Obligato
嘘をつきました。大きな、大きな嘘でした。
あそこで正直に言えば、私は君を傷付けずに済んだのでしょうか。
「あ、京介くん」
キリは見慣れた背中を見つけて思わず呼び止めようとする前に、作業着のポケットを漁る。
壊れた部品、使いかけの接着剤、使い古されたドライバーなど、到底世の女のポケットから出てくることはないだろうそれらの中に、なけなしの女らしさでもある小さなコンパクトミラーを取り出してちょっと自分の顔を見てみる。
結局あの後もやれあれしろだのこれしろだの、散々こき使われてたせいで目の下にははっきりとしたクマができていた。クマは今更どうしようもない、と諦めつつ頬にこびりついていた黒い油脂のようなものをごしごしふき取る。
「京介くん」
やっとかろうじて人に見せられる顔にしてから、その背中に呼びかけた。
「・・キリ」
そう言って優しく笑うとその場にとまってキリを待ってくれる。
キリはちょっとだけ嬉しくなって小走りで駆け寄った。
烏丸とは、付き合い始めてかれこれ一か月が経とうとしていた。烏丸はバイトに学業、キリもエンジニア見習いと並行して学業、とお互いに忙しいので恋人らしいことはあまりできていない。と言うより、キリはなんだか距離を感じていた。
烏丸は優しい。キリを優先してくれるし、いつも気にかけてくれる。たまに二人で出かけることもある。
ただ、烏丸はある一定の距離を取っている気がするのだ。
友人にそれを言えば、気のせいだ、これ以上彼に何かを望むのならそれはお前の高望みしすぎだ、と笑い飛ばされたのだが、どうしようもなく感じてしまうその距離はまるで見えない壁の様に烏丸とキリの間にあってそれに触れたら最後、曖昧な今の関係は硝子細工が壊れていく様にガラガラ崩れていってしまうーーそんな、気がするのだ。
「京介くんがこっちにくるの珍しいね!」
「・・お前、忘れたのか?」
「・・・・へ?」
烏丸は少し呆れたような顔をして、溜息をつく。
「言っただろ、迎えに行くって。お前、ここでもう一泊するつもりか?」
「えっ! あ、そうだった!」
キリは急いで携帯の電源を入れて手帳のアプリを開いて慌てる。そうだ、今日は泊まり込みだったキリを烏丸が迎えに来てくれる約束だった。
「俺は別に構わない・・というか、キリがそうしたいなら止めないけどレイジさんにまた怒られるぞ」
「う〜・・そうだった〜・・! ごめんね、お願いしてたクセして忘れるとか・・!」
「別にいいよ。いくらでも待つから荷物まとめてこい。送ってく」
そう言って、ふんわり笑う烏丸にキリは頬に熱が集まる。ただでさえ整った顔なのに、反則だ。
「ありがとう! ちょっと待ってて! すぐ持ってくる!」
でも、どうしてもその瞳はキリを見ていない気がしてしょうがなかった。
「これで全部か?」
「うん。まあ、今回はそんなに長く泊まりじゃなかったから」
必要最低限の着替えと、もちろん学校にはその間も行かなければならないので制服、洗面用具がぎゅっとつまった大きなカバン一つを持ってくれば、特に何も言わずに烏丸はそう言ってひょいとそのカバンを持ってくれた。
迎えに来てもらっている上に荷物持を持たせて送ってもらうのはとても図々しい気がするが、以前そう言えば、
「こっちが好きでやってるんだよ」
と軽くあしらわれて終わってしまったので、ここは素直に甘えておく。
他愛のない話をしていれば、見慣れた我が家が見えてきた。
「ありがとう。もう大丈夫だよ、京介くん確か明日、朝イチで防衛任務でしょ?」
「知ってたのか」
「うん。レイ兄から聞いた」
そうか、と笑ったその顔にまた言いようのない壁を感じた。まるで、目の前のキリではなく、違う誰かに向けたようなーーそんな、笑顔。
「・・・・ねえ、京介くん」
「?」
私を、見てますか。あなたのその笑顔の先は、私で合っていますか?
のど元までせりあがったその一言は、言葉になることはなかった。代わりに、キリは笑ってみせる。
「ううん。なんでもないの。おやすみなさい」
「? おやすみ」
きょとん、とする烏丸にさっさと背を向けて歩き出す。
気のせいでも、気のせいでなくても、烏丸が優しくしてくれて隣にいてくれるだけでいいじゃないか。欲張りは、いけない。
そう、自分に言い聞かせながら。