8.
バタン、と扉の閉まる音。
脱衣所から現れた彼は、カーペットで体育座りしたアタシを見て笑う。
「はは……何だかシュールだな、nameが着てると。」
『……うっさい…。』
現在地はもちろん、イタチのアパート。
着いてから即行シャワーを勧められたのだが……その替えの服として渡されたのが、このキティちゃんの猫耳フードが付いた寝間着である。
「この前篠原が来たときに、脱いでそのまま忘れていったみたいでな。あぁそうそう、篠原にそれ、見せたらすごく喜んでたぞ。」
『……当然でしょ。アタシが直々に選んであげたんだから…。』
そう。何を隠そう、これはアタシがシノのためにとチョイスした代物だ。
でも実際は、そんな筋書きを書き換えて。
彼が個人的に買って、シノにプレゼントした……ということにしてある。
「あはは、そうだな。その節は本当にありがとう。」
『いいよ別に。まさか自分が着ることになるとは思わなかったけど。』
そんなお礼を言われても、アタシが彼と目を合わせることはなかった。
別に気まずいからとか、そんなんじゃない。今はもう、イタチへの想いは吹っ切れている。
(そっか……もうシノ、一人でお泊まりできるようになったんだ……。)
ちょっとだけ安心した、ってのと。
やっぱりどこかやるせなくて、アタシは尚更彼のいる方とは真逆を向いていた。
「髪、乾かさないのか?」
『イタチ先に乾かしな。アタシはいい。』
「遠慮することないぞ?それにオレは、いつも風呂上がりには乾かさないから、」
『嘘。じゃあ何でドライヤーがあんな手の届く位置に置いてあるわけ?』
「さすがに何でもお見通しだな。」
『そんなのイタチが鈍感なだけ。』
「あぁそうだ。オレはお前の好意にも気づいてやれない鈍感だ。」
てっきり苦笑いが帰ってくるかと思えば、アタシの辛辣を本気にした彼。
何を言われるか悟ったアタシは……そのときに備え、ただただ拳に力を込める。
「わかっていると思うが、name。オレはお前とは付き合えない。」
―――あぁ、やっぱり……。
「それでもかけがえのない存在だとは思ってる。篠原と同じで、な。」
『……うん……わかってる……。』
そうだ、そんなのはじめから分かってた。
アタシはもう感情を露骨にすることなく、その事実を静かに受け入れる準備ができていた。
(これで良かったんだ、うん………それに、むしろ届いちゃいけないんだ、この想いは……。)
そう納得して、アタシはふぅ…とだけ息をつく。
だって仮にもしイタチがここでシノを捨てていたら、アタシは彼に幻滅していただろうから。
―『だってアタシ、ホントはシノの親友なんかじゃない!!!』―
―「name、今すぐ撤回しろ。篠原が傷つく。」―
でも、それをしないイタチだからこそ……アタシはこんなにも、心苦しいほど彼に惹かれた。
それを確認できただけで、もう十分だ。
「けど不思議だな。どこがと言われれば答えられないが、確かにお前たちはよく似てる。」
『……?アタシと、シノが…?』
「ははっ、意外だろう?性格だってまるで正反対なのにな。けどオレは、もし篠原より先にお前に出会っていれば……きっとお前を選んでた……。」
ズキン……ッ、
慰めか、はてはタチの悪い冗談か。
だがそのせいで、せっかく割りきったアタシの決意が悲鳴をあげる。
「人生、何が起こるか分からないよな。篠原が居なかったら、オレたちは当然引き合うこともなかった。それでもいずれは、お互いに出会う未来もあったかもな。」
『……ううん……残念だけどそれはない。』
それを何とか持ち直し、アタシはチラリとだけ彼を見る。
濡れた髪に、黒のVネック。
まだ微かに湯気たつその体……アタシは見ていられず、すぐに首を戻した。
「……その心は何だ、name。」
『うん……イタチが前にさ。シノの笑えてる姿が見れたのはアタシのおかげだって言ったこと、覚えてる?』
「あぁ。」
『じゃあさ、それがアタシにだけ言えないわけがないでしょ?』
「……と言うと?」
『シノがアタシに生かされてるなら、アタシだって同じ……やっぱりそこにシノが居なかったら。アタシの良さなんかイタチの前でも伝わんなかったんだよ、きっと。』
そう。それはずっと、心の奥底ではわかっていたつもりのこと。
それでも改めて言葉にしてみれば、それ以外の答えなんてなかったことに気がついた。
―「ジャーン!お部屋に冷蔵庫あるから、いっぱい詰めて冷やしとこーっと!」―
あの笑顔に、あの存在に。
アタシが自覚している分と、自覚していないだけの魅力が彼女にはあって。
アタシはこれまでずっと、そんな彼女に生かされ続けてきたんだ。
―『ほらほらアンタ、袋破けてるっての。』―
―「え……あぁ!」―
―『あーもう、あんた人様の車なんだから汚さないようにしなよ?ってほらぁ!こういうポテチ系のは絶対食べこぼすから駄目!没収!』―
―「うあーやだやだ!ヤメテあたしのポテ子さんがぁ!」―
それこそアタシたちは親友で。
お互いの良いところを最大限に引き出せる、唯一無二の存在。
―「……オレでも叶えられる望みか?」―
―『!!!』―
―「なら言ってくれ。オレはnameの力になりたい。」―
―――そんなシノを裏切るなんて、アタシには始めから出来っこなかった。
―「こういう奴らと付き合っていくには、多少の汚さも覚えておかないとな、お嬢ちゃん。」―
親友と手を繋ぎながら、もう片方の手で欲望を満たし生き続けるなんて。
そんな器用な芸当、アタシには到底出来っこないんだ。
「……nameは、強いな。」
『あはは……なに言ってんのイタチ。あんなにアタシの取り乱したとこ見ておいて、』
「今でもそうやって、言いたいことも言えずに我慢してる。オレを貶すはずの言葉で、自らのことばかりを責め立ててる。」
『や、ヤダやめてって。アタシあのときは本当に気が動転してて、』
「終いにはそんな自分をおくびにも出さず、笑ってみせる……本当は、お前の心からの笑顔が、見たかったんだけどな。」
彼の近づく気配がした。
依然としてそっぽを向いたままのアタシの横に、彼も同じように体育座りする。
「どうやらそれを邪魔してたのは、オレのほうだったみたいだ。」
『っ……!!』
顔は見てない、けど……今の彼が、どんな気分でそれを言ったのかは分かる。
でも違うの、そんな……イタチはなにも悪くない。
彼はシノに対して、恋人として正しい判断をしただけだ。
『い、イタチ……アタシのことはもう、』
“気にしないで”……そう続くはずの言葉が、彼の胸に吸い込まれていった。
(………あ……、)
顔をうずめたそこからは、全てが洗いたての優しい香りと。
恋人を選んだ強い決意とは相反する、彼の鼓動が伝わってきた。
ドク、ドク、ドク……
(何でかなぁ……何かわかんないけど、すごく安心するんだよね、イタチって………。)
その規則的な心音は、まるでアタシの心のドアをひたすらにノックしているかのよう。
それを意識すれば、ハッとした……たまらず彼のシャツにしがみついた。
―「けどオレは、もし篠原より先にお前に出会っていれば……きっとお前を選んでた……。」―
きっと彼も無意識だったんだろう。
どうしていままで、あんなに構ってくれたのかも。アタシなんかに優しく接してくれたのかも。
―「それでもいずれは、お互いに出会う未来もあったかもな。」―
―――彼はこれまでも、心のドアをノックしては。ずっとアタシを探してくれていたんだ。
「ごめんな、name。」
『……っ…う……あぁああ…っやあぁ……!!』
情けないけど、アタシはこの日。
彼の胸を借りて、一生分の涙を使いきるくらいに、泣いた。
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