冬来りなば春遠からじ



 ※捏造、間接的な死の描写含みます。

 「あら、懐かしい」

 県外スカウトから帰ってきた林藤ゆりに、渡された書類からはらりと落ちた写真にキリは思わずそう零す。写真には、旧ボーダーの面々が笑顔で写っていた。
 写真につられて笑うキリに反して、林藤はそんなキリを見つめて不安そうに眉をひそめた。その胸の内は、しまった、と自分をなじっているのだが、幸い写真を見つめるキリは気付かなかった。

 「・・修くんが、城戸さんの部屋を使うことになって、出てきたんです」

 「そう、よりによって三雲くんが。不思議なこともあるものね・・・・そうね、あの人、全部置いていってしまったから」

 置いていかれたのはあの人のほうかもしれないかもね、とキリは笑うと林藤に写真を返した。その笑顔はいつも隊員達に向ける母のような笑顔で、それでいて彼女の顔に影を刺したものだった。

 「あそこに、置いといてあげて。ここには置けないから・・書類、預かったわ。ゆりちゃん、お疲れ様」

 そういってひらひら手を振るキリに一礼して、部屋を出ていく。写真の中の、男に寄り添って幸せそうに笑っていたあの面影はすっかり消えていた。すっかり痩せてしまって、歳を重ねてーーそれだけではない様々な因果が彼女を大きく変えてしまったのだ。

 扉が目の前で閉まったその瞬間、キリは顔がこわばるのを感じた。まさか、今頃になってあの写真が目の前に現れるとは思わなかった。小さく息を吐いて、平たい腹に手を添えた。あの頃は、しきりにしていたこの仕草を写真とともに思い出してしまった。
 人の事は言えなかった。いろんなことから逃げたくて、思い出を全て置いてあの場所から離れたのだ。あの人と、一緒に。

 「ねぇ、いま懐かしいものをみたの」

 部屋の中へと戻り、写真のあの顔よりすっかり怖い顔になってしまった城戸にそう投げかけた。
 ボーダーの最高司令官である彼、そして妻であるキリは基地の中の居住区に住んでいる。白い無機質な基地特有の壁を通して、キリは過去を見るように目を細めた。瞳が一瞬だけ、悲しみを映したのを城戸は見逃さなかった。

 「あの写真、あなた置いていったでしょう? 三雲くんがね、あなたのだった部屋を使うんですって。不思議なこともあるものね」

 「・・・・そうか」

 小さくそう答えた城戸は、キリがこちらを向く頃には書類に目を落としている。彼女の瞳は好きだ。だが、今だけは目が会いたくなかった。
 キリはそのまま電気ケトルに水を入れて沸かす。ケトルが動く音だけが、部屋に響いていた。ポコポコと、水の中で泡が弾ける音が響く。もしかしたらあの子はこの音を聞いたのかもしれない。

 「・・・・おまえは、もっと違う人生が選べたはずだ」

 ふと、背中から掛けられた声にキリは振り返ることなく曖昧に笑った。左手の薬指にはめた指輪が鈍く光る。
 貰った当初は愛を誓い合った温かい証であったはずのこれは、いまは城戸とキリに絡みついて離れない曰く付きなものになってしまった。

 「選んだわよ、あなたの隣を」

 ポンッとお湯が沸いたことを知らせる軽快な音が重苦しい空気に、響いた。



 あの日のことで思い出すことと言えば、腹部に走る激痛と赤い血、それから虚無だった。
 ここにいれば、安全だと言われたその場所が仕組まれたものだと気付いた時には終わりへと転がって行った。

 激痛のあまりに気を失い、目を覚ました時には何もかも失っていた。
 命が消えた、ペッタリとした腹を見て、真っ先にキリは悲鳴をあげた。

 「・・すまない、すまなかった、キリ、すまなかった・・」

 そう言ってキリを抱きしめ震える夫の顔には深い傷が刻まれていた。

 その数日後、ふと目を覚ませば枕元に無表情な彼が立っていた。
 刹那、キリは彼が何をしようとしているのか、分かってしまった。少し前、惨劇に耐えかねた一人の少女が何もかも忘れることを望んだ一件があったからだ。

 「・・私、ずっとここにいる。あなたの、そばにいたいの」

 お願い、私からもう何も奪わないで

 城戸も奪われた側なのだと、横たわるキリの平たい腹に手を置きベッドの側にうずくまり静かに泣く彼をみて、キリもうめき声のような、くぐもった悲鳴を小さく口から漏らし泣きながら理解した。
 震える彼の手に手を重ねる。驚くほどに、それは鋼鉄のように冷たかった。

 そこから彼もキリも変わっていった。
 夫婦の間に流れる空気が変わるのも、必然だった。

 異世界同士の架け橋という意味合いを孕んだエンブレムは、そんな意味合いも上下にあった印も欠けた、現ボーダーのエンブレムが出来上がった。
 城戸は笑わなくなり、それを埋めるようにキリは無理に笑うようになった。
 それでも、夫婦を辞めてしまわなかったのは城戸がもう子を望めないであろうキリを哀れんだからなのか、女として後がないキリが城戸に縋ったからか、第三者はよく下世話な憶測を飛ばしている。

 そのあたりの話は城戸もキリも決して口を開くことはない。それは当人達の暗い秘密であり、第三者は永遠に知ることはないだろう。

 ただ、時がたつにつれ基地の無邪気な子供たちを見てもキリはもう切なげな表情をすることはなくなり、部屋にしまいこんでいた小さな衣服もベッドも少しずつ処分していったのは事実である。
 時が解決するとは思わない。ただ、時は徐々に凍てついた物を溶かしてはいた。

 「桜、」

 先にベッドに横になっていたキリが、ふと、ベッドに潜り込んできた城戸へと窓から目線をやって呟く。脈絡もない呟きに城戸は少しだけ動作を止めると面を食らったような顔をして、「それがどうした」とだけ返すとベッドに潜り込む。

 「今年も綺麗かしら・・・・知ってる?ここの屋上から、見えるのよ。桜が綺麗に咲いているのが」

 匠くんとまさくんに教えて貰ったのよ、とキリはごろりと体勢を変えてこちらを向くとにこやかに笑う。
 匠くんもまさくんも、当の本人達はそんな呼び名が似合うにはもういくばくも歳を重ねた良い大人になってしまっているのだが。
 彼らにも随分気を遣わせてしまった。死んだように生きるキリを外に連れ出してくれたのも彼らだ。大方、桜もその時に知ったのであろう。
 それは置いておき、城戸はそうか、と相槌を打つーーふと、ぐいと妻の体を引き寄せた。ふわりと、シャンプーと、キリだけが使っているリンスの香りが近付いた。

 「・・咲いたら、連れて行ってくれないか」

 「もちろん。とっても、きれい、なのよ・・」

 城戸は目を閉じていた。目を閉じるのも、体を引き寄せたのも、鼓膜を震わす妻の声がどんどん小さくなって、震えはじめる声の理由を分からないようにするためだった。

 寒い冬もやがて暖かくなり花が身を結ぶようにいつかは全てが雪解けように、あの日もこれから過ごす時間に溶けていくのであるのだろうな、とは思っている。記憶はそうして風化するものなのだ。それが良いのか悪いのかは置いておき。

 震える妻の背をあやすように撫でながら窓の外に目をやる。この前風邪を引いたキリのために部屋を温めたせいか、外気からの温度差で結露ができている。

 春は、まだ遠い。
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