Requiem
「あー、くそ・・」
息を整えて、階段の手すりを掴むと烏丸は思わず悪態をつく。しょうがない、今まで散々目を背けてきたことへのバチなのだから。むしろこれくらいで済むのならば幸せだろう。
烏丸はふう、と息を整えると屋上目がけて階段を走って登っていった。
時は少し遡って二時間前。
バイトの入っていない日なので、午前中のうちにやることをやって家を出る。途中で花を買うと三門病院へと続く道を歩く。
今日もまだ彼女が生きていることに喜び、自分が彼女に何もしてやれなかったことを悔やむのだろう。
もしも神様が存在するのならばどうかキリの目を覚まさせてほしい、だなんて柄にもないことを考えながら病院に入るーーその時だった。
何気なく進む方向と別の廊下を見れば、ずっと待ち望んでいた人ーーキリが、いた。思わず抱えていた花束を落とす。まさか、そんな。いや、キリじゃないかもしれない。
外を眺める顔、風でなびく黒い髪、全てに目を奪われてぼうっと見惚れていれば、視線に気付いたらしいキリと思われる人物は、烏丸を見、くるりと背中を向けて走り去ってしまった。
ほんの数秒の出来事がまるでスローモーションで過ぎ、彼女が走り去った方向から、「院内では走らないでください」と言った看護婦の声で我に返る。
「落としましたよ?」
「・・え? あ、はい・・・・いや、良いです。差し上げます」
呆然とする烏丸の足元に転がる花束を親切にも拾ってくれた人に烏丸は半ば花束を押し付ける。
「・・・・もう、いらないんで」
それから真っ先に病室に行けば、やはりベッドはもぬけの殻で。彼女が目を覚ました喜びと、目があった瞬間に逃げられたことのショックがない交ぜになって深く溜息をつく。
覚悟はしていた。あの時、何も言えずに終わってしまったのだから、目を覚ましたキリがいつものように笑って隣に戻ってくるーーなんて虫のいいようにならないことも。
逃げられても、拒絶されても、もう自分は逃げないと誓った。
今まで逃げていた自分にずっとキリが優しく追いかけてくれたように、今度は追いかけるのは烏丸の番だ。もう後悔はしたくない、目をそむけやしない。
烏丸は病室を出ると、キリを捜して病棟を歩き回るのだった。
思わず、逃げてしまった。
キリは逃げるように屋上まで来ると、息を整える。傍にあったベンチに座ると空を見上げた。からりと晴れた空は雲一つなくて、眩しくてーーキリは思わず目を細めた。
目を覚ました時、たまたま看護婦が隣にいた。
「おはようございます、西条さん」
大丈夫ですか? と優しく聞かれてキリはうなずく。てっきり、自分は死んだものだと思ってたーーふとベッドわきに花が飾られているのに気付く。
看護婦はそんなキリに少し笑って言った。
「羨ましいです」
「・・・・は?」
「彼氏さん。毎週必ず来てくれるんですよ、お花もって」
きっとあの世話焼きの幼馴染だろうと思ってキリは苦笑いする。また、迷惑をかけてしまった。
「大きい人でしょう? あれは幼馴染です」
「? あぁ、その人も良く来てくれるけれど、黒髪のイケメンな子」
あら、兄弟?なんて首を傾げる看護婦の言葉にキリは絶句した。
「あなたをここまで運んできたのも彼なのよ。お願いですから助けてくださいって、すっごく切羽詰まってたしてっきり彼氏さんなのかなって。たぶん、いつも通りなら今日来てくれると思うけれど」
それを聞いたらどうしようもなくなって、逃げるように病室を飛び出した。会っても、何を言えばいいか分からなかった。でも、それが災いして烏丸と目があいーー今に至る。
意識がない時、おぼろげに覚えているのはいつも温かくキリの手を包み込んでくれていた優しい手だった。もしもそれが烏丸ならーーそう考えると、嬉しくて、でも同時に怖くて、キリはどうしようもなくなってしまうのだ。
「・・・・わけが、分からないよ」
「・・・・何が」
思わず零れた言葉に帰ってきたその声は今、世界で一番聞きたくて、でも聞きたくもない声だった。
ばっと振り向けば、肩で息をする烏丸がいた。ぐい、と乱雑に服の袖で汗をぬぐうと烏丸はキリの前に立ったーーと、思う。キリはどうしても彼の顔が上手く見れなくて座った自分の膝に視線を落としていた。
ひゅう、と吹く風の音と外の音だけが響く空間に、先に言葉を発したのは烏丸だった。
「・・・・昔目の前で殺された幼馴染、」
「・・・・知ってる、知ってるよ。私がその人に似てて、京介くんが私とその子を重ねてるのも、全部全部知ってるよ」
自分でも分かるくらいに声は震えていて、頼り気がない。ぎゅっと目をつむって次の言葉を待つ。
「・・・・進むのが、怖かった」
しゃがんだのか、すっと伸びてきた手がキリの手を包む。記憶におぼろげにある、あの手と全く同じで温かい。今まで、とっても烏丸の手は冷たかったのに。
「進むことでアイツを忘れることが怖かった。・・・・忘れて、自分だけが普通に生きるって考えるだけで怖かった。人の死ってそんなもんでいいのかよって」
ここで一拍置く。キリはただ、視界に映る自分の手と烏丸の手を見つめていた。
「・・・・確かに、キリはアイツに似てるし、重ねてた。もしかしたらあんなことなかったんじゃないかって、やり直せるんじゃないかって。・・・・それでキリが傷つくのも、多分分かってたと思う」
でも、と続ける。
「キリと過ごして、忘れることと前に進むことが違うって気付いたんだ、だからもう前に進みたい・・・・・・あの金曜日から進んで、キリの隣にいたい」
「・・・・なにそれ、」
ぎゅっと力が込められて、キリは恐る恐る顔をあげる。とっくに視界は涙で滲んでいてはっきり見えやしないのに、視界の先にある烏丸の顔が穏やかに笑っているのも、まっすぐキリだけを見ているのも分かって。
「もう一度、チャンスをください」
そっと手を離されて、大きな手は頬に伸びてきた。
「・・・・好きです。他の誰でもなく、キリが、好きだ」
ずっとずっと欲しかった言葉に、どういえばいいのか分からなくて、嬉しくてーーキリはただぽろぽろ涙を流す。
「っ、きょうすけくん、」
「・・・・なんだ」
添えられた手が優しく涙を拭う。触れられたところから、まるで水面の波紋の様にゆっくり熱は広がっていく。
「好き、私も、好き。・・でも、ちゃんと私をみてくれなきゃ、やだ・・!」
「っ、ごめん。ごめん、キリ」
ぐい、と引っ張られて気付けば烏丸の腕の中にいた。痛いくらいに抱きしめられて、それさえもうれしくて、キリはわんわん泣き出した。こんなにも、人とは温かい物だったのか。
「・・キリ」
ちょっとだけ体を離すと、まっすぐ烏丸はキリを見つめた。切れ長の瞳に映るのは、キリだけーー恥ずかしくて、慌てて目を閉じれば唇に柔らかくて温かい物が優しく押し当てられた。
やがて、名残惜しそうに離れた熱につられて目をあけるとこの上なく優しく笑う烏丸と目が合う。
すき、そう言おうとした唇は、また優しく塞がれた。