唐沢さんの場合
病んでるシリーズ
*なんでも許せる人向け
「克己さん、ねぇねぇ克己さん」
楽し気な声に唐沢は仕事の手を止めておもわず笑みを零し、振り向く。
「聞こえているよ。どうした?」
「凄いの、あのドライヤーになってからね髪の調子がいいの」
嬉しそうに彼女はふるふると頭をふる。その度にボブカットされた黒髪はふわふわ揺れた。風呂上がりともあって揺れるたびにシャンプーの香りがした。
「よかった、変えた甲斐があったな」
おいで、とばかりに腕を広げれば彼女はぱあっと顔を輝かせてこちらに来た。唐沢の膝の上に座ったことでちょうど顔の少し下にきた彼女の髪に鼻先を埋める。
ふんふんとご機嫌な彼女が何よりも愛おしくてぎゅっと抱きしめる。やっぱり、彼女がこっそりチェックしてたのはあのドライヤーで正解だったようだ。口角は、自然と上がる。
そのままゆっくり指先を彼女の腕から手首のあるところまで滑らせた。
「アザ、なかなか消えないな」
「大丈夫だよ、見た目はアレだけど全然痛くないの」
「・・・・そうか」
この間の取引先との会食に一応唐沢の秘書の立ち位置でもある彼女も出たのだが、そこで取引先の社員に目を付けられてしまったのだった。
酒も入っていたこともあって、だんだん彼女へのセクハラ紛いなこともヒートアップしていたことは一応取引先ということで目をつむってやっていた。ここまでは、よくあることだった。
しかし、帰り際彼女を強引に連れ帰ろうとしたのだ。
ただでさえ他人に、ましてや男に彼女を触らせていることでさえも我慢ならないのに、アザではあるが自分以外が彼女の体に触れた跡をつけた、と考えるだけで虫酸が走った。
「ごめんね、抵抗した時に叩いちゃったからあそことは破談だよね」
しゅん、とする彼女の声で唐沢はどろどろした思考回路から我を戻す。不安気にこちらを見る彼女に優しく笑うと、額に唇を押し当てた。
「気にするな、悪いのは向こうだ」
ふと、仕事用に使っている携帯が鳴った。ちら、と見えたディスプレイに映る名前に唐沢は表情を消すーーただ、それも一瞬で膝に乗る彼女に向き直る時には優しい笑顔に戻っていていた。
「仕事の電話だ、少しいいか」
「あ、うん、ごめんね」
慌てて退く彼女の手の甲にキスを落として立ち上がると、無造作に携帯を引っ付かんでベランダに出るーーもちろん、柔らかい表情は消えていた。
「・・はい、もしもし」
電話に出るなり、電話口から慌てたような声で謝罪の言葉が飛び出してきた。つい数日前、会食の席でひたすら彼女にかけていたあのベタつくような下品な声は消えていた。
早口で捲したてる声も、充分耳障りだが。
「おや、それは大変ですねぇ」
ベランダの手すりにもたれ掛かるようにする唐沢はおかしくなって、笑った。笑い声が聞こえたのか、電話の相手の声音に怒りが込められていく。
唐沢は次第に怒号に変わるそれを、特に臆することなく聞く。
「後悔先に立たずという言葉はご存知で?…手を出す女を間違えたな」
これ以上は聞いてられないとばかりに一方的に切ると、その電話番号を着信拒否にした。
携帯のディスプレイに表示された時間に、そういえば夕飯がまだだったと気付く。久々の彼女の手料理か、悪くない。
唐沢は口元を歪ませ、ベランダから室内へ戻る。途端に包まれた暖気と愛する声ーーまた、唐沢は柔らかな表情に戻るのだった。