マリオネット



※過去について捏造有り


「ヒーローに、なってみないか」

 そう無機質な声で言った目の前の男を通して、違う誰かを見つめながら唐沢はその言葉を頭の中で反芻させた。真っ先に、出てきたのは目の端を優しく下げて嬉しそうに笑う彼女だった。






 「ねえ、聞いてるの?」

 不意に不満げな声が耳に入って唐沢は我に返った。
 椅子に座り直すと手元からいつの間にか滑り落ちていた数枚の紙を拾い集める。このペラペラで薄い紙には今はまだくすぶっているヒーロー達の行く末がかかっていた。
 人は皆、何をするにも金が要る。正義をかざすヒーロー達も人間である以上それは例外ではなかった。

 「ねえってば!」

 一際大きい声がして、唐沢は椅子をくるりと回転させて後ろを向くと薄ら笑みを浮かべる。拗ねたようなその言葉には甘えるような声音が混じっていた。そういう時は少し強気で出てもいいのだ。
 声の主は振り返った先、ベッドの上でうつぶせになり左肘をついて手に顎を乗せ、唐沢を睨んでいた。幼子がするように退屈そうに足をばたばたさせるたびにバスローブの端が落ちていきその細い足があらわになっていく。思わず追いかける視線を無理やり彼女の顔に戻す。

「今日の仕事はもう終わったんじゃないの?」
 「取引はな。やることはまだあるんだよ」
 「そんなの知らないわよ。だいたい、なんで克己一人がやらなきゃいけないの? お金が欲しいのは克己じゃなくてあの集団じゃない」
 「残念だな、俺たちはもうその集団にはいったんだよ」

 俺たち、という言葉をするっと入れてやればキリは片方の眉を少しだけ上げた。悪くない、という合図だ。唐沢が少し口の端を上げればキリはそれを気分を良くしたのだと思ったのか、ごろりと転がって体勢を変えて仰向けになる。平均より大きめな胸がバスローブの合間から見え隠れした。
 彼女は自分の魅力をよくよく知っている。だからこそそういうけしかけ方は得意だった。良く言えば魅力的な女、悪く言えば傲慢な女だ。

 「退屈、かまって」
 「ダメだ」
 「なによう、可愛い妻をないがしろにして昨日はキドってひと、今日はずーっと取引先とばっかり。私、焦らしたり放置するのは好きだけどされるのは大っ嫌い」

 声音から甘えるようなものが消えて、拗ねたようなものが大きくなる。このままだとそのうち本当に臍を曲げてしまうから、唐沢は一つ小さく息を吐くと契約書をファイルにしまい、引き出しに入れて椅子から立ち上がる。
 その音を聞いたキリはけろっと表情を変えて仰向けのままこちらに顔を向けた。いたずらっぽく輝く瞳に「このやろう」と思わず声を出してしまったが、上機嫌なキリはけらけら笑うと手を差し出す。
 その手を絡め取ってベッドに縫い付けてやればキリは体をずらして唐沢にすり寄った。その動作が猫を思わせて撫でてやると、ベッドシーツに緩やかに散らばる髪の毛先を一房、掬う。

 「息抜きしましょ」
 「息抜き、で終わらせてくれるのかな」
 「そんなの克己次第でしょ」

 首に腕を回されて引き寄せられる。唐沢は最後の抵抗として片足だけベッドに載せていたが諦めたようにベッドに乗り上げる。二人分の体重を受けて、ベッドはぎしり、と悲鳴を上げた。ごろり、とそのままキリが誘うようにベッドの中心に移動するので仕方なしにその上に覆いかぶさった。
ねだる様な瞳と視線がぶつかって、そのまま顔が近付くーーもう抵抗する気も起きなくなってそのまま唇を軽く合わせた。こうなるともう、止まらない。これは経験から得た結論である。
シャンプーやリンスの香、いつも彼女が付けている甘いボディクリームの匂いに包まれてたまらずキリの項部に手を回すとそのまま貪るように何度もキリをした。目の前の瞳がとろとろに溶けてゆくのがたまらない。

 「ん、」

 唇を離すと耳元に優しくキスをする。片方は体重を支えるためにベッドに手をつき、もう片方はするするとバスローブの上から彼女の体を撫でる。くすぐったいのか、構われた嬉しさか、キリはくすくす笑う。

 「明日、ちょっと早めに起きてやればいいでしょ。紙は逃げないもの」
 「お前、それ早く起きるのは俺なんだけどな」
 「頑張って」

 なにが頑張ってだ。まったく中身のない「頑張って」に呆れたように唐沢は苦笑いすると首筋にそのまま唇を這わす。脇から横腹へと滑らせた手は、ほとんど肌蹴たバスローブを伝って腰の下あたりで結わえられた帯をほどきにかかる。
 ふと、キリの左手につけられた指輪に気付く。

 「それ、まだ付けてたのか」
 「当たり前でしょ」

 キリは玩具の指輪にキスをすると艶やかに笑った。

 「大事な大事な結婚指輪ですもの、あなた」




 結局、息抜きで済むはずもなく、ほとんど眠れなかった唐沢は保険としてかけていた携帯の目覚ましに叩き起こされた。低く唸って携帯のロックを解除すると時計を見る。まだ、間に合う時間だ。
 腕の中の妻はまだ夢の中のようで、上下する肩にをすこし恨めし気に睨んだ後に、ふっと息を吐いて笑う。結局は惚れた弱みで「まあ、悪くない」などと思ってしまう自分がいるのだから、始めから軍配は妻に上がっているのだ。
 大事そうに胸元に寄せられた指輪を見る。
 彼女はいつもつま先から髪の先まで、高い物で着飾っていた。そのための金は惜しまないし、そもそも唐沢と一緒になったのも「贅沢させてやる」という甘言にのったのだとばかり少し前まで思っていた。
 一度、もっと高い指輪を買ってやろうかと提案した時だ。そうではないと気付いたのは。

 「嫌。これがいいの。…克己は分かってくれてなかったんだ」

 そう言ってしばらく臍を曲げてなかなか機嫌が戻らなかったのだからびっくりした。そのくせ、そのご機嫌はブランド物のバッグとヒールにコートを付けた三点セットで治ったのだから、女心は難しい。

 「これがいい…ね」

 指輪を伝いそのまま眠るキリの指をなぞり、口元を緩ませる。彼女の為すこと言うこと全てを理解するには至っていないが、この理由ばかりは分かっている。

 「キリ、」

 そっと名前を呼んですやすや眠るキリの額に唇を落とした。




 それからしばらくした日の夜だった。
 マンションの一室に入るなり、目の前にいたキリはぽい、と派手なヒールを脱ぎ散らかして大きなため息をつきながら玄関にあがりそのままリビングに向かう。
 けして安い値段ではないそのヒールを唐沢は整えてやりながら、カギを内側からかけると自分も革靴を脱いで上がり込む。

 「やってらんないわ、とってもやってらんない」

 そう言ってどかっとソファに腰を下ろしたキリは、団子にしていた髪をほどき、ヘアゴムを投げ捨てると黒い伊達メガネをぽい、と机へ雑においた。取引先の目に「秘書の女」と強く印象付ける為のコーディネートがどんどん外されていく。
彼女が怒っている理由は分かっていた。今日の、取引相手のせいだ。

 「あームカつくったらありゃしない。誰があんなやつなんかと」

 私はそんなに安くないわよと足を組みながらぶつぶつ文句を言うキリに唐沢は困ったように眉を下げて見つめるだけだった。

 「っていうか! 克己! あんたももう少し私を守りなさいよね! もう少しで可愛い奥様が他の奴に食われるとこだったんだから!」
 「別にそこまでではなかっただろ」
 「へー、じゃあ腰に手を回されたのはいいんだ」
 「殴ってやろうかとは思ったが、あんなのでも今は数少ない取引先なんだ。金を逃すわけにはいかない」

 普段あまり攻撃的な言葉を使わない唐沢から飛び出た「殴る」の言葉にキリは少し良くしたのかそのままソファでぶすっとむくれたままなにも言い返さない。唐沢はその隣に座ると腰を引き寄せた。

 「我慢してくれとは言わないよ。悪かった。許してほしい」

 耳元でささやいて触れるだけのキスをしてやると、キリはうっ・・と言葉を詰まらせ、「ずるい」とだけ呟いた。ただ、手が腰に回されて、胸板に寄り掛かる様な姿勢になったので、ひとまず大丈夫だろう。一日団子にしていたからゴムの痕がついた髪に指を通して梳く。毛先一つまできれいに整えられているのは、本人こそ口には出さないが唐沢のためだという事を知っている。

 「・・八つ当たり、ごめん」

 ぽそりと呟くキリに唐沢は笑った。常日頃からあれだけわがまま言っておいて今更なんなんだ、そんな意味を含んだ笑いに気付いたのかキリは俯く。髪から見える耳は真っ赤だ。

 「少し、怖かったの。一瞬だけでも昔みたいになるんじゃないか、なんて」

 唐沢は何も言わない。キリは瞳を閉じると丁寧にマスカラを乗せたまつげを震わせた。空いた唐沢の手に重ねられたキリの手を握ってやる。
思えば随分色んな表情をするようになった。最初は頭からつま先まで、用意された物を無理やり着せられ、意思表示することを許されない人形だった。
整えられ、磨かれた爪は綺麗にネイルが施されている。彼女が好みそうな、可愛らしくそれでいて控えめな。

「綺麗だな」
「貴方の好みでしょ?」

悪戯っぽい台詞はその実、震えた声で。唐沢は自分よりもいくらか小さな手を包み込んで額を合わせた。
キリは毎日コーディネートを考える時にテーマを決める。今日は取引のために「秘書」の格好、組織では「クセのある唐沢の妻」の格好を。いまだって、「唐沢の好み」を身に纏っている。それが本来の彼女の姿なのか、着飾ったものなのか、唐沢にはわからないーー恐らく、本人も。だからこそ、確認するような言葉が彼女の口からは度々溢れるのだ。

彼女の為に物語のような事件を起こしたのはいまの組織に入る、ちょっと前のことだ。
そこでは彼女は相手の望む姿でいなければ生きていけなかった。相手を伺い見て、自分を化かさなければならなかった。そうして生きてきたキリは、他に選択肢があることにまだ気付かないでいる。
急ぎはしない。いつか彼女自身が気付けばいい。組織から抜け出す時に彼女の手を取ったその時から、それを待つ覚悟は決めていた。

おいで、と膝を叩けばキリはおとなしくその膝に座る。帰り道についたのであろうか、彼女のスーツに付いていた桜の花弁を指で摘んで取る。
今の上司となった城戸に誘われたあの日も桜が咲く季節だった。お世辞にも褒められないような仕事をしていたくせに、「ヒーローになってみないか」という言葉にまんまと乗っかった日だ。

「君ならどんな姿だろうと好みだよ、本当だ」

すんすん、と妻が鼻をすする音を聞きながら、あの日の桜に想いを馳せる。ヒーローになってみたい。誰よりも脆くて愛おしい妻の為に。
警戒区域となったあの公園は桜もろとも瓦礫の山と化していて、もう咲くことはない。
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