でも頼ることが苦手で辛いと訴えることが出来なくて。
自分から求めることが不得意だった君、苦手どころか、最初は全く出来なかった君。
そんな君に、手を延ばしていいよほら、大丈夫、じゃあまず俺に、ねえおいでと導いて、何度も何度も訴え懐柔して、ほんの少しだけ、誰かに何かを望むことを覚えさせた。

恐々触れる指先を覆い、頬に摺り寄せ、「ほら、大丈夫、」。

確かにそう言ったはずなのに、君は、嬉しそうに笑ったはずなのに。

その君を、無残に冷酷に地に落とした。
大丈夫、おいで、と口では言っておきながら、延ばされた手を無下に振り払い、堕ちる君を見ようとした。
目を見開き、瞳孔が開き、強張った頬、顰められることも下がることもなく、無感情に動きのない眉、辛うじて閉じられていた、乾ききった唇。

最後に見せた君の顔は、まさに絶望の体現だった。

「良いんだ、良くねー、けど、…あんたは、赤ちん、守って、そうやって、庇って、」

赤ちんには、ねえ、考えがあるんだ、よね?

「あんただって、赤ちんの一部なんでしょ。あんたも、赤ちんも、全部、全部、赤ちんだもん…。俺は、」

赤ちんの、全部が、好きだよ。

今度こそ息を詰めた赤司が、見上げてくる。
ああ、そうだ。やっぱりこのあどけない顔。
赤司と、同じだ。
きっとこの奥に、彼は今もこんこんと眠っている。

「でも、…お願い、お願い…あんたでも、赤ちんでも、どっちでも、俺は、俺らは、口出し出来ない。」

主人格がどちらなのかは分からない。実はこちらが本当の、幼い頃からの赤司征十郎なのかもしれない。赤ちんが、俺らのよく知る赤ちんの方が、中学生として生きやすくアレンジされた人格なのだとしてもおかしくはない。

「でも、これだけは、聞いて…?」

どちらも、赤司で、どちらも、真実。
そしてそれに判断を下せるのは、決められるのは、赤司征十郎ただ一人なのだ。

「いつか、いつか、」

君の傷が癒えたら。
俺に、殴りでも足蹴りでもする気になって、ふざけるなって、練習、しろって、

(ちょっとだけでも良いから…、)





「…いつかまた…赤ちんに、会わせて…ね…。」

堪えていたはずの俺の目から、一粒だけ。

塩水が球になって、ぽろってなった。





赤司が今どういう顔をして、どういう呼吸をして、どういう心拍数でいるのか。
動揺しているのか落ち着いているのかそれすらも分からないで、ただただ掻き抱くように肩口に顔を埋める。
もうすぐ、一年と半だ。
触れられなかった期間、直視することを拒んだ期間。
その時間的隔絶を埋めるように、上から覆い抱き締めた。

高校に入って、身長は数cmは伸びただろうか。そして以前よりもやや立派についた筋肉。幾分男らしくなった、がっしりとした体つき。

だけど、久しぶりに感じる君の体温は、相変わらず低くひんやりしていた。





やがて、ここ数年間で最も良いタイミングで、こんこんと部屋のドアがノックされる。
赤司ぃと呼ぶ、聞き慣れない声。彼のチームメイトが呼びに来たようだ。
そうか、時間かと体を離し、にこり目の前の赤司に微笑みかける。

彼は表情に戸惑いと驚きを浮かべていて。…そして少し、悲しそうに見えた。

「はい、終わり。付き合ってくれて、ありがとー。」

それで急いで部屋から去るつもりだったのだけれど、一歩後ずさってから思い直し、一歩前へ。
後ろ向きに歩くより前に踏み出す方が歩幅が大きいから、必然さっきよりも密着した位置にくる。
愛しい、可愛い、大好きな、…俺の最愛の人。
赤ちんでも、赤司でも、赤司征十郎でも、その彼が悲しむ顔は、欠片だって見たくない。

ちゅ、

触れるだけ。

ほんの一瞬、触れるだけの口付けをして、俺はその場を後にした。





赤司の、ましゅまろの唇の感覚が、中々消えてくれない。

その感覚を持て余し、指で触れながら俺は考えてた。
確信を持った日のこと。
赤ちんが、今でも心の奥深くに眠っているって。

…その日、赤ちんは学校を休んでた。
中学三年生の、冬の入りのことだった。
学校中でインフルエンザが流行っていた。三年生は赤ちんのクラスとミドチンのクラスが学級閉鎖寸前に陥り、赤ちんにもそのウイルスは感染した(ミドチンは尽くした人事のおかげかおは朝ラッキーアイテムの効果か全く健康にその冬を乗り切っていた)。
引退し、日頃鍛えていたのを止めたのもある。ある程度十分なトレーニングは積んでいたのだろうけれど、ウイルス濃度の高い空間に長時間いれば移ってしまったって不思議はない。
俺は、クラスは違ったけど、ノートとプリントを届ける、と、赤ちんのお見舞いをかってでた。
赤ちんの担任だった真田ちんは、二つ返事で、行ってくれ、と頼んだ。

部活のない放課後、俺はすぐに電車を乗り継いで、走って、走って。赤ちんの家に向かった。
どうしてだろう、未だに分からないけれど。急がなきゃ、今すぐに君に会わなきゃいけない気がしてた。
肌を刺激する寒さの中、息を荒くして着いた、広大な日本家屋。その奥、通された離れの一室。
何度も訪れた赤司の部屋。
その真ん中で、まるで捨て子のように捨て猫のように、…ボロ雑巾のように放置された、赤司の姿が目に入る。
布団にくるまれた(意識的にまたは無意識に、精確には、くるまった、のだろう)心細げな寝姿。はっはっと浅く短い、弱々しい吐息。
余りに非情な光景に、胸が締め上げられるような思いで、すぐさま駆け寄って手を延ばした。

自分はインフルエンザに罹ったことはないから分からないが、普段あんなにも強く、気丈な彼がこんなにも弱さをさらけ出している。この状況は、明らかに異常だ。
それほどまでに苦しいのかと心は急き逸り、これはダメだ、お手伝いの人間ないし彼の父の秘書ないしを呼ぼうと立ち上がろうとした瞬間、消えそうな声に呼び止められる。

「…ぁ、」

(紫原ぁ、)

傷口に塗られたオキシドール、目に入ってしまったシャンプー。

それと同じくらいのスピードでそれは、自分を呼ぶ声は、しゅんとしゅんと俺の中に沁みてきた。

「赤ちん、!」

思わず大きな声を上げてしまった。しかし、それで赤司はうつらうつらした微睡から少しだけ覚醒したようで、ぼんやりと視線をこちらへ向ける。
錯覚だ…その瞬間、俺は、思った。
だがその両の瞳は確かに…。

…俺の愛した、苺のキャンディーだった。

「赤ちん、赤ちんっっっ」

懲りずに俺は名前を呼び続ける。その度に薄ら開く瞳が、俺の姿を確かに捉えた。

「むらさきばら、ぁ、」

たどたどしく、だが、精確に、一文字一文字呼んでくれる。愛しい声。
頬に添えた手に、余程苦しいのか僅かな身じろぎ程度しか出来ていなかったのだが、確かに擦り寄って涙を零す。熱い息遣いを感じる口元に耳を寄せ、苦しい、と何とか聞き取った。
それに、うん、うん、大丈夫だよ、と繰り返すことしか俺は出来なくて。
でも君は、俺の言葉に微かに頷いて、涙をまた二粒零した。

しばらくして、呼吸が落ち着くと、赤司は力をふっと抜くようにして目を閉じ、そこで俺はハッと我に返った。
誰かを呼んでくるべきだと頭の中では分かっている。だが、苦しそうな赤司を置いて離れを後にすることなど出来なかった。
いくらか冷静になった思考であたりを見渡せば、布団の横に冷却シートと替えの寝間着、清潔そうな新しいタオルと替えの毛布、敷布団の上に引くためのタオルケットが視界に入った。

少し迷ったが、まずは冷却シートに手を延ばす。

頬から手が離れたことで、眠っているはずの赤司は無意識のうちに眉根を寄せ、ん…と不安そうに吐息を漏らした。それに大丈夫だよ、俺、いるよ、と声をかけながら、赤司のおでこのシートを交換する。ひやりとした感覚に身を捩る赤司の、汗で張り付いた前髪を梳いてやり、汗を拭く。汗でびっしょりの首筋は、タオルで拭いた後普段から持ち歩いている汗ふきシートで拭いた。少しでも冷感を得て欲しかった。
そしてまたしばらく迷ったが、寒そうに身を捩る赤司を抱きしめながら寝間着を脱がし、タオルで体を拭う。
着替えと、毛布とタオルケットの交換をし終える頃にはもう、とうに日も暮れていた。

「…し、」

彼の家の者に、不審がられるといけない。というかそもそも、こんな状態の病人を放置するなんて、一体ここはどんな家なのだろう。
…だがこれが、赤司が身を置きこれまでを生きてきた家庭なのか。
じくじく痛み出す心を何とか抑え、きっと赤司ならそうするように汗に濡れた着替えとタオルをたたみ、委細整えた上で部屋を後にしようとしたときだ。
呼吸は落ち着きつつあったし、体温計によれば大分熱も下がったらしい。
名残惜しいが、これから先は自分には世話が出来ない。何か食べた方が良いのだろうが他人の家で台所に上がり込み粥を作るわけにもいかず、ましてやインフルエンザ患者の隣で添い寝をするなど、格式高い赤司家の人間があるいは手伝いが許すとは思えなかった。
帰るね、赤ちん、そう小さく声をかけ、立ち上がろうとした瞬間、後ろで小さく声がした。

(敦、)

「来て、くれたのか、…?」

そのときにはもう、彼は今の彼に戻っていたけれど。

赤司征十郎ですら心細くなるのか、あるいは熱のせいでか。
少し震えた声の赤司。
そんな状態の彼を放っておくことなんて出来ずに、俺は、結局その一晩、彼の家の者には散々遠慮され戸惑わせたが何とか押し切って、インフルエンザ患者の横で眠るというレアな体験をした。

…今思えば。
熱に浮かされ、いつもより毛細血管が開いていただけなのかもしれない。
それで金色から、赤色に一時的に見えただけなのかもしれない。
偶然、そのときばかり名字が浮かんできただけなのかもしれない。ほら、俺の髪は菫色だ。咄嗟に紫という単語を口にしたって、無理はない。

けれど、その日、俺は確信した。

赤ちんは、消えてなんかいない。いなくなってなんか、ない。

今でも、心の奥深くに眠っているんだ。

深く、深く、氷河の中で。





一年と半の氷を融かそう





「赤ちん、」





これからは、何度も、何度も、呼び続けるね。

眠る君のために、周りの氷を融かすために。





もう一度、君に会うために。





end.

2013.09.15.


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