悪い魔法使いはもういない



 呪いをかけたのは、自分だった。
 人魚姫に足を与えたのは、自分だった。

 「俺たちだけの、秘密にしよう。二宮さんは、何も知らないし俺も誰にも言わない」

 彼女が心底彼を好きなこと、思われている彼もまたそうであることは知っていた。だからこそ、最初は彼女を守るつもりだった。

 いつからだろうか。
 そんな正義感が歪んでいったのは。




 「あれ、犬飼先輩じゃーん」

 防衛任務を終えて基地に帰るなり、後輩が意外な人物を見て間延びした声で呼ぶ。

 「お邪魔してるよ、鋼」

 そう言った犬飼はまっすぐこちらを見て、口元だけを笑わせた。
 彼が来た理由も、自分がいないであろう時間を狙ってきたのであろうことも、なんとなく理解して、ちらりと彼女の眠る部屋の扉に目をやる。

 「・・そうだ太一、今ちゃんが呼んでたよ」

 「え、まじすか」

 どことなく漂い始めた重い空気に気付いた来馬が別役とともに作戦室へと向かった。
 二人きりになったところで、先に口を開いたのは犬飼だった。

 「・・・・二宮さんが、秘密を知ってたの、知ってただろ」

 村上は、何も言わない。

 「知ってて、黙ってただろ?」

 ここで彼は一息置いた。

 「お前は、楽しいか? 満足か?」

 目の前の空色の瞳は、軽蔑の色を映してこちらをただ見ていた。

 「誰かが苦しいのはそんなに滑稽か」


 何も言わない。ただ、空色の瞳を見つめ返すことしかできなかった。




 彼女の存在は知っていた。
 その容姿から学年でも、まあ有名だったからだ。
 ただ、その存在をはっきり知った経緯は最低なものだった。

 それはいつもの放課後だった。課題のために借りた本を返そうと足を運んだ図書館だった。

 「んっ・・」

 開けようて扉に手をかけて、聞こえてきた微かな声に体を強張らせた。
 自分には今まで彼女がいたことはなかったから、そういうことにはご縁がないのだが、この声は、つまり、そういうことで。

 困ったな、誰だよこんなところで、と呆れと怒りがない交ぜになった気持ちで頭をかいて、とりあえず今はその場を後にする。
 返却期間は今日まで。つまり、今日返さないという選択肢はないので校舎をぶらっと一周してからまた図書館へ向かう。
 そこで出会ったのが、あの、兄だった。

 「どうも」

 なんて整端な顔を歪ませて笑う彼に少しだけ会釈する。そのまま何も考えずに扉を開けてカウンターまで歩く。

 「すみません、」

 本を返しに来たんですけど。
 その言葉に返ってくる言葉はなかった。代わりに、カウンターの向こう側で何かが蠢く。

 「・・・・すみません」

 身を乗り出して伺えば、それは人だった。
 もう初夏だというのに不釣り合いな長袖セーターを羽織ったそれは女子生徒だった。
 乱れた黒髪から、真っ暗な深淵のような黒い瞳がこちらを捉えた。

 「・・・・・・みないで」

 掠れた声でそういって、その女子生徒は倒れる。

 「おい、」

 慌ててカウンターを跨いで向こう側へいく。小さなその体を揺さぶれば、億劫そうに女子生徒は顔だけこちらにむけるーー村上は、歪みに気付いてしまった。

 乱れた制服はもはや意味をなさずに素肌と下着が見えていた。スカートもくしゃくしゃ、ところどころに液体が付着しており、これは村上にもよく分かるものだった。
 何よりも、腕に生々しくある縛られたような跡が、この行為が合意の上で成り立っていないことを証明していた。

 「・・そこに水道があるから、それを使って落として。これを使って拭いて、それから、少し待ってて」

 存外、理解できないものが目の前にあると返って人間は冷静になるもので、村上はそれだけ言ってハンカチを貸して上着を羽織らせると、ジャージを取りに教室まで駆け出した。

 「・・ありがとう・・ございます」

 汚れを落とし、制服から村上のジャージに着替えた女子生徒は恐る恐る頭を下げた。

 「犯人、覚えてる? 先生に、というよりもう警察に言ったほうがいい」

 立ち上がろうとする村上の手を彼女は掴む。

 「いいの、言わないで、もう・・・・なれたから」

 「・・でも」

 「・・・・ありがとう。わたし、キリ。西条キリ」

 そう言って笑うキリは、今にも泡となって消えそうな、儚い笑顔で笑った。

 それがキリとの出会いだった。


 それ以来、キリと図書館に居座ることが多くなった。他の誰かといるときまってあの男はキリに手を出してこないからだ。
 最初は他愛ない世間話を、それからお互いの事を話して、キリはポツポツ兄とのことを打ち明けた。
 最初はただ正義感からキリを兄から守っていた。守る、といっても彼女にとってはささいな範囲なのも知っていた。

 「いいの、ありがとう」

 そういって控えめに笑う顔が、どうしようもなく可憐で、美しくてーー哀れに思えた。今思えば、彼女を守る自分に陶酔したのだ。物語の王子さまになった気分だった。愛情を、自己満足の糧に変えてしまったのだ。

 だから面白半分で近付いた犬飼を心底煙たがった。感情は違えど、彼女の悲劇性に引きつけられたのは自分と同じだったから。彼を通して、自分を見ているようだった。


 そして、その時はやってきた。


 その日はとても綺麗な夕日だった。真っ赤な西日に、カーテンを閉めるか否か悩んでいればキリは図書館に駆けこんできた。

 「キリ」

 今日は遅かったじゃないか。
 そんな一言は、振り返った先にあった彼女の顔で言葉という形になることなく消滅した。

 「・・殺した、かもしれない」

 「誰を?」

 「だって、匡貴に、知られたくなくて、わたし、わたし、」

 「いいからキリ、落ち着いて」

 泣きじゃくるキリの手を引いて、本棚の影へと連れ込む。ここなら入り口から見えないし、万が一誰かが入ってきても時間を稼げるから。

 「キリ、」

 「わたし、思ったの、しんでしまえって、あいつさえ居なければ、って」

 「・・おまえ、」

 ぎゅう、と小さくて震える青白い手が村上の胸元のワイシャツを掴む。キリはどこか一点を見つめて、小さく開いたままの唇からこぼす。見開かれた瞳から無造作に涙は溢れて、

 「白い化け物にお願いしたの・・・・って・・・・ころしてって」

 「・・トリオン兵のことか? トリオン兵は人の言葉なんてーー」

 「違うの、わざとなの」

 ぶんぶんと頭をふってキリは吐き出した。

 「匡貴に、すきっていってもらった、この声で、ころしたの」

 目の前で、泣きじゃくるキリを見て思いの外心は平静だった。よかった、キリが直接手を下したのではないのか、なんてこころの片隅で思った次に顔を出したのは、黒い、真っ黒な感情だった。

 「・・お前は、悪くない。キリは、悪くない」

 甘言を囁いて、

 「・・・・じゃあ、秘密」

 悪い魔法使いは番人の皮を被って哀れな人魚に呪いをかける。

 「キリの過去はこれから全部二人の秘密。もう俺しか知らないから、これからキリは今までを忘れて生きていけばいい」

 「・・ひみつ、」

 「だから、キリも決していってはいけないよ。キリは、もう自由だ」

 恐る恐る顔を上げた人魚の唇を人差し指でなぞって口に封をした。

 番人は王子も知らない人魚との秘密を手に入れたーーそれは、人魚と番人を結ぶ共通コードだった。そしてそれと引き換えに、番人は足を人魚に与えた。王子と同じ二本で、彼の隣に立つことができる魔法の足。


 ただ、番人さえも知らなかった。
 
 その足で人魚が一歩一歩踏み出すたびに、まるで硝子の破片が刺さるような鋭い痛みを伴うものなのだと。



 「キリ」

 寝室は真っ暗だった。締め切られたカーテンから微かに漏れた西日は、上半身だけ起こした彼女を照らしていた。
 名前を呼ばれてその後ろ姿は、はた、と動きを止めるとゆっくりこちらを振り向く。その瞳は、雨の中二宮から逃げ出してきたあの瞳とは大きく違っていた。何かを、決意したような、瞳。

 「・・・・キリは、きっと二宮さんのところへ行く・・・・だから、離してやってよ、キリを」

 帰るその間際、犬飼が言った一言がよみがえる。

 番犬はその無邪気さゆえに呪いをかけた。
 
 番人は人魚を手に入れたくて呪いをかけた。

 人魚は自身に降りかかる悲劇に耐えかねて自分に呪いをかけた。


 人魚を取り巻く呪いは解けつつあった。傷だらけのそのどうしようもなく痛む足で、再び歩もうとしていた。

 今度はバッドエンドから逃げるためではなかった。ハッピーエンドに向かうための歩みだった。

 一つ目の呪いは解けた。

 王子は知っている。人魚の抱える呪いも、罪も、全て知っていて彼女を待っていた。人魚もまた、王子が待っていることを知った。秘密の共通コードはそもそも、秘密ではなかった。

 「裸足でここまで駆けてきたんだ。その足じゃまだ歩けないだろう」

 キリは何かを訴えるような瞳で見た。何を訴えているのかは分かっていた。分かりたくはなかったけれど、村上はそっと笑った。

 「送るよ。君ぐらいなら、背負って歩ける・・・・二宮さんが、待ってる」

 謝ろうと開きかけた口は思わず閉ざしてしまった。人魚が、そっと笑ったから。かわりに、番人も笑い返す。悪い魔法使いはもうどこにもいなかった。

 そして二つ目の、呪いが解けた。



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