番人は秘密を溶かした泉に溺れる



 大切にしてきたつもりだった、守ってきたつもりだった。

 「違うの、わざとなの」

 そう言って泣きじゃくる目の前の彼女は出会ったときからなんら変わらない、哀しい目をしていてボロボロだった。本来なら壊れてしまうところを、あの人のおかげでなんとか形を保っているーーそんな状況だった。

 「・・お前は、悪くない。キリは、悪くない」

 おそらくこの言葉さえも彼女には届いてないのだろう。もっとぶっきらぼうなあの人の言葉でならきっと、笑顔になるのだろう。

 「っ、匡貴には、言えない、言いたくない」

 匡貴の瞳にはせめて綺麗な自分が映っていたい、小さく呟かれた言葉は震えていた。
 思わず村上はぎゅっとキリの手を包み込む。とても小さく、冷たい手だった。

 「・・・・じゃあ、秘密。キリの過去はこれからぜんぶ二人の秘密。もう俺しか知らないから、これからキリは今までを忘れて生きていけばいい」

 これからの彼女の隣にはきっと二宮しか立てないのだろう。ならばせめて過去の彼女だけは、二宮の知らないキリだけは自分のものにしたい。
 キリが背負う呪いが軽くなるならば、それでキリが心から笑える日がくるのならばーーなんて上辺だけの建前を並べる自分は心底浅はかで、愚かなのはとっくに知っていた。





 ふと視界に入った小さな後ろ姿に村上は立ち止まる。一緒に歩いていた友人にことわって、今度はまっすぐその小さな背中に向かって歩く。
 昼休みということもあって購買は、並べられたパンなどを物色する者やレジに並ぶ者でごった返していた。その中でもお世辞にも高いとは言えない小さいその背中は、買いたいのであろうサンドイッチを持って、レジに並ぼうとするが周りに押されて思うようにいかない。
 村上はひょい、とその人物ーーキリからサンドイッチをとる。

 「すみません、これください」

 言われた金額を渡して、キリに向き合うとサンドイッチを渡した。

 「ほら」

 キリはほんわか笑うとありがとう、と口を動かしてサンドイッチを受け取る。珍しくキリが一人なのに気付いてあたりを見渡した。

 「一人か?」

 キリはぶんぶん、と首を振ると少しだけ考え込んで帽子を外す仕草をした。

 「あぁ、穂苅か」

 首を振るキリ。

 「荒船か」

 「キリー!」

 そんな声と共にばっと頷くキリの後ろから腕が伸びてきて、驚くキリを包み込む。村上はその後にひょいと現れた黄色い頭に牽制する。

 「犬飼、いきなり後ろから抱きつくな。キリが驚くだろ」

 「なー、今日の朝電話ブチ切ったの二宮さん?」

 「聞けよ」

 さっぱり聞いていない犬飼はキリに、なぁなぁと尋ねている。初めこそは面白半分でキリに絡んでいた犬飼だが、最近は何かが変わった気がする。
 犬飼のそんな問いにキリは少しだけ頷いた。心なしか、キリの顔が赤くなった気がする。

 「やっぱなー、二宮さんはよかっーー」

 「バカやめろ」

 スパン、と景気の良い音と共に犬飼の頭をはたいたのは荒船だった。キリは荒船を見るなりニコニコ笑うと村上の服の裾を引っ張った。一緒に食べよう、ということか。

 「わ〜! キリだ、キリ〜!」

 まるでキリに引き寄せられるように続々と人が集まっていく。その中心にいるキリは笑顔で、村上も思わず笑みをこぼした。




 「キリ」

 帰ろうと下駄箱へ行けば、たまたまキリと鉢合わせた。いつもなら周りには必ず誰か居るのに、珍しく誰もいない。名前を呼ばれたキリは、村上を見て微笑む。
 彼女は一応ボーダー隊員として扱われていた。ただ、ボーダーの保護下に置かれていて必ずそばには誰かがいるようになっている。その誰か、というのはだいたい二宮で、二宮が防衛任務の時は本部で彼が帰るのを待つのがいつもの事だった。
 そういえば今日はフリーだと犬飼が言っていたっけ。それならなんでなおさらあいつがいないんだろうな、一番過保護なのにーーそう考えてふと響く凛とした声。

 「おいキリ」

 「!」

 かつかつと靴音を響かせてこちらへやってきたのは二宮だった。高校の下駄箱、といかにも似つかわしくない場所にいる理由は考えなくてもわかるーー他でもないキリの為だ。
 村上を見るなり二宮は少し不機嫌そうに眉間にシワを寄せた。が、それも一瞬で嬉しそうにキリが駆け寄るなり柔らかい表情になった。

 あぁ、あいつ、あんなに愛されてるのか。

 そんな事に何よりも安堵して、何よりも落胆する自分がいた。ふと、こちらを向いて手を振るキリはこの上なく幸せそうで。

 「あぁ、また明日な」

 手を振り返して去っていく二人を見つめる。

 「鋼ってさぁ」

 ふと響いた声に振り向けば、犬飼が立っていた。ぎゅーっと背伸びをして気怠げに欠伸をする犬飼はこちらへ歩いてくる。

 「損な役回りだよな」

 「お前も変わらないだろ」

 「んーん、俺はいーの。キリは大好きだけどそういう好きじゃない」

 幸せならいいや、そう笑う犬飼みたいに心の底から笑ってキリの背中を押せたらどんなに楽なんだろうかーーそこまで考えて、嘲笑した。

 自分からこの状況を作り出した癖に。



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