彼女のいない昼


 薄いわたあめの雲に覆われた太陽の、冷えた湯船みたいな温度。それと、ベランダの手摺りに腕をついてさきイカをかじるすっぴんのキャバ嬢。まじニヒル。

 何が悲しいわけでも辛いわけでもない。子供のときのことを思い出したり、食事中に突然切なくなったり、雑踏の中をひとりで歩いている時、そんな寂しさに似た空虚感。真昼の市松町を見下ろす度に、そんなものがふと訪れる。

 休日はこんなふうに、毛玉だらけの部屋着でだらだらする。世間の大多数の人たちが勉強したり働いたりしている時に休んでいるという優越感も、なんだか虚しさの底に沈んでしまった。

「ファッキュー!」

人の少ない真昼間だから叫んだっていいかなと思って、下品にシャウトする。防音バッチリのこのマンションだもの、お昼寝中の主婦にだって怒られない。

「近所めーわくはよくないよー」

 私の考えを読み取ったかのように、何かおかしい言葉の使い方の声が聞こえてきた。どこの誰だろうと思い視線を動かしてみても、ここは仕切られたベランダ。ご近所さんだとしても声の主の姿など確認なんて

「こっちだよ」
「あんた誰」

 ……できた。ただ、その存在は異質すぎた。めるこの部屋のベランダの仕切りから、パッチワークなうさぎがこちらを覗いている。

「ティファニー・ローレン・ターニャ小池です」 「は?」
「ティファニー・ローレン・ターニャ小池」
「そ、そう。小池さんね。うるさかったのね。ごめんね」

 めるこが変なモノを拾ってきたようだ。いや、首吊ってる人形のイヤホンをやたら持ってるし、若干理解しがたい趣味をしている彼女のことだから変でもないのかもしれない。

「え、何、小池さんはベランダで何をしてるの、 てかそもそも何者なの」

 たずねると、小池さんは手摺りの向こう側にもげそうなほど首を傾げた。

「めるこちゃんの抱き枕なの」
「抱き枕?」
「うん」

 イカをくちゃくちゃしながら小池さんの顔を見つめる。「抱き枕」と言われて思い浮かぶのは、アニメキャラの全身がプリントされた抱き枕を抱えてニタニタしている太ったオタクの画像である。

「だからねー、お日様に干されてるの」
「天気すっごい微妙じゃない?」
「でもねー、ほかにすることないの。お姉さんだってそうでしょ」
「そっかそっか。ヒマなのか。じゃあ私と一緒だね」
「あー、ねえ、お姉さんって煙草吸う人でしょ」
「今は禁煙中だけどね。何それめるこ情報?」
「うん」

 なんだろうこの気分。人の日記を覗くようなわくわくと、ちょっとした背徳感。そんなものが小池さんに詰まっているに違いない。

「めることはどこで出会ったの?」
「電車」
「で、電車?」

 風がぬるりと私の前髪を揺らす。小池さんは瞬きひとつしない。

「うん。それでね、めるこちゃんが強盗にあって、僕が抱き枕になったの」
「はあ?」

 どういうことだそれは。私もよくお客さんに言葉が足りてないと茶化されたりするけど、ここまで酷くない。

「いまいちよく分かんないんだけど、めるこが電車で強盗に合ったっていう解釈でおっけー?」
「違うよう、強盗に会ったのはそこの通りでのことだよ。めるこちゃんが刺されそうになったの」
「えっマジで!? そんなことあったの!?」

 刺されそうになった、というワードに驚いて口に運ぼうとスタンバイしていたさきイカを取り落とした。そんな危険な目にあったなんて聞いていない。

「で!? どうなったの!?」
「僕が刺されたのー」

 のんびりとデンジャラスエピソードを話す小池さん。その調子はずっと一定で、他愛のない会話をしている錯覚に陥りそうになる。

「それはどういうこと?」
「めるこちゃんのかわりに刺されたの」
「つまり、めるこの盾になったの?」
「大袈裟に言うとそうなるかなあ」
「何それかっこいい超イケメン」
「ほんと?」

 小池さんがこちらに身を乗り出してきた。間近で見ると結構でかい。ハート型の鼻をぱちんと指で弾いてやる。

「うん、かっこいい」
「わあい」
「そうかそうか、小池さんのことがなんとなく分かったよ」

 たわむれにぽんぽんと小池さんの頭を叩く。その感触が地味に気に入って叩き続けていると、小池さんが唐突に聞いてきた。

「お姉さんは何してる人なの?」
「んー、キャバクラってわかる?」
「よく知らない」
「別に知らなくていいよー」
「そっかー」

 あー、なんか趣味とか見つけるべきかな。

「小池さんはさあ、めること会う前は何してたの?」
「別に知らなくていいよー」
「……そうだね」

 詮索する資格は無いなあと思いながら、水玉区方面を眺める。さっきまでは小池さんの中身を洗い浚い覗いてやろうと思っていたのに、なんだかそういう気分が薄れていく。まったく私は都合の良い奴だ。

「あのね、めるこちゃんに会うまでは長いあいだひとりだったの」
「結局話すんかい。長い間ってどのくらい?」
「観覧車なんてなかった頃からかなあ」
「それってだいぶ昔じゃん。私が生まれた時にはあの観覧車あったもん」
「うん、すごく前」
「うさぎって寂しいと死ぬんでしょ?」
「我ながらよく生きてたなって思うよ。はあ」

 手摺りに肘をついて、神妙な面持ちになる小池さん。いや無表情なんだけれども。

「でもめるこちゃんと一緒だと楽しいの」
「そーなんだよねー、誰かと一緒だと良いんだけどひとりだとしょーもないのよねー。わかるわかる」
「お姉さんも暇つぶし下手くそな人でしょ」
「めっちゃ下手だよ。今は小池さんと喋ってるからいいけど、いっつもぼーっとして駄目になるもん」
「じゃあさあ、僕もお姉さんも暇なときはふたりでこうやってお話してればいいよね」

 実に素晴らしい提案に目からさきイカだ。小池さんとは良いお友達になれそう。これからは冷えた湯船の天気にもやもやしながら、ひとり虚しくさきイカをかじることもなくなる。

「よろしくね、小池さん」
「仲良くしようねー」


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