暗い深海だけが世界のすべてではない



 心のどこかではずっと分かってはいた。きっと、彼は真実こそ知らずとも、薄々キリの秘密に気付いているのだと。それでも、彼が事実を知ってしまったその時、どんな顔をするのか。そんな事を考えるだけでも恐ろしかった。それならいっそ、嘘で作られた優しい世界にずっといた方が楽だった。そんな時間が、続くような気がしてさえいた。

 秘密は自分一人だけのものであることを前提に成り立つ。誰かと共有したその時点でそれは公然の物となる。

 犬飼や村上が知りえた時点で、秘密はもう秘密ではなくなってしまった。その時点で嘘の世界は着実に崩壊へと向かっていったのだ。




 シャッという軽い音と共に温かい光が顔に当る。キリは思わず目を開けてーー眩しいので手をかざす。

 「あ・・起こしてしまったかな、ごめんね」

 指の隙間から声のした方向を伺い見る。逆光で真っ黒なその人影は村上のものではなかった。もう少し背が高くて、ひょろりと真っ直ぐに伸びた人影。声の主はベッドの脇にしゃがむ。

 「おはよう、キリちゃん」

 慣れた目が見たことのある優しい顔を映す。確か、二宮と同い年の来馬という人だった気がする。おずおずと会釈するキリの額に手を当て、来馬は人当たりの良い笑顔を深めた。ほんのり温かい手にキリは目を細める。

 「うん、よかった。熱は下がったみたいだね。お腹、すいてるかな? 今ちゃんが何か作ってくれるって」

 ただでさえ突然ここに飛び込んできて、しばらくこの部屋を貸してもらっている建前、これ以上要求するのはひけめを感じてキリは首を振るーーが、体は正直なもので、ぐう、と腹の音がなる。そう言えば最後に食事をしたのはいつだったか。
 ぼっと一瞬にして真っ赤になるキリに来馬はからから笑った。

 「うん、お腹すいたよね。今日はちょうどみんな居るからみんなで食べよう。その方が美味しくて楽しいよ」

 おいで、と差し出された手を握る。
 感触も、大きさも、握る力も、何もかも違うのに、あの、大きな手を思い出してキリは無性に泣きたくなった。




 「キリ、本当に大丈夫?」

 遅めの朝食を取り終え、キリはすっかり洗濯されて綺麗にされた自分の服に手を通すと立ち上がり、振り向く。そんなキリを、今は不安げに見つめる。

 「別にこの部屋はずっと使ってないし、私は別に平気だからここにいてもいいのよ」

 ぐるり、とキリは数日世話になった部屋を見渡す。最初に目を覚ました時はもっと薄暗かったこの部屋は、窓から差し込む太陽の光もあって明かりに満ちていた。

 もう、ここにはいてはいけない。もう、自分の足で立たなければならない。

 キリは少し息を吸いこんで今を見て、頷いた。

 もう、逃げないと決めたのだ。

 そんなキリを目の前にして今は、ふと彼女とはじめてあった日の事を思い出していた。俯き、顔にかかる黒髪から覗くさらに黒い瞳が印象的だった。すべてを拒絶していているようなその瞳は今と視線が混じるなりふいと逃げるようにそらされてしまったのはまだ記憶に新しい。

 それに比べて今はどうだろう。

 キリはだんだん下を向く癖が抜けてきた気がする。笑顔でいる事も多くなった気がする。すべてが“そうであってほしい”という今願いから生まれた憶測だが、今のキリを見てそれはあながち間違いでもない気がした。

 「ねえ、キリ」

 思わず目の前の背中に声をかける。

 「またウチの支部に遊びにおいでよ。太一も、来馬さんも・・鋼くんも、待ってるからね」

 核心に触れはしなかった。きっとこの問題を根本的に解決できるのは自分ではないからだ。
 どんなおとぎ話だってそうだ。物語は、悲劇のヒロインと王子様だけがその幕引きを決める。




 数日ぶりに帰ってきた一室はしんと静まり返っていた。
 部屋の主がまだ警戒任務で帰宅していないのが大きな一因だろうが、理由はそれだけではない気がする。キリは靴をそろえて脱ぐと、そのままリビングを通過してベランダに出た。ふわっと夏独特の風と夕日が舞い込んでキリは目を細める。
 時間が時間であるために、家路につく子供たちの声、自転車のベルの音、児童に帰宅を促す旨の放送とチャイムが風に乗ってくる。キリはベランダの手すりに両腕を組んでおくと、その上に顎を乗せる。

 どうやっていままで声をだしていたっけ。

 ふと、声が出せなくなってから今の今までに思いもしなかった疑問が湧き上がる。
 すう、と息を吸いこんでみる。そのまま少し喉に力を入れて見たりするが、結局出てきたのは掠れた音と空気だった。
 何度か挑戦して、キリは諦めたように溜息をついたーーその時だった。

 「キリ」

 突如響いてきた声に、キリは慌てて振り向くーーその刹那、見えたのは茶色い髪の毛だった。
 本当は分かっていた。あの日、あの白い大きな怪物は決してキリの言葉に反応したわけではないこと、二宮が何か知っている上で自分の傍にいてくれていたこと。自分自身を呪って声を出さなくしてしまえば支えてくれる周りがいる、そういうところをどこかキリ自身分かっていて逃げ出したのだ。
 言わなくちゃ、もう逃げないって決めたの。
 口を大きく開いて空気と一緒に無理やり言葉を押し出してみる。出てきた声は言葉というよりもほとんど音に近い。キリはばっと真っ直ぐ二宮を見つめる。どこまでも優しい瞳と視線が絡んだ。

 「・・どうした、キリ」

 もう一度名前を呼ばれて手を伸ばされた。キリは迷わず、大きく一歩を踏み出すとその手を掴んだ。

 



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