永遠に終わらない物語のなかで眠れ



 *忍田さんが徹底的に病んでます、注意



 本部の医療室にほど近いそこは、異様な雰囲気をまとっている。不気味だというわけではない。ただ、まとう空気が他の場所と別段違う気がする。もっともあやふやで、白い廊下も壁の跳ね返す電光のあかりのせいで少し視界がふわふわする。
 そんな場所の一角に、忍田の目的があった。もう幾度となく歩くその道を通って大きな扉の前に立つ。
 こつこつと遠慮がちに扉を叩いてからしまった、と思った。腕につけた時計はもうすでに夜遅いことを指していたからだ。もう、彼女は寝ているかもしれない。

 「どうぞ」

 しかし、そんなことは杞憂だったようで扉の向こうから聞こえてきた柔らかい声に忍田は思わず頬を綻ばせるとトリガーを使って部屋に入る。脇に抱えた本を、持ち直して。

 「すまない、遅くなってしまった」

 廊下に負けないくらいに無機質で白くて眩しいその部屋の中央に、彼女はいた。大きなベッドのうえで上半身を起こしていた彼女は忍田をみるなりふわりと笑った。

 「ううん。気にしてないの。真史さんに会えるだけで十分」

 部屋の隅に置いていた椅子を一脚、ベッドのわきへと運んでくると腰かけ、彼女ーーキリの手をとる。ひんやりとしていて肉の少ないその手をぎゅっと握り締める。
 彼女は、とある任務である日重傷を負って帰ってきた。命をつなぎとめた代わりに得たものといえば、いくつもの管でつながれてベッドから一歩たりとも動けない生活だった。

 その性格故に慕われていたことが幸いして、最初は毎日本部中の誰かがこの部屋に来ては彼女を見にきていたが今ではそれも忍田一人となってしまった。自分の左の薬指と全く同じ指輪をはめた彼女の左手をそっと包み込む。とくとく、と伝わる脈は彼女が生きている事を証明していて、泣きたくなった。
 一緒に過ごしたいだとか、子供をさずかりたいだとか世間一般の夫婦の間にあるありふれた幸せはいらなかった。ただ、生きていてくれるだけで十分だった。

 「・・真史さん、」

 何も言わない忍田にどう思ったのか、不安そうなキリの声が降って来て慌てて忍田は顔を上げる。ここにくるとついつい悪い事ばかり考えてしまうーーそうだ、彼女はまだ、生きている。

 「なんでもないよ。もう横になるといい、体に良い」

 キリの頬を撫でてそっと寝かせるとそうだ、と持ってきた本を取り出すとキリにも見えるようにベッドの上で広げる。だいぶ色の褪せたその本は少しだけ古めかしい紙の匂いがした。
 キリはずっと本が好きだった。お世辞にも文学の分野が得意とは言えない忍田がこうして毎日どこからか本を借りてきて、彼女に読み聞かせるのも、少しでも彼女に寂しい思いをさせたくなかったーーなんてのは建前で、物語を聞く彼女の顔がなんとも楽しそうだからだ。

 「今日は何の話を読んでくれるの?」

 聞こえてきた楽しそうな声音に忍田は思わず笑った。こうやって単純なのはむかしっからだ。

 「今日はーー」

 真夜中とは思えない白い部屋には、キリの命をつなぎとめる無機質な機械音と忍田の声だけが響いていた。




 「死の定義って分かるかるか?」

 唐突に投げられた隣の林藤の疑問に沢村は我に返った。いいえ、と短く返す。

 なぜこの二人がここにいるのかというと、いつも何故か仕事を終えた上司が毎日違う本を抱えてきまってどこかへと向かう事を疑問に沢村が思ったからだった。こっそり忍田の後をつけていたところを林藤に目撃されてしまったのである。

 「えっと・・気になってて。いつも本部長はどこに行かれるのかなって」

 そんな沢村の疑問に林藤はふ、と笑った。とても切なくて、辛そうな顔だった。

 「じゃあ、一緒についていってみようか。きっと、後悔するよ」

 結局忍田が足しげく通うこの場所を特定できたものの、なぜ通うのかーーそしてなぜ、林藤はそんな事を言ったのかが分からなくてただただ考える。そんな沢村をしり目に林藤は続けた。

 「・・難しいよな、俺にもさっぱり分からない」

 「へぇ・・?」

 かみ合わない会話に首を傾げていれば、不意に扉が開く音。沢村は慌てて林藤と物陰に身を隠す。悪い事をしているという自覚があるというわけではない、ただ、直感的にそうした方がいいと思ったのだ。

 「もうだめだ。続きは明日また話してやるから。もう寝なさい、キリ」

 初めて聞く名前にドキリとする。隊員名簿にも、職員名簿にもない名前だった。なによりも、あんなにも忍田が柔らかく笑うのを見たのは初めてだった。

 「分かったよ、おやすみ。キリ」

 こつこつと規則的な足音が遠のいて完全に聞こえなくなるまで待つと、そろそろと沢村は物陰から出ると、扉に近付く。

 「キリさんって誰ですか・・?ここに、だれかいるんですか?」

 「開けりゃ、分かるよ」

 核心をつかない林藤にしびれを切らしたのと、好奇心にまけたのとーーとにかく、沢村はトリガーをかざして部屋を開ける。こんなに厳重に守られた部屋にいる人物を見て見たかった。

 真っ先に視界に入って来たのは、色んな機械だった。というか、それ以外に部屋には何もないーー機械に囲まれるベッドを除いて。
 ゆっくりベッドに近付いて思わず息をのむ。そこには、静かに眠る女がいた。

 「こいつは忍田キリ」

 「忍田って、」

 いくつも管のついた細い腕をたどって左手の薬指を見れば、シンプルな指輪が鈍く光っていた。

 「響子ちゃんがここに来る少し前にな、戦闘員だったやつなんだ。ある任務で大怪我して、それ以来ずっとこうして何年も眠ったまま起きねぇんだ、一度も」

 絶句する沢村を見つつ林藤は続ける。

 「最初は誰もがこんなの一時期だ、すぐ起きるってここに来たけれどな、時間が過ぎるうちに誰もこなくなっちまった。俺も、その一人なんだけどな」

 ちょっと苦笑いして林藤はベッド脇に腰掛けるとキリの頭を撫でた。髪の毛だけが、唯一生きているようにさらさらと動く。

 「いわゆる脳死ってやつらしい。脳の全機能はとまっちまっているらしいんだが心臓は自力で動いているらしいんだ」

 「じゃあ、じゃあ忍田さんは誰と、」

 話していたんですか?

 瞬間、あの幸せそうにおやすみと言っていた上司の笑顔がよぎってその疑問は言葉になることもなく消えた。

 「これが答えだよ、響子ちゃん」

 その言葉に沢村は何も返せない。ただ、根が生えたかのようにそこに突っ立っているだけだった。部屋には、彼女の命を繋ぎとめようとする機械の音と忍田の思いで満ちていた。

 きっと明日も明後日も、彼は毎日ここへ来るのだろう。彼が何を思っていて、ましてや何が見えているのかさえ分からない。
 ただ唯一彼女の生を表しているその心臓さえもが止まり彼女が本当に死を迎えた時、彼には一体なにが見えるのだろうかと、呆然と考える。

 ただ一つはっきりわかることと言えば、おそらく忍田は明日もここへ通い、眠るキリに語り掛けるのだろうということだけだった。それは幸福に似た、虚無だったーー細くこの部屋のように白いキリの指にはめられた指輪はただただ静かに光をたたえている。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -