メアリー

 できることなら貞淑でいたい。何にも侵されず、気高い存在でありたい。自分だけを可愛がり、自分だけを信じ、自分だけを守らなければならない。

 糊のきいたセーラーカラーとやわらかなスカーフを風に泳がせて、皺のないプリーツスカートの輪郭を宙に広げ、革靴のつま先で軽やかにステップを踏み、どこまでもいつまでも踊っていたい。私は赤い靴の女の子みたいにわがままだけれど、彼女みたいに薄弱じゃあないわ。誰にも踊らされずに自分の足で踊っているから、切り落として頂戴と泣き叫んだりしない。

 私を何にも触れさせたくはない。汚されたくはない。強く強く、そう思っていた。
 
 私は学校が嫌いだ。だって、生徒達が阿呆で愚図で下品で救いようがなくて、とにかく最悪なのだ。男の子は気持ち悪いから嫌い。女の子については口を聞いてあげないこともないけれど、お友達と呼びたい子はいないに等しい。

 どうやらこの年頃になると、大多数の女の子は著しい速度で純潔を失っていくらしかった。会話の内容は大切にしているテディベアの話から学級の男の子の噂へとすりかわり、蔑んでいたはずの明るい色に髪の毛を染めてしまう。

 一番気に入らないのは、セーラー服を着崩す子。私は学校が嫌いでも、セーラー服は大好き。元は海軍の軍服であり、女学生の象徴として普及したセーラー服。少女が纏ってこその特別な価値を持つお洋服だと思ったら、愛おしくて仕方ない。きっと、セーラー服を美しく纏っていれば、醜いものから私を守ってくれる。そんな気さえした。

 だから、誰よりも見苦しくセーラー服を着崩すあの子が大嫌いだ。男の子の話しかしないし、髪の毛は栗色だし、極めつけに処女を失っていることを高らかに女の子達に自慢している。いつも安物の香水の臭気をふりまき、鼻にかかった声で話す。自分と似たり寄ったりの頭が悪そうな女の子にちやほやされるのがあの子の生き甲斐。スカーフを付けず袖元のボタンも全てはずして、スカートを短く折る。指に髪を絡ませながら男の子に媚びるその姿を見ているだけで、全身が腐り果てそうな程激しい憎悪が私を満たす。同じ女の子、いや、同じ人間だと思いたくない汚らわしさだ。

 私の席の斜め前の席は、あのタカナシくん。男の子は厭だと言ったけれど、彼は特別だ。細い体躯に生白い肌。耳にかかる艶やかな黒髪。西洋のお人形の如く整った顔は、鬱屈とした表情を湛えている。まるで絵画から抜け出してきたかのような美少年だ。
 
 タカナシくんの持つ雰囲気には、私と同じものを感じる。口数は少なく、たいてい休み時間には窓の外を眺めている。すこしだけ仲の良い男の子は何人かいるみたいだけれど、必要以上に慣れ合うことは無いようだった。

 タカナシくんは詰襟の学生服をどの男の子よりも綺麗に着用している。ボタンのひとつも外さず、きちんと学生服を学生服として着ている。彼も私と同じように、制服に純潔を守ってもらいたいのではないかしら。こんな糞餓鬼の吹き溜まりみたいな学校はうんざりで、女の子なんか大嫌いに違いない。彼は私と同質なのだ。

 いつのまにか、斜め後ろからタカナシくんを眺めるのが私の習慣になっていた。つまらなそうに授業を聞いている横顔、根暗そうな男の子と話している時の貧乏ゆすり、卑しい女の子に肩を触れられている時の、机の下で太股に爪を突き立てている右手。そんな彼を見ていると、心臓が狭くなるような心地がして、慈しむという言葉の意味を理解したような気になれた。

 梅雨の季節に入り、ぬるりとした湿気に耐えかねた男の子達は詰襟を脱ぎ捨ててしまったけれど、タカナシくんは頑なだった。私達は坦々と日常を過ごし、目を合わせることすらない。

 彼の額から滴った汗のしずくが頬を滑り首筋を流れ、不健康な肌色を青白く煌かせるのをひたすらに見つめていた。背徳と純潔とを隔てる、薄い皮膜に凭れかかり、膜を破る鋏を手にしていながらも自身の清らかさを確信している。そんな悪ふざけの、何も変わらない日々が続くと思っていた。
 
 ある日の休み時間、次の授業の準備をしていた時。タカナシくん、と彼を呼ぶあの子の声がした。垂らした髪の毛の隙間から、タカナシくんとあの子の様子を見た。あの子はタカナシくんの机の脇にしゃがみ、口元に数学の教科書をあてて彼を見上げる。

 先程の授業で、複雑な数式を黒板にすらすらと書いてしまったタカナシくんをあの子はひたすらに賞賛する。今度期末じゃん、アタシ数学全然ダメなの。ね、タカナシくん、教えてくれない? アタシ達喋ったことってないけど、仲良くしたいな――そんなことを言っていた。これまで感じたことのない不快感に襲われて、気付くと私はノートを黒い線で滅茶苦茶に塗り潰していた。

 日に日に二人は打ち解けていき、談笑しているところも見かけるようになった。タカナシくんがあの子に穏やかな笑顔で接しているのが嫌で嫌で、妙な悔しさに腹が立つ。あの子はタカナシくんを壊している。私はタカナシくんに何もしたくなかった、否、できなかった。どうしたって、守りたいのは私の純潔なのだ。これ以上、彼とあの子に踏み込んではならない。

 そう思っていた矢先のこと。あの子は例の下品な女の子達を集め、教室の隅で肩を寄せ合いひそひそ話をしていた。何やら訝しく感じ、じっと見ているとあの子と目が合った。瞬間、悪寒が走る。あの子が私と目を合わせたままぼそりと口を動かすと、取り巻きの子達が一斉に私を見た。彼女達はくすくすと笑う。

 お腹が痛くなって、私は机に突っ伏して自分を抱きしめた。何が恐いっていうの? 何が不安だっていうの? 何を苛々しているの? あなたは強いの。守られているの。必死にそう言い聞かせた。唇を噛みしめて吐き気と闘いながら蹲っていると、うらやましいでしょ、と耳元であの子の声がした。口の中が鉄臭くなった。

 憎い奴には相応の報復を与えるべきである。いけ好かないあの子の心をすり潰して、私が気持ち良くなるためならどう甚振ってもいい。だってもう、反吐が出るとか虫酸が走るとか、そんな言葉じゃ表現できない程の激情で脳みそが飛び散りそうだもの。
 
 午後のプールでの授業を、体調が悪いと嘘をついてサボタージュすることにした。浅黒い身体の体育教師は、期末の保健のテストにそなえて教科書でも読んでなさいと言った。性器の図解なんてクソくらえだわ。裁縫箱から裁ち鋏を抜き取って、みんなが水着に着替えてプールに移動した頃を見計らって女子更衣室に入る。こもった空気の中、あの子の荷物を探し当て、制服を盗み出した。

 授業中だからといって油断はできない。乙女たるもの、あまり美しくないことは秘密裏に執り行うもの。薄暗く不潔な女子便所の一番奥の、和式便所の個室に鍵をかける。
 
 あの子にはセーラー服を、少女の象徴を纏う資格なんて無い。あんなアバズレの雑菌に塗れてしまったセーラー服が可哀想で仕方ない。もう、このセーラー服は、セーラー服として存在する意義を失ってしまったのだ。私はこのみすぼらしい布の塊に、そっと鋏をいれた。

 純潔、つまり少女性を失うことは女の子として最大の欠損であり屈辱だと私は思っている。だって、そうでなければ、私は何に縋ってどんな自己を見出し、何を誇ってどんな矜持を守れば良いのか分からなくなってしまう。

 嫌いなものには悪口をたくさん言う。眉根を寄せて睨んでくる子を鼻で笑う。貶されれば怒鳴り散らす。悔しくなったら白いハンカチを噛んじゃう。そうやって自分勝手に自由気儘に、誰に何を思われたってお構いなしに日々を送ってきた。なのに、何故だか今の私はとても卑屈で、ぎこちなく振舞っている。

 煩悩を断つように、力任せに鋏を振り回す。プリーツを裂き、ホックを引き千切り、紺色のボロ切れを便器の中に落としてはレバーを踏んで下水へと葬った。一度綻んでしまったものは、どんなに繕っても元の姿に戻ることなんてできない。ぼこぼこと無様な音をあげて沈んでいくものを見下ろし、あの子自身と重ねると思わず笑みがこぼれた。
最後の一片を手離し、レバーに足を乗せると下腹部に鈍痛が走って目眩がした。どくどくと波打ち、背中から温度が冷えていく。タイルの壁に寄り掛かるとほとんど同時に便器から水が噴きあがり、流した布片が逆流した。瞬く間に溢れ、足元が浸され、刺激臭が鼻を突く。
 
 本当は、純潔なんていうものはすぐに朽ちてしまうものだなんて、ずっと前から知っていた。ただ、私だけは特別だと信じていた。タカナシくんに恋愛感情を抱いてしまって、あの子に嫉妬するのは、私は彼ではなくあの子と同質だからだ。汚くなった私を、認めたくなんてなかった。いつかはセーラー服を着れなくなって、少女に留まることはできなくなってしまう。タカナシくんも、いつかは詰襟を緩めてしまうのだろう。私が変わってしまうこの恐怖心も、もっと汚くなって、死んだ魚の目を持つ大人になってしまったら、消えてなくなってしまうのだろう。
 
 私はもう、純潔ではないのだ。



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