足のない私はただただ波間からあなたを見つめるだけ



 「西条キリです、よろしくお願いします」

 そそくさにそれだけ言って慌てて頭を下げた。だから、彼がこちらを見たのかは分からない。ただ、つむじあたりに視線を感じてむずがゆいーーかといって顔をあげて、真っ直ぐ目をみて話す勇気なんて到底湧いてこなかった。

 「ああ」

 ぶっきらぼうに帰ってきた言葉に、これまた小さくよろしくお願いしますとだけ答える。もちろん顔を上げないまま、視界にいっぱい生徒会室のタイルを映したままで。

 「じゃ、西条さん仕事とか教えるからこっちおいで」

 「は、はい」

 にこやかに笑う先輩の後に続くその刹那、ちらりと後ろを振り返る。先ほどまでは自分にそそがれていたのだろう視線はもうすでに書類へと移されていた。ちょっとだけ残念だと思う自分に気付いて、キリは自嘲した。



 「すみません」

 一通り仕事を終えて帰ろうとしたところで、携帯を生徒会室に置いてきてしまったことに気付く。キリは慌てて目の前を歩いていた先輩に声をかけた。

 「あの、教室に携帯おいてきちゃって」

 「ありゃま、鍵しめちゃってるからこれで開けて取っておいで。私この後塾だから、悪いけど鍵よろしくね」

 「はい、すみません、ありがとうございます」

 小さなカギを手に小走りで来た道を戻ると生徒会室を開けるーーあった。メールの着信があったのか小さな音と共に、日が沈みかけて薄暗い部屋の一部がぼんやり光る。電気をつけるほど暗くはないが、とくべつ明るいわけでもない。結局はめんどくさい気持ちが勝ってそのまま光の方へと駆け寄る。
 そのまま何気なく携帯を手にすると今さっき来たメールを確認し、思わず見なければ良かったと後悔した。送り主が、あの男だったからだ。気付かなかったと言い訳してもきっと強引にことに進むのだろうから関係ないのだろうがやはり気は重くなる。

 重い足を何とか動かして帰路につこうをすれば、なにかが上履きのつま先にあたった。慌てて携帯を床にかざしてその何かを確認するーー鍵だ。
 ちいさなその鍵はおそらく自転車の鍵なんだろう。ここに自転車で登校するのはさほど珍しくはないからだ。キリ自身は徒歩だったが。
 なんのストラップもついていない飾り気のない鍵を拾ったと同時に、それは聞こえてきた。

 「おい加古、おまえ俺の鍵はどこやった」

 「知らないわよ、自分の持ち物くらい自分で管理してちょうだい」

 「お前がさっきキーホルダーをつけてやるとかいって強引に奪ったんだろ」

 「あら、そうだっけ? 覚えてないわ」

 片方は女の声だ。そうして、もう片方はキリの良く知った声だった。おそらくこれが彼の捜している物であろうという確信と、どうしようという困惑が湧き上がるのは同時だった。だんだん近付いてくる足音に慌てて鍵を机に置く。

 「どうせここにーーあら?」

 がらりとドアが開いて、電気がつけられる。眩しくてキリは思わず目をつむった。やがて少しづつ目を開けると、そこにいたのは二宮と淡い金の髪をした女だった。思わぬ鉢合わせにキリは慌てて二宮から目をそらした。

 「お、お疲れ様です・・」

 「何をしていた」

 「その・・忘れ物を取りに」

 「ちょっと二宮くん、あんまり後輩を怖がらせちゃダメじゃない」

 「うるさいだまれ」

 そのままキリの横を通って部屋に入った二宮は机の上を見る。その間、どうすればいいのか分からないキリは下を向いていた。いつも、二宮の傍にいるときは下を見てるなぁ、なんて人ごとの様に考えつつ。

 「あるじゃない、鍵」

 「ああ」

 「こんなとこにあるなんて誰かが拾ってくれたんじゃないの?」

 「知るか」

 私が、拾いました。

 なんて言葉は声になることはない。代わりに漏れたのは別の言葉で。

 「・・戸締り、お願いします。お疲れ様でした」

 そのままの勢いで教室を後にした。初めは早歩きだったものはだんだんと勢いを増して気付いたころには走っていた。走って走って、疲れたころに足を止めると振り返る。振り返った先に、小さく部屋の明かりが見えてーー消えた。自分のものではない足音が部屋の向こうへと消えていく。
 選択に後悔がなかったといえばウソになる。しかし、あれ以外の選択は浮かばなかった。あまりにも、自分の置かれた環境と彼がいる環境が違いすぎた。
 足音が完全に消えるまでキリはそこで立ち尽くし、やがて暗い廊下の先へと歩を進めた。

 どうしても王子さまと同じ姿で、同じ言葉を通わせたかった人魚姫はその美しい声と引き換えに足を魔女からもらったらしい。
 それに比べて、足の見返りになるほどの秀でたものは持ち合わせてはいない自分はただただ暗い海から顔をのぞかせて見つめる事しかできないのだ。



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