いっそ泡になってしまえたら



 ばち、と勢いの良い音が静かな部屋に響いた。

 ひりひりする自分の手、赤くなった頬に少し触れて呆然とする二宮。二宮に対して拒否反応が出たのはこれが初めてだった。

 やってしまった、と即座に思った。ずっとずっと崩さないようにしてきた均衡を、自分から崩してしまった。

 「・・キリ」

 つらそうな声に我に返り、ゆらゆらと揺れる瞳と視線が絡む。拒絶してしまった。ずっとずっとこんな自分に優しくしてくれて、愛してくれる唯一の、なによりも大事な人を拒絶してしまった。それはキリをどん底に落とすには充分だった。

 まるで自分の周りだけ空気が薄くなったように上手く息ができなくなる。全てを拒否するようにぎゅっと目を瞑った。どうしよう、どうしようーー
 震える足をなんとか動かして、キリはろくに着こまないで裸足のままばっと部屋を飛び出した。追いかけてくる足音も、なかった。
 あてなどなかった。キリの唯一の居場所は二宮の隣で、それはたった今自分から消してしまった。

 『二宮さん、キリの秘密に気付いているかもね』

 少し前に、犬飼がそう言った一言が頭に響く。もう戻れない。これから二宮はきっと全てを知るのだろう。何よりも汚いキリの過去も、キリが犯した罪も。

 冷たい雨が体温さえ奪い、裸足のせいで刺さる小石に足の感覚がなくなっていく。ろくに前を向いて走ってなかったせいでどん、と誰かにぶつかった。

 「! おいキリお前・・!」

 聞き慣れた声にキリは藁をもすがる思いで見上げるーー見上げた先にいたのは、村上だった。いきなり裸足で、ましてや寒い雨の日にも関わらず傘も持たずに薄着で現れたキリに村上は驚いた後に、慌てて自分の上着を着せてやる。

 「どうした、二宮さんはーー」

 二宮、その単語を聞くなりキリはぼろぼろと大口を上げて泣き出した。きっと泣き叫んでいるんだろうが、声の代わりにでるのは潰れたような、嗚咽音。
 村上は傘を畳むとひょいとキリを抱き上げた。ぎゅうと苦しいくらいに首に回されたキリの手。村上はそっとあやすようにキリの背を撫でてやると、鈴鳴支部へと走り出した。



 きっかけなんて、些細な事だった。キリを迎えにラウンジへ行けば、彼女と村上が仲良く話していたーーたった、それだけだった。でも、それだけで引き金になるのも十分だった。
 キリと村上は仲がいい。同い年という事も考慮したとしても、村上のキリへの執着具合は異常だったし、キリもそれを受け入れているように見えた。だからといって二宮に飽きただとか、愛想をつかしただとかそんなそぶりはちらっとも見せない。

 ただ、二人の間に流れる雰囲気は、二宮とキリの間にはないようなものだった。

 あいつは知っている、キリが抱えている秘密を知っているーー何故だかそう思ってしまった。だからこそ、家についてすぐにキリに聞いたのだ。

 「村上とは仲がいいのか」

 その問いに、彼女は曖昧に笑った。何かを隠すような、そんな笑みだった。いつも二宮が踏み込んでしまったときに突き放す、そんな笑みだった。そんな時、ずっとずっとため込んでいた感情が爆発した。

 「・・俺はそんなに信用できないか」

 「・・っ」

 何も答えないキリの肩を掴む。

 「そうやってずっと俺に隠すつもりか? それともお前が何かを隠していることすら俺は気付いてないとでも思っているのか?」

 早口にそうまくし立てて、ふと怯えるようなキリの瞳と目が合うーーここでようやくしまった、と思った。こんなはずじゃなかった。ただ、知りたいだけだった。
 ただ、結果として自分がキリをさらに追い詰めていることになってしまった。
 何か言おうとして、キリの平手が飛んできた。キリが、誰かに手をあげるなんて初めてだった。

 ばたばたと去っていく足音を追いかけようとする足は動かなかった。もう、自分にはそんな資格さえないのではないか? そう思ってしまうとその場に根が生えたように突っ立っていることしか、できなかった。

 どうすればいい?

 漠然とした意識の中、二宮はそのままその場にしゃがみこんだ。ただ、今分かっているのはもう、あの小さな手を掴むことも、抱きしめる事もできないことだろう、という事だった。



 「うわっ! どうしたんスか!?」

 インターホンが鳴ったのではいはい、と呟きながら基地の玄関を開ければそこには全身ずぶ濡れの村上がいた。しかも、腕には誰かを抱いている。

 「悪い太一、手が離せないから風呂場のドアも開けてくれ。あと今も呼んでほしい」

 「りょ、了解」

 そっと風呂場の床にキリを下ろす。そのまま暖房をつけてやると湯船にまで歩いていって風呂を沸かす。
 ごぼごぼとお湯が出てくるのを見、そっとキリを振り返る。壁に寄り掛かって呆然とするキリはぼんやり村上を見つめ返すとふ、と目を閉じた。力の抜けた体が床に転がる。

 「ねえ、キリを連れてきたって本当?って、キリ!」

 ひょいと顔をだした今は倒れるキリを見つけて慌てて駆け寄る。

 「大丈夫、たぶん眠っているだけだから。それより、キリに服を貸してくれないか」

 「わ、分かった。ちょっと待ってて」

 ばたばたと去っていく今をしり目に、キリの傍に座り込む。

 「・・・・キリ」

 そのまま顔に張り付いた濡れた髪をはらってやった。今度こそ、君を助けてみせるーーなんて言葉は声になることはない。



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