Capriccio
最初は些細な事からだった。
こちらが笑えば彼女も笑って、からかえば顔を真っ赤にして怒って、照れて。まるで化学反応の様に、烏丸の言動一つ一つに怒ったり笑ったりする彼女の表情はまるで水面が揺れるようにゆっくりゆっくり心に広がっていく。そして、確実に彼女ーーキリに惹かれていった。
苦しいんだって言ったらお前は笑うだろうか。
その伝わる感情一つ一つが嬉しくて、愛おしいーーなんて感じてしまう。
そうしてそんな彼女に惹かれて前に進もうとすれば、必ず頭に響くのはあの無機質なボタンの音と、幾度となく聞いたあの言葉。
結局臆病なままの自分は、またそこで足を止めてしまうのだ。
「まだ、あの金曜日にいるの?」
そう言ってまっすぐこちらを見るキリの視線から逃げたくて思わず顔をそらす。
「京介くん」
その声は恐ろしく優しくて、なだめるような声音だった。いつもなら心地よく響くその声も今は、とても恐ろしい。
キリは、もう全て知っている。真っ直ぐこちらを見る瞳がそう物語っていた。
ここから、どうすればいい?
全て打ち明けて、キリに謝ってーーそこから?
きっとキリは離れて行ってしまうんだろう。彼女を忘れる勇気も、かといって忘れないままキリの元へと行って彼女にまた幼馴染を重ねてしまって、傷つけない自信も何一つなかった。
何も言えない烏丸に、キリはそっと呟く。
「・・私ね、怒ってないよ。なんとなく、京介くんが私を見てないってことは分かってたから」
今まで聞いた中で、一番弱弱しい声だった。同時に、悲痛に満ちていた声でもあった。
キリ。違う、全くお前を見てないわけじゃないーーそんな言葉は、キリの顔をみるなり消え失せた。
苦しそうな、それでいて優しい顔だった。
「でもね、私が京介くんが好きなのは変わらないから。馬鹿だって笑われちゃうかもしれないけれど、助けたいって、思ったの」
何も言えなくて立ち尽くす烏丸に、キリは卓上カレンダーを元の位置に戻すと自分のカバンを拾い上げる。
そういえば、今日は勉強会という名目だったのにキリのカバンには参考書の一冊も入ってなかった。
「今日は、帰るね」
そのまま通り過ぎるキリに、烏丸は結局何も言えなかった。
最後まで、平静を保ってられただろうか。顔には、出てなかっただろうか。
キリは、烏丸が追いかけてこないことを確認すると革靴を履いてそのまま家を後にする。
「〜っ、」
烏丸は何も言わなかった。肯定もしなかったが、否定もしなかった。ただ、一つ分かったのは始終苦しそうな顔をしていたという事だけ。
助けたい、なんて豪語しておいて誰よりも烏丸を傷つけているのは紛れもない、キリだった。
ぼろぼろとあふれ出てきた涙を乱暴に擦って本部へと向かう。
どうすれば正解なのかもわからなかった。
もしも、あの時ーー最初に違和感を感じた時に烏丸に言っていれば? 見て見ぬふりなんかしないでもっと早くに彼に無理にでも聞いていれば? もしも、もしもーー
考えても仕方のないたられば話だけが頭の中を支配してぐるぐる回って。
本部へと通じる入り口の前まで来るとカバンを開けて、扉を開くためにトリガーを探す。
「・・・・あれ?」
確かに入れていたはずのトリガーは、何度カバンをまさぐっても見当たらない。泣きっ面に蜂とはこのことだった。
家を出るときは入っていたーーつまり、トリガーを置いてきた場所はただ一つ、烏丸の部屋だ。
再び戻る勇気もなくて、しばらく呆然としていればいつもの聞き慣れたサイレンが響いて、あたりが暗くなるーーいや、違う。
キリは恐る恐る上を向く。異次元から侵入せんとしている大きな白い化け物が、真っ直ぐキリを見つめていた。
あぁ、死ぬのかな。
この前襲われた時は、とてつもなく恐ろしかった事は覚えているのに、今はなんとも思わなかった。むしろ、烏丸の部屋にいた時よりも平静だった。
だから、きっと聞き間違いなのだ。
視界が真っ暗になるその刹那、あなたが私の名前を叫んだ声が聞こえたなんて。