通りすがりの花香り
気がついたら、知らない場所に立っていた。
「…ここは…?」
清々しい青空。暖かい春の日差し。昔ながらの和な雰囲気漂う木造建築の家や店が建ち並び、たくさんの人々が道を行き交う活気の溢れた街。
けれどそれはわたしにとってまったく見知らぬ土地の姿だった。
(昨日は、確か…)
「……っ」
昨日の出来事から順に思い出そうとした瞬間、目の奥に鋭い痛みを覚えた。
昨日どころではない。今日の朝ご飯、更にはついさっきのことでさえ、何も思い出せない。
それどころか、反芻するのを妨げるように頭痛がひどさを増していく。
(…何も、分からない)
愕然とした。同時に、恐ろしく思った。自分は何者で、どこで何をして、誰と過ごしていたのか、何もかも分からない。記憶がひとつ残らず抜け落ちている。
それは、これまでの“生きてきた証”が綺麗さっぱり無くなってしまったのと同じことだ。
(……っ)
目眩がする。とてつもない不安がざわざわと肌を粟立たせる。
気分が悪くなってその場に座り込みかけたその時だった。
「日和サン?」
背後から名前を呼ぶ声が聞こえる。
“日和”ーーーそれが自分の名前だと、何故か疑いようもなく直感でそう感じとっていたわたしは勢いよく振り返った。
(この人、誰…?)
すぐそばに背の高い男性が立ってこちらを見下ろしていた。
陽の光に透けて宝石のように輝く銀色の髪がとても印象的な、綺麗な男の人。
だけどその彼にも見覚えはなく、唯一自分が覚えているらしい名前を呼んでくれたからもしかしたら、と考えていた分、ショックも大きい。
「ほい、落とし物だ」
あからさまに落ち込むわたしへと彼は何かを差し出す。
呆然と受け取るとそれは手紙のようで、白く上品さの漂う封筒の表には確かに『日和へ』という文字が書き記されていた。
もちろん手紙に覚えはない。
けれど、その文字を見た瞬間、胸の奥が何かを訴えるようにざわめくのを感じた。
「…あんた、具合でも悪ィのか?」
「え…?」
「顔が真っ青だぜ」
不意に顔を覗き込まれて目線を持ち上げると、思ったよりもずっと近くに整った顔があって戸惑う。かと思えば、張り詰めていた緊張の糸がぷっつりと途切れ身体が崩れ落ちた。
「、おい」
膝が地面につくより早く彼が腕を掴んで支えてくれたおかげで怪我をすることはなかったが、力の抜けきった足ではもう自力で立ち上がれそうにもなかった。
「…大丈夫か?」
「す、すみません…」
支えてくれる彼の腕に頼りなく体重を預けてしまう自分が情けなくて、恥ずかしくて、思わず顔を俯けてしまう。
(どうして、こんなことに…)
頭がぐちゃぐちゃで、なんだかもう泣いてしまいそう。
隣で彼の戸惑うような気配を感じれば申し訳なさにますます泣けてくる。
「あれ、誰かと思えば旦那じゃねェですか」
ふわりと、どこか懐かしい感じのする香りが鼻孔を擽った。
「総一郎君」
呟く男の人の声につられるようにして顔を上げると、少し離れた通りの先から黒い服を着た人が歩いてくるのが見える。
距離が近づくにつれてハッキリと認識出来るようになったその人は、わたしとそう年が変わらないくらいだろうと思う。
陽の光を閉じ込めたような、暖かい春の日差しのような、やわらかい色の髪をした少年ぽさの残る可愛らしくも整った顔立ちの男性だった。
「総悟です。…しかし旦那ァ、真っ昼間から若い娘さん連れて、どんな良からぬことをやろうと画策してるんですかねィ」
銀髪の男性に向かって話しかける彼は意外にも表情にあまり変化が見られない。
若さのにじむ声で淡々と紡がれる言葉は、彼の容姿からは想像も出来ないほど不穏な気配に満ちている。
わたしはなぜか引き込まれるようにしてそんな彼の一挙一動に見入っていた。
「人聞きの悪いこと言ってんじゃねーよ。銀さんがそんな真っ黒いこと考えるわけないでしょーが」
「でも、泣いてやすよ」
不意にこちらに視線が向けられ、ビクリと肩が跳ねる。
ゆっくりと瞬きを繰り返しながら自分の頬を指の背で触れると、確かに濡れていた。
(どうして、わたし…泣いてるんだろう)
涙は止めどなく溢れてきて、切ないようなやるせないような気持ちが胸をいっぱいにする。
だけどそれでも彼から目が離せなくて、彼を見つめたままぽろぽろと涙を流し続けた。
「……っ、…」
「……」
声も上げずに静かに涙を流すわたしに、さすがに彼も少し困ったように微かに眉を寄せる。
…ーーその時、サアッとわたしたちの間を風が吹き抜けていった。
(あ………)
先ほどのあの香りが、より強く、色濃く香る。
わたしはハッと目を見開いた。
(この香り……花の、桜の香りだ……)
もはや意思とは関係なく、口が勝手に動いていた。
「名前を、教えてくださいませんか…?」
胸の奥から突き抜けるような衝動がわたしを動かす。
記憶がなくてもそれが自分にとってとても大切なことなんだ、ということを本能的に感じ取っていた。
「……沖田、」
「……」
「沖田、総悟」
その名前を耳にした瞬間、ふわりとやわらかい優しい体温で心が包まれたような気がした。
「沖田さん…」
無意識にこぼれ出た彼の名前だけど、その音の響きをわたしは知っていたのではないだろうか。
そう思えるほど、すんなりと心に落ち着いていったのだ。
「…あんたは?」
「え…?」
「……」
問うように視線を向けるも、沖田さんはそれきり黙りこんでしまう。
ただ、その紅茶色の瞳は真っ直ぐわたしに向けられていた。
(……あ……)
一拍遅れて気づく。
目の前の、桜の香りを淡く纏った彼を見上げ、わずかに頬を緩ませながら口を開く。
「日和です」
「…ああ」
もう、涙は止まっていた。