不器用少女の場合01
キリはいつも頬を膨らませている。そういう時はだいたい照れているのだという事を米屋と出水は知っている。口ではばっかじゃないの! だとか、くたばれ! とか言いつつも本当はそう思っていないのを知っている。
だから、知らなかったのだ。彼女が心底怒った時にどんな顔をするかなんて。
ツカツカツカ、と荒々しいヒールの音が聞こえてきてに出水と米屋は目を合わせた。本部でヒールを履く女性は数多いる。だがこんな音を響かせながら歩くのは、怒った時のキリ以外に存在しないだろう。
きっとおおかた太刀川や諏訪が彼女にちょっかいだしたか、城戸にたいして唐沢への業務の振り方の荒さにご立腹だとか、はたまたその唐沢にちょっかい出されたかだろう。この後その鬱憤がこちらに向くのは分かっているので、あらかじめこちらから話を振って手なずけてやろうと振り向いてーー固まる。後ろにいたキリの表情が、あまりに無に近かったからだ。
「よ、よう!」
「お前機嫌悪いな〜」
予想外の展開に二人してあっはっは、と乾いた笑い声を上げてお互いを縋るように見る。どうにかしろよ、いや知らねぇよ無理だ、と視線だけの会話を繰り広げるも、もちろん答えが出るはずもなく。
「・・通りたいんだけど?」
「お、おう!悪かったな!」
「じゃあな」
ぱかっと慌てて二人は両端に捌けるとキリを通す。ツカツカツカ、と去っていく足音を聞きながら、こんな感じの神話あったなぁなんて米屋はぼんやり思った。ちなみにこの神話は海を割ったモーゼの話であるが、もちろんモーゼは怒りから海を割った訳ではない。
「・・なんだあれ」
やっと絞り出した、というような出水の声に米屋は首を横に振った。
「さあ?」
一言で言えば、虫の居所が悪かった。
月に一度のアレのせいで体調は怠い、頭がガンガンするしでイライラ要素はこれでもかというほどにあったのは、とりあえずおいといて。
だいたい、恋人が朝帰りしてきたと思えば女物の香水を漂わせていたら不信に思わない人がいるだろうか? それともあの余裕面のヘビースモーカー(だった。最近はあんまり吸わなくなった)が、どうせキリがそんなことにさえも気付かないとでも思っていたのだろうか? 考えるだけでも腹は立つ。
「・・ちょっと、なんかいう事はないの?」
そんなくそったれの恋人ーー唐沢克己が家を出ようとしたところを玄関先で捕まえる。ご丁寧にも香水もあせも全て風呂で落とし、さっぱりした唐沢はそんなキリを見据えた。どこまでも冷たい瞳に、余計腹が立った。どう見ても、真っ黒なわけで、なんなら立場的には悪い方であるコイツがどうしてそんな顔をするのか。負けじとキリも睨み返す。先に目をそらしたのは唐沢だった。
「特にないな。どいてくれ、急がないと取引先との約束に間に合わない」
「そうね、どこぞの女の家かは知らないけれど、どっかから朝帰りなんて無茶なことするからでしょ。自業自得だわ」
「どいてくれ」
「説明するまで、どかない」
「いい加減にしろ!」
珍しい唐沢の怒鳴り声に思わずキリはびくっと体を震わせた。そんなキリにバツが悪そうに唐沢は目をそらしたのちに、キリを追いやってそそくさと部屋を後にした。ドアの閉まる音がやけに響いたーーこれが、今朝の話である。
まあ、帰宅する頃にはキリか唐沢のどちらかが折れて(だいたい唐沢が折れる)仲直りするのがいつもの二人の喧嘩のテンプレであったのだが、今回ばかりはそうはいかなかった。これだけでは済まなかったのだ。
ヒリヒリする自分の右の手のひらを見やる。痛みとともにじわじわ後悔が湧いてきてーーかといって今から戻って謝ることはプライドが邪魔をして足を一向に動かさない。結局、キリはそのまま居候しているマンションへの一室へと向かった。
唐沢さんの機嫌が悪い。
昼休みをはさんだ後の会議で彼を見た時、なんとなくそう思った。もとより読みにくい人なのでなんとも言えないのだが、今日はその機嫌の悪さは顕著に出ていた。その確固たる証拠を一つ上げるのならば、煙草を吸っていることだろうか。
前々から筋金入りのヘビースモーカーで、よく林藤なんかと一緒に喫煙室にいるのをよく見ていた。しかし、そんな喫煙室の常連客だった彼も最近はぱったりそこにいることはなくなった。この前たまたま会議室へ向かうべくエレベーターにて唐沢とばったり出くわした時にそれとなく聞けば、
「どうも、彼女が煙たがるのでね。口では大丈夫だとか言ってますけれど、どうせ強がりでしょう」
なんてからから笑ってたのが記憶に新しい。もちろん、彼女が誰なのかは言わずもがなーーキリのことである。
まあそれでなぜ煙草を吸うと機嫌が悪いと分かるのかというと、だいたい今まで二人が喧嘩した日に限って唐沢が喫煙しているからだ。辞めたとはいえ、好みがすぐにかわるわけではないし、一種のストレス解消方法なんだろう。
今回も唐沢さんが折れるんだろうな、と同じく察しがついた林藤と談笑したのが今日の午後の会議の事ーーが。
「っ、響子ちゃん、」
業務を全て終えてマンションの自分の一室へと帰れば、玄関先にいたのは大きなスーツケースの隣に座り込むキリだった。
だから、知らなかったのだ。彼女が心底怒った時にどんな顔をするかなんて。
ツカツカツカ、と荒々しいヒールの音が聞こえてきてに出水と米屋は目を合わせた。本部でヒールを履く女性は数多いる。だがこんな音を響かせながら歩くのは、怒った時のキリ以外に存在しないだろう。
きっとおおかた太刀川や諏訪が彼女にちょっかいだしたか、城戸にたいして唐沢への業務の振り方の荒さにご立腹だとか、はたまたその唐沢にちょっかい出されたかだろう。この後その鬱憤がこちらに向くのは分かっているので、あらかじめこちらから話を振って手なずけてやろうと振り向いてーー固まる。後ろにいたキリの表情が、あまりに無に近かったからだ。
「よ、よう!」
「お前機嫌悪いな〜」
予想外の展開に二人してあっはっは、と乾いた笑い声を上げてお互いを縋るように見る。どうにかしろよ、いや知らねぇよ無理だ、と視線だけの会話を繰り広げるも、もちろん答えが出るはずもなく。
「・・通りたいんだけど?」
「お、おう!悪かったな!」
「じゃあな」
ぱかっと慌てて二人は両端に捌けるとキリを通す。ツカツカツカ、と去っていく足音を聞きながら、こんな感じの神話あったなぁなんて米屋はぼんやり思った。ちなみにこの神話は海を割ったモーゼの話であるが、もちろんモーゼは怒りから海を割った訳ではない。
「・・なんだあれ」
やっと絞り出した、というような出水の声に米屋は首を横に振った。
「さあ?」
一言で言えば、虫の居所が悪かった。
月に一度のアレのせいで体調は怠い、頭がガンガンするしでイライラ要素はこれでもかというほどにあったのは、とりあえずおいといて。
だいたい、恋人が朝帰りしてきたと思えば女物の香水を漂わせていたら不信に思わない人がいるだろうか? それともあの余裕面のヘビースモーカー(だった。最近はあんまり吸わなくなった)が、どうせキリがそんなことにさえも気付かないとでも思っていたのだろうか? 考えるだけでも腹は立つ。
「・・ちょっと、なんかいう事はないの?」
そんなくそったれの恋人ーー唐沢克己が家を出ようとしたところを玄関先で捕まえる。ご丁寧にも香水もあせも全て風呂で落とし、さっぱりした唐沢はそんなキリを見据えた。どこまでも冷たい瞳に、余計腹が立った。どう見ても、真っ黒なわけで、なんなら立場的には悪い方であるコイツがどうしてそんな顔をするのか。負けじとキリも睨み返す。先に目をそらしたのは唐沢だった。
「特にないな。どいてくれ、急がないと取引先との約束に間に合わない」
「そうね、どこぞの女の家かは知らないけれど、どっかから朝帰りなんて無茶なことするからでしょ。自業自得だわ」
「どいてくれ」
「説明するまで、どかない」
「いい加減にしろ!」
珍しい唐沢の怒鳴り声に思わずキリはびくっと体を震わせた。そんなキリにバツが悪そうに唐沢は目をそらしたのちに、キリを追いやってそそくさと部屋を後にした。ドアの閉まる音がやけに響いたーーこれが、今朝の話である。
まあ、帰宅する頃にはキリか唐沢のどちらかが折れて(だいたい唐沢が折れる)仲直りするのがいつもの二人の喧嘩のテンプレであったのだが、今回ばかりはそうはいかなかった。これだけでは済まなかったのだ。
ヒリヒリする自分の右の手のひらを見やる。痛みとともにじわじわ後悔が湧いてきてーーかといって今から戻って謝ることはプライドが邪魔をして足を一向に動かさない。結局、キリはそのまま居候しているマンションへの一室へと向かった。
唐沢さんの機嫌が悪い。
昼休みをはさんだ後の会議で彼を見た時、なんとなくそう思った。もとより読みにくい人なのでなんとも言えないのだが、今日はその機嫌の悪さは顕著に出ていた。その確固たる証拠を一つ上げるのならば、煙草を吸っていることだろうか。
前々から筋金入りのヘビースモーカーで、よく林藤なんかと一緒に喫煙室にいるのをよく見ていた。しかし、そんな喫煙室の常連客だった彼も最近はぱったりそこにいることはなくなった。この前たまたま会議室へ向かうべくエレベーターにて唐沢とばったり出くわした時にそれとなく聞けば、
「どうも、彼女が煙たがるのでね。口では大丈夫だとか言ってますけれど、どうせ強がりでしょう」
なんてからから笑ってたのが記憶に新しい。もちろん、彼女が誰なのかは言わずもがなーーキリのことである。
まあそれでなぜ煙草を吸うと機嫌が悪いと分かるのかというと、だいたい今まで二人が喧嘩した日に限って唐沢が喫煙しているからだ。辞めたとはいえ、好みがすぐにかわるわけではないし、一種のストレス解消方法なんだろう。
今回も唐沢さんが折れるんだろうな、と同じく察しがついた林藤と談笑したのが今日の午後の会議の事ーーが。
「っ、響子ちゃん、」
業務を全て終えてマンションの自分の一室へと帰れば、玄関先にいたのは大きなスーツケースの隣に座り込むキリだった。