遠いあの日は消えて
思い返せば、そういうサインはいっぱいあった。それは、いつも飲んでいる紅茶を飲まなくなっただとか、目障りなほどに匡貴、匡貴、とついて回らなくなったとか。
でも、あの日の自分はそんな些細な事に見て見ぬふりをした。そんな当たり前のように訪れるこんな日常は、当たり前のように毎日やってくるだろうなんて、思っていた。
そして、キリは本部に顔をあまり出さなくなり、そんな日常はゆっくりと、だが確実に死んでいった。
決定打だけははっきり覚えてる。そう、確かあれはよくよく晴れていたあの日だったか。
「匡貴、あのね」
いつもより透き通っていて決意を秘めた、そんな声だった。
そんなことに気付けなかった自分は、なんだといつも通りに気だるげに振り向く。キリは少し逡巡して、笑った。恐ろしいほどに綺麗な、それでいて空っぽな笑みだった。
「ううん、なんでもないの」
キリがボーダーを辞めたとを聞いたのは次の日だった。
「なんでも、辞めるにあたって記憶を消してくれって言ったらしい。じゃないとボーダーの内部情報をばらすぞって城戸さんに脅しをかけたんだと」
射手としての戦い方を教えてやったあの日も、訓練に付き合ってやったあの日も、緊急任務でこっそり講義を抜け出したあの日も、のんびりラウンジで過ごしたあの日もーーお前は、いらないというのか。お前は一体何をしたいんだ、何が欲しい?
しばらくたって、大学のラウンジで彼女を見つけた時、全ての憤りをぶつけてやろうと近付いてーー気付いた。そこは、決まってキリと二宮がテスト前勉強したり、一緒に過ごしていた席だった。
もしかしたら、と近付いて座る。いつも通りに。
「え、えーっと・・四宮くん、だっけ」
帰って来たのは、そんな一言だった。
今までの全てをいらないと自ら捨てた癖に、お前はなんなんだ、そこまで考えてふと気付く。そう言えば、今まで、キリの言葉をちゃんと正面から聞いてやったことがなかった。
あの日、ちゃんと彼女に向き合ってやれていれば? 無理にでも言葉の続きを促して、聞いてやっていれば?
「二宮」
ふと名前を呼ばれて顔を上げる。あの時とは、違う声音で違う呼び方。けれど、見た先にある柔らかい笑みは全く変わらなくて。
「・・なんだ」
「いいや、すっごい眉間にシワ寄ってたから。もったいないよ、きれいな顔してんのに」
『匡貴、もったいないよ。せっかくきれいな顔してんのに』
二宮はすっと息を吸うとパソコンを閉じた。キリの手元にはあの、いつもの紅茶。傍にあったガムシロップは二つ、ミルクは一つ渡してやる。
「余計なお世話だ」
今更遅いかもしれない、いや遅いと思う。でもあの日、あの時、彼女は何を思っていて、何を言いたかったのか。それが知りたい。
「そうそう、あのね、今日ね、」
だから、真っ直ぐ彼女を見て、彼女の言葉に耳を傾けるーー遠い、あの日に想いをはせながら。