器用な営業部長の場合01



 はっきり自分が下戸である、と認識したのは20歳の誕生日を迎えた年の夏だった。

 夏合宿の最後の日の晩、そう言えばお前も飲める歳になっただろう、と巻き込まれた飲み会でのことだった。誕生日が五月と早いこともあって、周りはまだ未成年(といって同級生が誰も飲酒してないか、はご察しの通りである)なので堂々と飲んだことはなかった。
 なんだか一気に大人に近付いたような気がして、勧められるまま飲んで、死んだ。わずか二杯目、そしてかなりジュースに近いサワーでだ。

 体育会系の部活だったことも災いして、学生の時の酒での失敗は上げるときりがない。そんな失敗の数々から、晴れて社会人になった時には自分の限度は知っていたし、酒を進められた時の逃れるすべもわきまえていた。だから、歳を重ねるごとに酒の失敗はなくなっていった。

 はずだった。

 「ん・・・・」

 寒さから唐沢は目を覚ます。ぼんやりとした視界に入って来たのは真っ赤な、床。どうやら自分は床で寝ていたらしい。それは寒いわけだ。ぼんやりそう思ってもう一度目を閉じてぼんやり昨日の事を思い出してみる。
 確か、昨日は取引先との会食だった。それまでは、覚えている。

 『あら、唐沢さんはお酒弱いのね』

 ふと、思い出した綺麗な黒髪とその声に慌てて体を起こす。そうだ、あの女ーー

 床で寝たのが災いして全身が軋んだが、そんなこと気にしている場合ではない。そのままおぼつかない足取りで立ち上がるとふらふらと歩き出す。見慣れないこの部屋はホテルらしい。ばっと真っ先にベッドを確認するーー綺麗に整えられたベッドは使った痕跡がない。そもそも、この部屋にいるのはどうも唐沢だけらしい。
 それが分かってしまえばこちらのものだ。きっとあの女から無事逃げきれて、適当なホテルにチェックインしたのはいいものの、そのまま部屋の入り口あたりでそのまま眠ってしまったのだろう。その証拠に、荷物と鍵が寝ていたあたりに散らばっているし、姿はスーツのままだ。
 軋むように痛い頭を抱えて携帯に手を伸ばす。着信が50件ほど。そのほとんどは帰らなかった唐沢を心配したのであろう恋人からのものだったが、残りの数件は会食のときにいた社長秘書だかなんだかわすれたが、とにかく逃げてきた女だ。思わず唐沢は舌打ちする。

 「・・あの女、嵌めようとしやがって・・」

 柄にもない悪い言葉が口から思わず零れる。危くちゃっかりお持ち帰りされるところだった。前々からなんとなく好意を寄せられているのだろうなとは思ってはいた。いつもならそれとなく遠ざけるのに、今回だけは違った。あの女が、すこしだけ恋人ーーキリに似ていたのだ。あと数年して成長すれば彼女もこんな感じに綺麗になるのだろうか、なんて会うたびに思ってしまって、なんとなく遠巻きにできなかった。 
 そんな考えを振り切るように緩慢な動きで首をふる。なんにせよ、彼女の手から、思惑からも逃げられてよかった。これで何かあってしまったら、本物の恋人に文字通り、殺される。恐る恐るメッセージアプリを開いてみる。

 最初は『今どこ? いつ帰るの?』といって恋人らしいメッセージも、時間になるにつれ『鍵、しめたから。外で凍えて寝ろ』だの、『帰ってきたら覚悟しろ』だの物騒なものに変わっており家で待つ恋人の怒りのボルテージが手に取るように分かってしまった。
 早く帰って恋人の顔を見たい気持ちと、彼女の怒りへの恐ろしさを天秤にかけて見るが半々、といったところでーーいや、正直帰りたくない気持ちの方が上のような気がしてきた。本格的に頭が痛くなってきて唐沢は目頭を押さえる。
 だいたいこうなってしまったのもあの女のせいだ、そう思うと今度は怒りがふつふつ湧いてきた。俗に言う、責任転嫁であるがこの時の唐沢はそんな自分を客観的にみる余裕などなかった。

 「さて、どうしてやろうか」

 携帯をカバンにほうり投げると大きく溜息をついた。





 「よう忍田」

 相変らずぴしりと伸ばされた背筋は忙しそうだ。せかせかする背中に林藤はそう呼びかけた。くるり、と振り向いた顔は少し疲れているようだった。

 「林藤か」

 「相変わらずいそがしそうだな」

 「ああ、いやなに、平気だ」

 そう言ってぎゅうっと目頭を押さえる忍田に林藤は苦笑いする。昔こそはそれこそ林藤も一緒になって好き放題やって城戸や最上を困らせたものだが、今やそんな忍田も林藤も困らせられる側に回った。時間の流れというものは早い物だ。

 「あんまりかつかつすんなよ。そうだ、今度飲みにいくか。唐沢さんとかも誘って」

 「唐沢さんは・・断られると思うが」

 「そうはさせねーぞ、年上命令だ」

 「一つしか変わらんだろうが」

 じろ、と隣の林藤を睨むがとうの本人はどこ吹く風でにこにこしている。

 「お、噂をすればなんとやら」

 「唐沢さんと、西条くんか」

 声をかけようと忍田は少し小走りしようとする、が林藤に肩を掴まれて思わず立ち止まった。

 「どうした」

 「いや、行かない方がーー」

 よくよく見て見ると、キリを目の前にしているのに唐沢は表情が無に近いし、キリは早口でなにかまくし立てているようだ。明らかに、二人のまとう空気は甘い物ではなかった。恋愛関係にたいしてはめっぽう疎い忍田でさえ、それはすぐにわかった。
 瞬間、キリが大きく手をふりあげ、そのまま唐沢の頬にビンタした、バチン、と大きな音に忍田はひっと小さく息をのんで林藤は自分がされたわけでもないのに頬を押さえている。

 「・・・・秘書ちゃんのフルスイング」

 「・・・・おいばかやめろ」

 「すまん思わずつい」

 キリが去ったところを見計らって、二人は唐沢に近付く。できれば近付きたくない、というのが二人の正直な気持ちだったが如何せんその通路を通らなければ会議室にはいけないのだから、できるだけ自然に唐沢に近付く。

 「唐沢さんおはよう」

 「・・・・あ、ああ。おはようございます」

 はっと我に返った唐沢は何事もなかったようにとりつくろうが、ばっちり見てしまっていた二人からすると無意味である。二人はそろってあはは、と乾いた笑い声を上げた。偶然ですねぇ、いやたまたま、なんてうまいことついてくる言葉は全部嘘なので忍田は少しだけ心が痛い。

 「そうだ、唐沢さん。今さっき忍田と飲みに行こうって話してたんですけれどよかったらどうですか?」

 「あぁ、いいですよ。なんなら今夜にでも」

 てっきり断られると思っていた忍田と林藤は唐沢の承諾に思わずびっくりした。

 「あ、じゃあ、今日、行きましょうか」

 むしろ誘った林藤のほうがタジタジである。

 「では、お先に失礼しますね」

 そう言って去っていく唐沢の背中を見、林藤と忍田は顔を見合わせる。誘っておいてなんだが、今日ばっかりはまずかったのかもしれない。そう後悔するころにはもう、遅かった。


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