たとえばそちらへゆけたと仮定すると、
今日は何もないので最終下校時ギリギリの、すっかり暗くなってから教室を出る。どうせ家に帰ったところであの男と鉢合わせするだろうし、何をされるか分かったものじゃない。どれだけ時間を引き延ばそうが、最終的に家に帰ることには変わりはない。それでもやっぱり少しでも家にいる時間は減らしたかった。
ーーいっそ、今日も生徒会があったらよかったのに。そう心のなかで呟いて思い浮かべるのは、もちろんあの人物だ。
だから、不意に背中からかけられた声にキリは思わずとびあがった。
「おい」
少しだけ低くて、よく通るーーというよりもキリの耳が優先的に拾ってしまうのだがーーこの声は。
油が足りない機械のように、ぎぎぎ、とちょっとずつ後ろを振り向いた先にいたのは思い浮かべていた人物だった。
「に、二宮先輩」
切れ長の瞳をさらに細くさせて二宮はじっとキリを見つめる。しまった、どうしてこういう時に限って肌の調子も悪いし、髪もあまり梳かしてないんだろう。普段の生活なら微塵も気にしない自分の身なりがすごく気になり始めて、呼んだきり何もしゃべらない二宮にキリはひきつった笑みを浮かべた。
ふと、彼の手に握られた小さな鍵が目に入る。数日前にはついてなかった小さな恐竜のキーホルダーが鍵に括りつけられていた。
「・・キーホルダー、つけたからもう失くしませんね」
そう言ってから気付く、キリが鍵を拾ったこと、ましてやあの女子生徒との会話を聞いていたことなんて二宮は知らないからだ。これでは自白しているも当然である。
「・・・・やはりお前が拾って机においたのか」
「あ、その、えーっと」
「・・・・・・すまなかったな」
「は、はい、」
そして、沈黙。
なんとなくこのまま、じゃあさよなら、なんて帰るような雰囲気でもない。かといってなにか話せるほど共通の話題もないので必然的に選択肢は沈黙、の一択になってしまう。なにか話題を、と口を開く。
「えと、その恐竜のストラップ、可愛いですね」
「知り合いにもらった・・・・恐竜が、好きなのか?」
「はあ・・、まあ、好き、ですかね・・」
まさかそこを深く掘り下げられると思っていなかったので反射的にかえした言葉の語尾のほうはほとんど疑問形だった。それを二宮はどう捉えたのか、少し考えると鍵からその恐竜のストラップをはずすなり、ぐいとキリに差し出す。
「・・・・やる」
「え、でも二宮先輩、せっかく鍵につけてたのに」
「代わりがまだある」
そういってブレザーのポケットからストラップをとりだすーー今度は飛行機の形をした飾りがついていた。
見た目から仕草のなにからなにまでクールであるのにも関わらずこういう可愛い一面があるのかとおもうと、おもしろくてつい笑ってしまった。
「・・・・おかしいか」
「あ、いえ、二宮先輩にもこういう一面あるんだなって」
勇気をだして顔を上げて二宮の顔をまっすぐみつめ、少し笑う。二宮も力が抜けたようにふ、と笑う。再び訪れた沈黙は少し緊張が和らいだものだった。
「・・引き留めてすまなかった」
「いえ、大丈夫です。急いでいたわけでもないですし」
「そうか」
じゃあ、と二宮が踵を返そうとするのと思わずキリがそんな彼へと手を伸ばすのはほとんど同時だった。ばっと振り向いた瞳は少しだけ揺らいで、ふいと視線をそらされた。
ほとんど反射的だった行動に自分でも内心焦っていた。でも、ここで手を伸ばさないともう彼とこうして目を合わせる事も言葉を交わすこともないだろうと、どうしようもなく思ったのだった。
「あの、その・・・・また明日、生徒会で」
「・・ああ」
そういって細められた瞳はどこまでも優しい物だった。
「あ、二宮先輩」
「え、」
いつも通りの昼休み。窓枠に寄り掛かって紙パックのジュースをストローで吸い上げていた友人がふとそう呟いて、キリは反射的に顔を上げた。栞がわりにと近くにあった携帯を挟む。
「ほらあそこ」
「・・ほんとだ」
思わず読んでいた本を閉じて窓側に近付く。もう夏の気配がする日差しがさんさんと降り注ぐ真昼のグラウンドには、貸し出されたボールであそんだり年甲斐もなく走り回る生徒でいっぱいだった。その中で、とくに気だるげな背中を見つけてどきっとする。おそらくでもたぶんでもなく、確実に今少しだけ体温が上がったのはこの日差しのせいではない。
「おやおやおや? ついにキリにも二宮先輩の良さが分かっちゃったかー?」
「え、いや、違うって」
えー? とにやにやしながら再びストローをくわえた友人にばか、とだけ呟いて慌ててグラウンドから目をそらした。きっとこれはあれだ、憧れだ。けして好きだとか言う感情じゃ、ないはず。
「えー、じゃああの噂はデマなの?」
「は? 噂?」
「キリと二宮先輩が付き合ってるという・・」
「は!? えっ!?」
友人のくちから漏れた言葉に思わずがたっと立ち上がる。その衝撃で落ちそうになった文庫本を慌てて手に持つと、挟んでいた携帯を取り出す。恐竜の形をしたチャームのついたストラップが画面にあたってからりと音を立てた。思ったより大きい声が出てしまっていたのか、クラスにいた数人がちらちらと此方を見てくる。
キリはちょっとだけ教室を見渡して大きく空咳をすると、落ちついて座るーーストラップについた携帯は、まだ手の中だ。
「なんか。同じ部活の子がさー、キリと二宮先輩が昨日一緒にいたのを見たっつーからさ・・・・あ、あー・・!!もしかして、もしかして!」
「な、なあに・・?」
友人の視線がしどろもどろなキリ、携帯についたストラップ、そしてまたキリ、携帯についたストラップ、と二回ほど往復するとますます笑みを深めた。
「それ、もらいものでしょ? すっごく大事にしてるあたりもしや・・」
「そうだけど、付き合ってるとかそういうわけじゃ・・!」
ここは諦めて素直に認めた方がいい、そう思って二宮にもらったことを肯定する。青くなったり赤くなったりするキリがよほど面白いのか、友人はそのまま頬杖をつくとさらににやにやした。
「なるほどねー、人にあげたりもらったりするのすっごい嫌いだって噂のあの二宮先輩がねー。バレンタインでさえいらないってつっかえすんだと」
その言葉に不覚にもどきりとした。
「・・・・まさかそんな」
すこし冷静になってそう呟く。思わず零れた言葉であったが、それはどこか浮かれている自分を戒める言葉でもあった。