NOVEL | ナノ

 やきそばぱん

永遠の愛ならとうに誓っている。

この命捧げても構わないと思った相手だからこそ、こうして共に暮らせてもいる。





やきそばぱん





白地に茶色印字、ごくごく甘い社会的な契約を結ぶための記入用紙、いわゆる婚姻届に記入して早3か月。

彼らと同様に自分たちのように同性のパートナーを持つカップルであれば、一度くらいは自身のそして相手の未来について感傷的に思うこともあるのかもしれない。
だが中学のときより人生歩む道を同じくし、一度は数年にわたる絶対的な別離も経験し(通信の手段はあった。スマホも登場したばかりでLINEでの交流は結局やらず仕舞いに終わったけれど、メールは頻繁にしたし毎週末にはどちらかが必ず電話をかけた。だが、物理的には絶対に抗うことの出来なかった北と西の数百kmだった)、また再びの、そして今度は永遠の逢瀬を誓った2人には、その種の悩みは幸いなことに全くの皆無だった。






その種。
つまり、絶対的な何かが欲しかったとか、結びつけるための何かが必要だったとか、そういうことでは全くない。

儀式的なそれを軽い気持ちでやってしまったのは半ば酔った勢いであり(アルコールにではなく、その前の晩いつにも増して可愛らしかった(と紫原の目に映った)赤司に、である)、しかしそれに二つ返事どころか顔色一つ変えず表情一つ動かさず赤司が応じてくれたのは、紫原にとってはまさに奇跡と言えるかもしれない。





「赤ちん赤ちん、俺と結婚してください」

冗談めかさず真剣に、ただしさらりと言ってのける口。

手にはいわゆる”婚姻届”





気の利いた場所でも、砂糖菓子みたいな甘い台詞でもなかった。
喜んだ顔をしてほしかったとか、嬉し泣きをするのが見たかったとか、そういうレベルではまるでなかったのだ。平常と歓喜の融合を夢想するというより、どちらかというと呆れあるいは睨み付けられる程度に無言で叱られる(“何をバカなことを…”)、そんな反応を予想していたくらいだ。
だから赤司があまりにもすんなりとそれを受け入れ、あまつさえすぐその白磁の指ですらりすらりとペンを走らせたとき、不覚にも紫原の方がじわりと押し寄せる涙を堪えることになった(そしてそれを必死に押し隠したのだけれど、すぐにばれてしまった)。
やがて必要な項目全てを書き終わり顔を上げた赤司、その瞬間彼が見せた”何を驚いているんだ、書かないわけないじゃないか。当然だろう?”という表情。言いようのない幸福感に、結局抑えきれずはらはら泣いてしまったそのことは、紫原の人生にとってトップ5に入る失態の一つである。

元々存在していた愛すべき家族以上、友人以上、自分にとっての何物にも勝る存在である赤司。
その彼があろうことか自分の告白・同棲の誘いに続いて結婚の申し込みまでも受け入れてくれるなど、心の底から歓喜しても足りない。
…これは夢なのでは?…などとは。
疑ってはキリがないとは何年も前に悟ったはずであり、訪れた嬉しい現実はそのまま心の奥に迎え入れ享受することにはもう慣れたはずだ。
けれど、心から幸せだと思うこと、ほっこりとすることに出会う度、一度”ああこれは現実なんだ。赤司は自分の傍にいてくれるのだ。”と素直に思うことを紫原は自身に課している。そうすることで想いを新たにし、赤司を大事にしようという気持ちをより一層増していくのだ。

赤司が埋めたその欄の左側、先に記した文字をなぞり、紫原は自身の決意を新たにした。
絶対幸せにする、では足りない。
これからは、いや、これからも。
これからも、いや、これからは。
赤司征十郎、彼のすべてを受け入れ、彼に自分という存在のすべてを捧げよう。彼を全身全霊で支えよう。
今後の自分、その人生すべてを懸け、彼を幸福にしなければならない。そうでなくては自分の気持ちが収まらない。
その想い、決意、赤司だけをただひたすらにまっすぐ想う自身の内面すべてを晒し、紫原は改めて赤司の両の手を優しく握った。
元々手も大きく力の強い紫原は、優しく覆い握っただけで十分な力強さがある。がっしりとした感触と同時に心強さが感じられる、その強さで握られるのが赤司は好きだった(だからこそ、紫原は強さを加減した)。けれど、その時ばかりは違ったようで、一瞬解かれた手は時を置かずして再び紫原の手に触れ、ぎゅっと力が籠められる。その仕草には、もっと強くもっとしっかりと、これから先もう二度と離れることなどないように、との想いが込められていた。
当然、紫原は赤司の白く形のいいその手を一層の優しさで包み込み、だが決して傷つけてしまわないよう、一層愛おしく力を込めた。

大学入学時から今まで、たくさん躓くことはあったけれど、何とか営んできた同棲生活である。
それがこれからは、夫婦の営みとなるのだ。
赤司と紫原、互いに大学生となってから、4年と少しが経過していた。





紫原と赤司は、入学前年度の3月から同棲を始めた。
他人から見ればそれはルームシェアという形だったし、同居を考え始めた当初は紫原も赤司もその延長のようなもの程度にしか思っていなかった。
だが、いざ物件をと探し始めたとき。
はっきりとそう認識しようと決めた。これから自分たちは、同棲をするのだと。
同居でもルームシェアでもない、新たなステップへとつながる、それだ。

2人はそれぞれ違う大学、全く異なる学部学科へ進学を決めていた。キャンパスは駅にして4駅の距離がある(幸い同じ路線上にあり、乗り換える必要はなかった)。
通う大学から共に近く、2人にとって申し分ない物件(例えば、紫原が暮らしても不自由しないような高さ・空間があり、2人で家賃を賄うことの出来る範囲のもの。赤司はまだ彼の父親と精神的な面では蟠りがあり、必要以上の援助を申し出る気にはどうしてもなれなかった)ともなれば探すのも苦労したけれど、幸いこれ以上ないと思うほどの部屋が偶然に見つかった。
核家族向けに作られたマンションで、賃貸契約でもOKという。オートロックもついているし(紫原と並ぶと小さく見えるが赤司も今は177cmある。日本人としては申し分ない身長の、普通の男性だ。よもや襲われることはないだろうが、用心に越したことはない)、スーパーとコンビニから近いのが(紫原にとって何よりの)魅力である。
割と新しい物件で収納もそこそこあり、何より清潔感溢れる内装に赤司が特に気に入ったその部屋は、駅からはやや離れるのと、部屋数だけが圧倒的に少ないという理由で家賃も少し割安だった。
寝室を一つにしよう、と自然な流れで提案できたのも、この部屋数のことがあるからだ(そしてそれを紫原は今でもありがたく思っている)。…という訳で、ベッドルームはないのである。寝室兼ダイニング兼居間兼勉強部屋のリビングには、紫原が寝転んでも不自由なく足を伸ばせることが出来るほどの大きなダブルベッドが真ん中に鎮座していて、その両側をそれぞれ左側を赤司、右側を紫原が使うことになっていたけれど、ほとんど境界面はないに等しかった。

部屋を、生活圏を共にすること。それはいわば”生きる”という本能行動を誰かと共にすることである。
リビングの私有スペースがベッドを挟んで段々と融合していくように、赤司が紫原と共有する事柄は日々急速に増えていった。

誰とでも打ち解けることが出来、慕われる赤司だけれど、実は深層では他人に対してどこか潔癖な部分を持っている。しかし、日々赤司の横で眠り日々赤司の横で目覚めるこの紫原という人間は、どこまでも深くどこまでも広く自分と融合できる存在なのだと、居を同じくして初めて赤司は気付かされた。
それまで感じたことのない、歯痒いようなくすぐったいような幸福感に戸惑った赤司は、まだ同居を始めてすぐの頃、紫原とまともに目を合わせたり会話することが困難になるという事態に陥った。
その反応を彼に対しての拒絶・拒否反応だと取った紫原から、やはり無理だったかと、辛い思いをさせるならやめても良いと(強がって、精一杯の無理をして)提案されたとき、赤司は必死に首を横に振った。
声にならない呼吸音のようなそれで、だが必死に”違う、違う”と繰り返す愛おしい存在。
その時彼が流していた涙は、世界中のどの宝石より尊いものだと紫原は思った。

潤む目元に優しく口づけ、その涙を吸うと少ししょっぱくて。
…きっとそれが誓うということの味なのだろうとそのとき思った。





そうして、早くも3か月が過ぎた。
2人の新婚生活に、ぼんやりと危惧したような厄介ごとはまったく訪れず、驚くほど穏やかに毎日が過ぎていく。こんな風に何事もなく、過ぎていって良いものなのか。何も赤司と喧嘩がしたい、人生の危機に陥りたいなどと考えているわけではない。だがあまりにも行き過ぎた安定は、時として不安を呼ぶこともあるのだ。
胸に浮かんだ少しのもやもやした感覚に、紫原は机の引き出しに手を延ばした。そこには、2人の決意のそれがある。もしこれから先自分たちに何か問題が生じたら、絆が壊れそうになる何かが起きたら。紫原も赤司もこの引き出しを開けよう、もう一度彼らの間に確かに存在する”それ”を証明してくれる”それ”を見て触れて確かめて…いずれ訪れるかもしれない危機を乗り越えようと約束していた。

赤司にプロポーズしたあの日(“不覚にも”涙してしまったその後)、紫原は幸福感と赤司をしっかりと抱きしめた。心の底から感じるその幸福感に有頂天になりながら、婚姻届を額に入れ壁に飾ろうとしたところ、予期せず赤司がそれを止める。
元よりどこにも提出することは出来ない、するつもりもなかった決意の紙だ。ただそれを記入し、互いの想いを確かめ合うだけで十分な意味があった。
だから飾ることにそれ以上の意味合いがあったわけではない、ただ単純に赤司と”結婚”したのだということが嬉しくて、紫原はそれを飾ろうと思い、赤司の方はただ単純に恥ずかしかったためにそれを飾ろうとは思わないのだ。
紫原から婚姻届を渡されたとき、顔色一つ変えずに書き記したのは自分だ。だが、赤司の内心は混乱しきっていた。それまで経験したことのないほどの嬉しさと、また、その申し出を本当に受け入れても良いのか、彼の未来を束縛してしまわないかという戸惑いに、思考が定まらずに心臓が高鳴った。
しかし、結局のところ、片方にバランスを崩したメトロノームの振り幅は明らかに前者に大きく寄っていて、一瞬も間を置かず書いた自分の名前だけれど。
母親から、あるいは自分に対して母性を抱いてくれる存在から与えられる種の絶対的な幸福感に不慣れであり、自身の欲望に対する自己肯定感も低い赤司には、それがまだどうしても恥ずかしいのである。
そのたった一枚の紙に、赤司自身の抱く願望のすべてが詰まっているようで直視できない。ましてや壁に飾られるなど考えられない。
結果互いに折れ合って、大事なその紙は額縁に入れ紫原の机の引き出しにしまっておくという結論に達したのだ。

引き出しを開けると、そこには変わらず自分たちの決意と幸福のぎゅっと凝縮された一枚の紙。
紙自体は弱く褪せることもあるだろう、けれどそこへ刻まれた文字と想いは永遠に消えることはない。
紫原はその紙の入った額縁をなぞり、指からのその感触に安堵のため息を吐いた。

「何か、あったか?」

と、後ろから唐突に聞こえる愛しい声。
振り返らず少し背を反らすと、肩のやや下の方にこつんと当てられる赤い髪。
体勢を変え振り返り様に抱き竦めると、赤司の心配そうな顔が一瞬見える。
それもそうだろう、2人の間に何かあったときに開けようと決めていた引き出しだ。喧嘩も、言い争いもちょっとした小競り合いもなく(いつも往々にしてあるのだが。この三か月間に関しては、その種のいざこざは奇跡的にまったくなかった。)、安穏と暮らせていたとは思うけれど、そう思っていたのは実は自分だけなのかもしれない。
不安げに眉根を下げる赤司の様子に、紫原は安心させるように彼を抱く腕に力を込めた。

「敦…」

「なーんにも。…ただ、幸せだなって、再確認。」

「…敦、」

そう、とも、馬鹿げてる、とも、嬉しい、とも、赤司は言わなかった。
ぴたりと繋がった上半身から、焦り逸る、早鐘を打つ彼の心拍が伝わってくる。
名前を呼ぶだけで何も続けることの出来ない赤司を、彼の体勢を楽にするため一瞬だけ身を離しもう一度ぎゅっと抱きしめる。
元より、隠し事など出来ない自分だ。今の紫原の言葉に嘘偽りはなく、また、そのことに赤司が気付くまでにそう時間はかからないだろう。

やがて「そうか、良かった」と赤司が顔を上げる頃には形勢が変わっていて、紫原の方が赤司から離れがたくなり、名残惜しそうに少しだけその身を離した。
赤司の猫目は、紫原の真剣な表情を下からじっと窺い見る。
あまつさえ首を傾げてみせるその仕草はあまりにも可愛らしく、あまりにもあざとい。普段ならば、そのあざといにもほどがある上目遣いに触発され即行で唇を奪いに行く、あるいはその先へというところだが。
果たして今はこのまま…



「っ、ぁはっ!」



今、このまま及んでしまってよいものか。
赤司との絆を再確認するのと同時進行であれやこれやと疾しい内容を思案する紫原の耳に、突如聞こえた笑い声。
未だ真剣な表情の紫原の腕の中、赤司は思わずといったように吹き出した。

「え…ちょ、何赤ちん笑ってっし!」

「ごめん、ちょっと、何かごめん、っ悪くて…はは、」

紫原自身半分は疾しい妄想に脳を忙しくしていたわけだから、強く言うことは出来ない(もしかしたらそれを見透かされたのだろうか?)。しかし、だからといっていきなり笑われるようなこともしていないはずなのだが。
分かり易く口を尖らせる紫原と、未だ笑い止まぬ赤司。
小刻みに揺れる彼の端整な目の端には笑みからの涙すら浮かんでいる。
続けての、ごめん、何か、悪いんだけど、

「…敦が、真剣な顔、してるのに、」

「うん、してたよー…っつーか、赤ちん関係なら俺いっつも真剣なの!(…ちょっとはえっちなこと考えたけど…)」

「…まあ、半分くらいは違うことを考えていたみたいだけど、」

「う、(…ばれてた…)」

いつの間にか(無意識に、である…いやその方が手に負えないが)赤司の腰に延ばしていた手をぽんっと軽く叩かれる。
気まずそうに赤司の顔を窺うが、そんな紫原の表情とは対照的に、赤司はやはり輝くばかりの笑顔を浮かべていた。

「敦の真剣な顔、見ててさ。僕、」

そして楽しげな彼曰く、

「お昼にやきそばぱん、食べたいなぁって…」

敦に、作ってもらおうって。







「…はぁぁああ!!??」

半ば叫ぶように声を上げ、今度は紫原が混乱する番である。
クスクスと響く鈴の音のような声は本当に可愛いのだけれど。
やはりそのまま、あれやこれやに持ち込んでしまいたくなるけれど。
だが、この際不可解な流れは度外視して、との前提条件は紫原には厳し過ぎた。この上なく上機嫌な最愛の人の笑顔の理由が全くもって意味不明というこの状況においては、まずはそれを解決したいと思うのが人の常であるだろう。
色々な思いを詰め込んで、精一杯分かり易く作った"訳が分からない"という表情で赤司の顔をじいっと見るが、彼はまったく意にも介さない様子で笑うばかりだ。
依然として、愉快そうに。

とりあえず状況を整理するため、紫原は先程までのいきさつを思い起こす。
この流れに落ち着く前に自分を悩ませていたのは、新婚生活が今までの間順調に行き過ぎて少し怖いということだった。そしてその不安感は少なからず赤司に伝わって、彼に少しだけ悲しそうな顔をさせてしまった。はず、であり…。

(で…やきそばぱん…)

…何それ?

…いややきそばぱんは知っている。細長いパンにやきそばを挟んで提供されるアレだ。
場合によっては辛子マヨネーズが塗られていることもあるだろう、また、赤司にとってはまったく意味をなさない(というか避けないと食べれない)紅しょうがが彩りとして真ん中に乗っていたりする、食事パンの王道であるアレ。
しかし、だからといって何だというのだ。これまでの会話と全く符合しない(むしろ焼きそばぱんが出てくる会話自体そうそうあるものではない)し、何故いきなりそれが食べたくなったのか、想像するには少々手強いというものがある。
彼の想い人の頭の回転は中々ハイスペックで、決して鈍くはないはずの自分ですら時に困ってしまう。

そんな風にぐるぐると思考を巡らす紫原に"いや、だってさ、"と赤司は続けた。
彼自身にもあまりに脈絡がなかったという自覚はあるようで、若干申し訳なさそうな再びの上目遣い(うわぁ、赤ちん反則)。

「だって、敦が作ってくれなきゃ食べれないだろう、やきそばぱん。お店で売ってるのは紅しょうが乗ってるし、僕もやきそばぱん作れないし…」

「(…"だって"で解説する場所違くねー???)…そりゃー作ってって言われたら作るけど…っていうか赤ちんだって料理大体できんじゃん…」

「うん。でも、多分僕はそれで終わっちゃうだろ。段々、作ってるうちにな、別にパンにサンドしなくても良いかなぁって思うだろうから…」

やきそばとパンが一緒に食べれる。加えて、味の相乗効果は他の惣菜パンと比べて群を抜く。栄養のバランス面で見れば大いに欠陥のあるそれだけれど、購入するときの合理性はやきそばぱんに軍配が上がる。
しかし、作る手間という側面で見れば話は別だ。わざわざやきそばを作ってから、パンの切れ込みにマヨネーズを塗ってさらに挟むという手間を考えると、その料理は極めて合理的じゃない。

もう二十年来付き合ってきた性格だ。どういう思考回路かは自分が一番(あるいは紫原が一番で、自分は二番目に)よく分かっている。別に合理性でしか物事を判断できないわけではないけれど、途中でバカバカしくなって放り出してしまう可能性は大いにあるのだ。
その点では、紫原は自分とはまるで異なっている。興味関心のあることに関してはとことんこだわり抜く彼は、きっと完成させるだろう。恐らく、いや、確実に、自分のために紅しょうがのないそれを。
ごく小さな事象だけれど、そういうところも、また。考え方に遊びのある彼の思考も赤司は大好きだ。

「何言ってんの〜焼きそばとやきそばぱんは全く別でしょ〜…って!だ、か、ら、疑問点そこじゃねーし!そもそも何で今、やきそばぱんなんだし…???」

「うん…だから、敦なら、ちゃんと作ってくれるだろ?やきそばぱん。」

紫原が精一杯ストレートに口に出す。
それを彼の視線の先で、予想通りという笑みで赤司は受け止める。

「…うー…それはそうだけど…。もー、赤ちんてば。人が真剣に話してたのに〜…」

ごめん、ごめん、うん、だからね。

「…本当に、僕…幸せだなと思って。」

流れ自体は極めて不可解だというのに、赤司の笑みは穏やかで幸せそうで。
対照的ではあるが、対照的ではなくなる、…そう紫原は思った。
その言葉通り、赤司はどこまでも幸せそうに紫原の目には映る。
ならばその笑顔で、怪訝そうな自分ももうすぐ幸せになるのだろう。

例え疑問点が解消されずとも、構うことはない。
赤司が幸せであるのなら、それで良い。

「さっき、ちょっと、不安に思った。それは、本当だよ。敦が引き出し開けていたし、」

それに、何より。
これまで3か月間。全く何も衝突しなかったこれまでの状況が少しだけ赤司を心配にさせたのだ。

(どうしてだろう…)

今まで起こっていたことが急に起こらなくなる。
喧嘩やちょっとした小競り合いが無くなったのだから事象として見ればありがたいものなのだけれど。
ましてやそれが、あの時から、なのだ。
誰にも見せることのない、一枚の紙。互いの未来を、今後を、紫原の生きる道を赤司の将来を、大きく左右するかもしれなかったあの決断。
だが一抹の不安もなく飛び越えたあの時から。

家族になったときから、何かが変わってしまったのなら。

(…どうしよう…)

いつしか言いようのない不安に陥ってしまった。
確認するすべはない。上手くいっているのだから、それが原因で関係が険悪になってしまったらと思うと聞くことも出来ない。

本気で向き合うことを辞めてしまったのだろうか、紫原も、そして自分も。

赤司の家ではそれが普通だった。
いつだって一線を引いた父と息子。
生物学的にも血の繋がった親子(そんなに簡単に昼ドラみたいな展開にはならない)である父親と征十郎とを隔てていたのは、甘えを許さない大人の絶対的な権威と、依存を好しとしない早熟な子供の遠慮。
そして、そんな環境に育ったからこそ赤司は誰かとの間には常に一枚の薄い布を広げていた。
それは決して目には見えない、だが確かに存在する隔壁であり、それが取り払われることなどあり得るはずがないと思っていたのに。

紫原は踏み込んだ。
彼は事も無げに赤司に手を延ばし、直に頬に触れ髪を撫でた、大きな体躯を丸め必死に力を加減して、シェルターのように強靭でカバーガラスのように脆い赤司の心を優しく包み込んだ。
赤司が戸惑い、身を引き閉じこもる間もなく。
そしていつか、赤司もまた紫原に手を延ばした。…すんなりとはいかなかった。ただ、ただ、根気強く、延ばしても良いのだと紫原は教えてくれた。この手を、誰かへと。そしてそれは、彼にでも良いのだと。
だからこそ赤司にとってこれが人生で初めてのそして永劫の”家庭”であり、紫原がかけがえのないただ一人の家族だった。
…なのに。だというのに。
もしかして”赤司征十郎”と”家族”になったこと、それが原因で、2人の間には急に一線が出来てしまったのだろうか。
そんなことはない、と赤司には言い切れなかった。何しろ、彼の暮らしてきた環境はまさしくその具現化で、当たり障りのない会話と、衝突など起こるわけもない偽りだらけの関係だったのだから。



もしそうなら。

家族になんてならなければよかった。



もう少しで、そう言うところだった。
だがまた紫原に救われた。
…どうしてこうも、彼は自分のことをそこまで分かってしまうのだろう。
そんな惚気たスパイスも、今はこの甘い幸福感にプラスしておこう。
甘味に合うスパイスは種類が限られるけれど、いずれパンにサンドされるべく作られる、彼手製の焼きそばにはとりあえず合うだろう。

「でも、…全然脈絡、ないんだけどな。急に、やきそばぱん、食べたいなって…。
だからすごく、…幸せだったんだ。」

「…ごめんね赤ちん…うん、でもどういう意味ですかそれ訳わかんないです…。」

「マジレス…」

一足飛びに話を進めているのは赤司にも自覚がある。
だが、何故この流れでやきそばぱんなのかというそれは自分にも分からないし、精確に説明することは難しい。
ごめん、と一呼吸を置いて、紫原にどうしても伝えたいことだけを必死に頭の中で整理する。

それに、委細全てを話すのは時間がかかりすぎると赤司は思った。
不謹慎にも、なのか、当然なのか。熱を持ち始めた自分の体。
持て余すことはないだろう、さっきまでこの目の前の愛しい大型犬も多分同じ状態だったのだから。

そしてもうすぐ、彼も気付く。

「こうして、深刻な話してるのに、」

「…」

「全然関係ない、やきそばぱんのこととか、頭に浮かんでしまったんだよ…」

「…うん、」

それってさ、

「…すまない、何だかこう、上手く言えないんだが…すごく…、」

「…赤ちん…、」

一歩体を近づけ上体をやや傾けると、自分の頭とちょうど同じ位置にある逞しい胸板。
そこに頬を寄せ、額を擦り付けると、紫原が赤司の頭に手を添える。
気持ち良くて目を閉じると、優しい低めのテノールが耳に飛び込んでくる。
そうだ、ほら、今も、こうして

「安心、してるんだ、僕…」

一瞬の不安はあった。確かに頭を過ぎった。
けれどそれはすぐに去って、代わりに思考に飛び込んできたのは、極めて日常的な中身のそれ。
深刻なことを考えていたはずなのに、唐突に、どうでも良いようなことが浮かんできたのだ。
現象としては紫原の言うように理解不能だろう。
だが、赤司は思った。

それは、心底自分が安心しきっているということであり、

(紫原とのことに関して、何一つ、不安に思うことなど存在しないのだ)

紫原との生活は、この上なく自分にとって基本事項なのであり、

(それはもう、急にやきそばぱんのことが頭に浮かんでしまうくらい、)

それが、とても。

幸せなのだ。





「今も…」

体ぴったりくっつけてくれる、寄り添っていられる、ぎゅってしてもらえて、それで…

「赤ちん…」

「敦と、出会えて」

敦を好きになって、大好きな敦に、…愛されてて。そう、感じることが出来て。

深刻な話かもしれなかった、しっかり考えなきゃいけない話かもしれなかった、でも、

そんな時にやきそばぱんなんて…全く関係ないこととか浮かんでしまうくらい、きっと、僕は敦に、安心してる。

敦が、安心させてくれる。

敦が、愛してくれてる。

「だからすごく、僕は幸せだよ。」

本当に、脈絡なくて、ごめん。

赤司が申し訳なさそうに笑うと、紫原は応えるのを二呼吸置き、その一拍を使って赤司を一層強く抱きしめる。

「バカじゃねーの赤ちん…、」

「、」

「言ったじゃん、俺…赤ちん、幸せにするって、」

(そんなの、俺だって幸せに、決まってんでしょー?)

「…うん、その通りになった、」

(昔からそうだけど)





やきそばぱん

と、幸福論。






「お昼ごはん、やきそばぱんしよーね(敦くん特製のだし)」

「うん、」

そしてもうすぐ、彼も気付く。

「…ねー、その前にさ、赤ちん、」

「…うん、」

「…えっちなこと聞いてい?」

「ダメだ、」

面と向かって言われる、請われる、求められる。それは赤司には恥ずかしい。
だが、

「!」

言葉とは裏腹なその返答を、逞しい首筋に唇を寄せる仕草で。

「…どうしよ、あんま歯止め効かなかったら、赤ちん怒らせちゃうかも、」

せっかく今までケンカしないで来れたのに〜…。

「そうだな、じゃあ、頑張れ、」

僕だって、そう簡単に、怒ったりしないさ。

「言うこと聞く犬にはぁ〜〜〜?」

「さあ、どうだろう、」

ところで敦、

なぁに、赤ちん、

…要らないのか…?

…いただきます。





赤司も紫原も、意識し出した互いの熱。

ああ、やはり持て余すことはなかったようだ。





end.

2013.07.21

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