NOVEL | ナノ

 君の声を忘れない

どうにも、不安になることがある。
そういう日が、そういう時間がある。





電話越しの、君の声を忘れない





どうにも、堪えきれず、どうにも抗えず、ただひたすらに不安に苛まれる時間。
それは孤独に対する恐怖だったり、上手くいかない現実に対する葛藤だったり。


もし周りに人がいたなら、すぐ訴えることが出来るだろう。
もし一人で耐えられるなら、それに越したことはない。


だが、もし周りに人がいても、訴え頼ることは出来ないだろう、自分には。
もし一人で耐えられるなら、そもそもこんな風には思わないはずだ。


苦しい、と、言葉で思うことは出来ない。
ただひたすら抱えている息苦しさにぎゅっと胸を押さえても、誰も気遣ってくれる人はいない。
(いたとしても、今ならその手を振り払ったことだろう)。
先程から途切れることなく訪れている、まるで世界がガラガラ音を立て崩れていくような漠然とした不安感に、もう少しで発狂してしまいそうだ。
(だが、ああ、それすら出来そうにない)。



この世に僕はひとりぼっち



誰にも見えない、だれにもわからない



僕の心は誰にも知られない、だってだれにもきこえない



この世に僕はひとりぼっち、だれにもみつけてもらえない



偶然、手に持っていたスマートフォンが視界に映る。
無意識にロックを解除して、意識の外で電話のアイコンをタップする。
現れる通話履歴は、特に用があって部の仲間と連絡を取ったとき以外はいつだって決まっている。

見慣れた文字、見慣れた漢字。

三文字のその先頭に輝くのは、誰よりも愛おしい彼の色を想起させるそれ。

心のどこかで、まだ崩れていない心のどこかで、押しては駄目だと警鐘が鳴る。
押してしまいそうになる心、ぐっと堪えてせめても抱きしめようかと胸に引き寄せ口付ける。
だが、その時指が履歴に触れ、感度の良いタッチパネルはそれをネットワークへ伝えてしまった。
意識的にか無意識にか、本当に偶然なのか。そんなことはどうでも良かったし、恐らくこの先も決着をつけることはないだろうと思う。
“発信しています”の明るい画面。そうして、数千kmの空間は、たった数回のコールで繋がった。





「赤ちん?こんばんはー?」

聞き慣れた、柔らかな声。

どうしたの、とは聞いてこない。

しばらくの沈黙も、許してくれると分かっていて。

「…赤ちん?…赤ちん???どーしたの???」

いよいよ続く沈黙に何かおかしいと感じ取った電波越しの相手は、だんだんとその声を切羽詰まらせていく。
だが、その彼より混乱しているのはこちらの方だから、それに返すことも出来ず押し黙ったままになってしまう。
先程から続く息苦しさに声を詰まらせるとその音は微かながら伝わってしまったようで、電話越しの相手が共に一瞬息を詰めるの分かった。
途端に切迫感の増す声。
実際今彼がどういう状況で、どういう体勢でいるのか分からないけれど、聞く限りでは身を乗り出さんばかりの勢いを感じる。

「ど、どしたの?ほんとだいじょうぶ赤ちん???
…と!とりあえず救急車とかケーサツとか今呼ばなきゃいけない状況!!??」

そして、どうにも混乱させてしまったらしい。この治安の良い日本で、ましてや年若い女性でもない赤司がトラブルに巻き込まれることなど、そうそうないであろうに。
とんでもない方向へ思考を飛んで行かせそうな彼に、だがどうして笑顔で返すことなど出来なくて。
ようやく絞り出した”違う、”の一言に、ほっと胸を撫で下ろす彼の姿が目に浮かんだ。

「そっか、」

良かった、とは続かない。代わりに、そっか、と、もう一度。

時折息を吸うとき詰まり、啜り上げてしまうとあちらでも息を飲むのが分かる。不安にさせて、迷惑をかけて、何をしているんだろうと思うのに、ごめん、ありがとう、もう切る、またね、そのうちのたった一つの言葉さえ出てこない。
そしてまた沈黙を続けてしまう自分に、遠い空間を隔て長い時間を割き付き合ってくれる柔らかな紫色。
実際に見えない・触れない状況で、いつも赤司を安心させてくれる彼の大きな体は想像することしかできないけれど、咲き掛けの紫陽花に似た色が目を閉じると広がって、少しだけれど息が楽になる。
やがて顔を上げられるくらいには回復した赤司の視界に、カーテンを閉めていなかった窓の外、新月の夜空が映った。
はるか上空、それが星であれば、秋田と見える景色は同じだろうか。
だが基準となり得る月の光は今日はなく、ただ黒に似た暗い紺が広がるだけだ。都会の光に遮られ、その他の星では弱すぎた。

見えない星の光を以ってして、未だ晴れやらぬ心の何と弱いことか。





所変わって、紫原の視界に映るのはともすれば真っ暗な、長閑な秋田の夜空である。

赤司の心は知らずとも。赤司を再び平穏の空間に戻すことに、紫原はとうに長けていた。
時に孤高の存在となり、時に混沌とした世界を引き込む赤司を安心させるのは、どれだけ離れていようと彼の役目でしかありえない。
声のトーンも、話し方も、何も装ったりしない。そのままの彼が、赤司を優しく包み安寧へと導ける。
その自負と、ほんの少しの誇らしさ、残りは全て不安がる赤司を心配する気持ち。その三要素で今の紫原は出来ていた。

電話越し、段々と整ってくる赤司の息遣いにほっと胸を撫で下ろし、上げた視線の先に壁掛けの時計が映り込む。
11時半、ギリギリだけれど、どうにかなる時間だ。加えてこの時間であれば、他の生徒と会う可能性はまずない。
紫原は徐に立ち上がり、”赤ちん、”と極めて小さく極めて穏やかに呼びかける。
赤司の調子ももう大分落ち着いていて、応対することは可能なようだった。

「お風呂入ろ」

「…風呂…?」

「そ、シャワーじゃだめだよ。湯船に浸かるの。」

俺、これから大急ぎで行くからー。
陽泉の寮には個室の浴室はなく、簡素なシャワールームがあるだけだ。湯船に浸かるには共有の大浴場に行くしかなく、開室時間は午前0時までと決められている。
一方、同じく寮暮らしだけれど、赤司の部屋には備え付けのバスタブがあったはずだ(設備の違いは寮費の違いだろうか)。
回線は繋いだままで、お湯を張ってね、少し待ってね。
優しく、だが色々と支持を出し、遠い京の下の赤司を動かす。何かしていた方が、気が紛れて良いこともある。
そのうちあちらからも暖かそうな水音が聞こえてきて、紫原は歩くスピードを増した。
自室から浴室は数分の距離しかない。脱衣所で服を脱ぐ時間など数十秒に満たないけれど、その数分数十秒が今は惜しく感じられた。





「繋がったまま、持って入ろー。スマホ濡れないように注意してね。」

赤司がそれにどう対処するかは分からない、とりあえず紫原は小さなタオルでスマホを包み、予想通り誰もいない浴室に入る(一瞬、湿気で悪くならないだろうかとの懸念が頭を過ぎるが、そんなことはほんの些細な事象に過ぎなかった)。
こちらの水音は赤司にも聞こえているだろうか。赤司はちゃんと湯船に浸かっただろうか、この時間でお湯は溜まっただろうか。
そんな紫原の疑問に答えるように、相変わらずの湯の音に混じり赤司の動作が水音として伝わってくる。

(良かった、赤ちん、ちょっと元気になった…。)

当初、電話越しの彼は、もしかしたら息をすることすら辛いのではないかと思うほどの沈みようだった。それに比べると今は、歩くことも湯に浸かることも出来ている。
もしかしたら荒療治かもしれなかった。彼を動かすのは酷かもしれなかった。だが赤司は応え、応じてくれた。
そのことに紫原は一度安堵の息を吐き、スマートフォンを落とさないように気をつけながら湯に浸かる。

「赤ちん、お風呂一緒久々だね−、」

のんびりと呟けば、少しだけ緩んだ声で、

「うん、」

他に生徒もなく、何より温泉のような大きな浴場で、紫原は遠慮することなく足を伸ばした。誰の目を気にすることもなく(いつも気にはしないけれど)両足を少し広げる。腰をずらし横たわれば、座高の高い紫原であっても肩まで浸かることはできる。だが今は赤司と会話するために両の手を水面より上げておく。
赤司の寮の浴室には彼が足を伸ばすほどの広さがあるかは分からないが、出来るだけ楽な体勢をと促した。

「赤ちん、あったかー?」

「うん、」

「俺もねー、ほっこりするよー。」

赤ちん抱っこして寝てる気分。赤ちん湯たんぽ。

六月の、気温も湿度も夏めいてきた状況で湯たんぽもない、とは紫原も思うところだけれど(秋田でこれほど暑いのだから、盆地の京都はもう相当夏の気候に違いない)。
それでも、言わんとするところは寸分違わずそれなのだから仕方ない。
まるで、赤司を抱きしめて眠っているような、例えるならそんな幸福感。

「…湯たんぽ、」

スマートフォンから、赤司の声が紡がれる。ああ、でも、うん、でもなく、相槌ではない明確な単語。
紫原は慎重に、ゆっくりとその先を待った。

「夏なのに…、」

「うん。でも、いーのー。」

前に電話してからまだ一週間も経っていない。だが久しぶりのように思える赤司の声は、たっぷり張られた湯のように温かく、やっぱり心がほっこりした。

「赤ちんも、あったかぃー?」

「うん、」

まるで紫原に抱きしめられているようだよ。
そんな言葉を紫原は期待していたわけではないし、思いもしなかった。ただ赤司と何かを共有したくて、必死に考えたそれだった。

けれど。

(まるで紫原に抱きしめられているみたいだ。)

(温かくて、広くて大きくて、…とても安心するんだ。)

それは口にすることは出来なかったけれど。

赤司はそう、確かに思っていた。





通話を終えたのは、結局二時間以上も経ってからだった。
二時間と少し。通話としては長いが、普段暮らしている時間で見ればごく短い間だ。しかし、心に混沌が巣食い、自身の心を喰らいつくそうとしていたのが、もう随分前のことのように思う。
それほどに安寧を取り戻し、心に訪れた平穏を、胸に手を当て赤司は噛みしめる。
目を閉じても開けても浮かぶのは柔らかな紫陽花色で、寝ることも覚醒することも部のことも勉強や生活のことも何も頭に浮かばない。だが、今は、それでいいと思った。

「赤ちん、」

どーしたの?

赤ちん、

だいじょうぶ???

赤ちん、

お風呂一緒久々だねー。

赤ちん、

(敦…僕、湯たんぽ…)

赤ちんも、あったかぃー?

(僕、は、)





とても、幸せだ。





いつしか夜が明けていて、とうに遅刻はおろか昼に近い時間だったけれど、気にはならなかった。
全く気付かなかった着信。玲央からのその多さに申し訳なさを覚え、真っ先に連絡を取る。委細説明すると(と言っても、寝坊、なのだが…)、彼は安堵のため息を吐いた。
昨晩の彼と同様に。
叱咤や怪訝さの浮かんだそれではなく、ゆっくり休んで、という優しい労わりの声音が起き抜けの耳に心地いい。

「征ちゃんは無理しすぎなのよ。最近疲れてたみたいだし…先生には連絡しておくし、午後練もお休みしなさい。」

「いや、そうはいかな、」

「これは先輩命令よ。主将だからって、先輩に逆らっちゃだーめ。」

こういうとき、どちらが強いか、に関して、異論はない。
男は母親には敵わない、と聞く。
ならば母親のようだと周囲から称される玲央であるのだから、また同様に彼にも敵わないのだろう。

「…ああ。…ありがとう、玲央。」

「何にもしてないわ〜。うふふ、それにね、征ちゃん、…あ。」

何かを言いかけ、そして何かを思い出し。言い止まった玲央に「何?」と問うが答えてはもらえなかった。
代わりにもう一度、ゆっくりね、とだけ告げる玲央の声は、やっぱり優しかった。
紫原と同じように。でも、彼より少し、低い声。

あれからどれほど眠っただろうか。そして、起き抜けに聞いたのは、彼ではなく玲央の声だけれど。でも。





電話越しの、君の声を忘れない。





そして。





「赤ちん、」





えへへ。びっくりしたー?





「会いに来たよ、ちょーそっこーで、」





眩しく、そして蒸し暑い京都の六月。

ふわり笑った彼の姿を、忘れることはないだろう。





end.

2013.06.16.

またも書きかけを置いておいて!
すぐに京都行っちゃうとか…むっくんハイスペック…!


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