夢の名残を / 7





「……っ」

今さら息をひそめたところで遅いというのに。
縫い止められたように身動きひとつできないまま、
斎藤は視線だけでちらりと目の前の男の顔色をうかがう。
こちらを見下ろす総司はなにもかも見透かしたように、にやりと勝ち誇った笑みを浮かべていた。


「おはよう一くん」
「……出稽古に行ったのではないのか」
「うん、行ってきたよ」


気を逸らそうとしたところで、総司の腕はぴくりともしない。
囲い込まれたこの場所から抜け出す術はないようだ。総司は続ける。


「向こうのご指名らしくて、試合したいって言われたから行ったのにさ。
僕の相手、びっくりするくらい弱くって。おまけに終わってからもやけに睨まれるし。
ずっと居座ってたほうが向こうの気に障るみたいだったから、
もう途中で帰ってきちゃった。『一くんが心配だから先に帰る』って言ったら、
新八さんたちもそうしろそうしろ、って」


呼びつけられた上に相手が弱いとなれば、総司の機嫌がどうなるかなど想像に難くない。
きっと本気で叩きのめしたのだろう。ならば先方のためにも、取り繕う新八たちのためにも、
早々に席を辞してよかったのかもしれないが。
出しぬかれた諦めとともに、斎藤はため息をひとつつく。
やはり喧嘩をこじらせたのだと思っているだろう新八たちへのばつの悪さと、
あとから追いかけてきた「一くんが心配だから」という響きに
いたたまれなくなってうつむいた。と、視界の端にさらりと揺れる総司の前髪が映る。


「で。なに怒ってたの」
「……っ」
「それになんであんな、僕のこと避けてさ」


これが本題だと言いたげな低く問い詰める囁き声が、振動に変わって伝わってくる。近い。
みるみるうちに頬に熱が上がるのが自分でもわかった。


「……別に、そのようなことは」
「そんなわけないでしょ」
「何故そんな」
「今だってほら、逃げようとしてるし」
「逃げるなどと」
「だって」


責めるようだった硬い声は突然ゆるく、か細く変わる。


「……嫌われたかと思って」
「……っ、な」
「すぐ帰るって言ったのに、戻れなかったし。ずっと会えなかったし。
……一くん、もう僕のことなんて嫌になったのかなって」
「総司」


珍しく、というよりほぼ初めてに近い弱気な声を耳にして、
斎藤は慌てて顔を上げた。


「違う。……そんな、わけが」


うなだれた総司の顔。自嘲するような碧の光が、前髪の隙間にちらついている。
必死でそれを覗き込むと、とたんにその目がぱっと笑った。


「――うん、そうだよね」
「……は」
「ほんとだよね、一くんが僕のこと嫌うわけないよね」
「は?!」
「って今、わかっちゃったから」


総司の視線はちら、と、斎藤の手元に落ちる。その動きのあとを
同じように追ってようやく斎藤は、
まだ自分が片腕に抱きしめたままの、総司の着物に気がついた。


「っ、これ、は!」
「僕の着物」
「そうだが、しかしそういうわけではなくて」
「そういうわけってどういうわけ?」
「いや、」
「教えてよ」
「それ、は……」


か、と、頭に血がのぼって言葉が出ない。


「なんでそんな、ぎゅってして寝てたのか知りたいんだけどなあ」
「……っ」
「よかったら本物もいるんだけど。ここに」
「っ、こ、の……!」
「……なんてね」


と、ぽすりと斎藤の肩口に総司の額が押し当てられる。


「……よかった」
「総、司」
「ほんとに嫌われたかと思っちゃった」
「……そんな」
「そうだけどさ。ただ少し、時間が経っただけなんだけど。
でもそれだけで、不安になることだって」


静かに総司は言う。なにも、その言葉には返せなかった。
時の流れで変わるものがあると、互いに一度思い知ってしまっている今。


試衛館を去った後、人を斬ることを覚えて舞い戻った自分と、それを必死で追ってきた総司。
また置いていくなんて許さないという、研ぎ澄まされた刀のように曇りのない、
あの思いもきっと、同じところから生まれていたのかもしれない。消し去ることのできない不安。
次に会ったら容赦はしない。けれどもう会うことはないかもしれない。
思い出しているのは自分だけなのかもしれず――会いたいなどと願っているのは。

人影を探して何度も向かった門の向こうに、見上げたあの夕暮れの空。
あんたもあの空を見ていたんだろうか。
足元に長く伸びる自分の影は細く細く頼りなく、
ひとり待つことが、こんなにも息が詰まるなどとは知りもしなかった。


「……総司」
「あーあ。やだな、こんなの見せるつもりなかったのに」


ぽつりと言ったそのつぶやきは低く乾いていて、なんの色もまとっていない。
冗談めかした言葉の影の本心がこぼれたように聞こえてきて、
きゅうと胸が締めつけられた。同じだけ、鼓動もひどく速くなる。
また上がりつつある体温に気づかれないよう、斎藤はわざと声を荒げた。


「っ、だいたいあんたも、何故妙な遠慮を」
「?遠慮?」
「……っ、戻って来た日の、」
「ああ。……だってさ、これでも急いで帰ってきたのに、一くん機嫌悪いし様子おかしいし」
「それ、は」
「けど我慢できなくて――なんだ、もしかしてそれでずっと怒ってたの?足りなくて?」
「違う!」
「あれ、でもじゃあその前からのはなんで」
「人の話を聞け!」


勢いでそう言うと、じゃあ、と、総司はへの字口のままじっとこちらを見つめてくる。
素直な総司の目に、自分で言っておいて一瞬怯んだ。けれどもう、後には引けない。
斎藤は仕方なくもごもごと口を開いた。


「……あまりに音沙汰がないままで、どこでくたばったかと思っていたが……
あんたは人の気も知らずに、戻ったとたん皆とへらへらと」
「……ひどいなあ」

ぐ、と、その言葉が胸に刺さる。反論しようとしても、投げる言葉が見つからなかった。
そうだ、身勝手な理由だ。自分でもわかりきっている。
斎藤は吊りあげた眉を持て余して目を伏せた。

「……それは」
「やきもちだったならさ、すぐそう言ってくれればいいのに」
「誰、が…!」
「そんな嬉しいこと」


壁に立てられていた総司の腕が、斎藤の背に回された。そのまま胸元に抱き寄せられる。



「ごめんね、遅くなって。……心配かけて」


視界が翳り、総司の体温に囲まれて、もうなにも偽らなくてよいのだと思えたのはそのせいだろうか。
とうに耳の端までが熱い。


「……会いたかった」
「総、司」
「会いたかったよ、ずっと」


囁く甘い声。体の力が抜けていくのを堪えながら目を閉じる。

は、と満足そうに息をつく総司の気配がまた胸を締め付けた。そろそろと、斎藤は総司の背に腕を回す。
そうだ、触れたかった。認めることが恐ろしいほどの気持ちは、
行動に変えればあっけないほど素直な感情に変わった。――こうすればよかったのか。

ぎゅうと腕に力を込める。なにも言えぬまま黙っていると、総司は「あれ」と小さな声で口にした。


「……ここは「俺もだ」って言うところだと思うんだけど」
「調子に乗るな」


そう返したところで、くすくす笑う総司の声はなにもかもわかっていると言いたげだ。
癪だと思いながらわずかに身じろぎすると、腕の力は逃さないと言わんばかりに強くなる。


「もう。一くんはないの?僕に会いたかったとか」


されるがまま、胸元に顔を埋めて確かめる。とくとくと続く鼓動。体温と、呼吸と、懐かしい総司の匂い。
総司の言ったとおりだ。あれほど会いたいと思っていたのに、
けれどそれが叶って初めてわかってしまった。求めていたものが、少しだけ違ったことに。


「……いや」


会いたかった、というよりも。

これでようやく、と思う。乾いていた砂が水で満たされるような。
まるで欠けていた、自分の体が元の形に戻ったような。


「苦しかった」


いつしか、自然と言葉はこぼれていた。


「……あんたがいないと、息さえうまくできぬ気がする」


総司の背に回した腕に力を込める。鼓動はますます逸るというのに、
喉のつかえが取れたように、不思議と楽になった気がした。
と、突然触れていた体温が遠ざかる。


「?……総――」


続く言葉は、降りてきた唇で塞がれる。


「――っ、ん……っ」


一度触れたあとほんの一瞬だけためらいかけて、
そのあとは噛みつくように何度も角度を変えて貪る。は、と上がる息だけが耳について、
けれどそれは、自分のものだけではない。


「……もう」
「総、司」
「一くん、ほんとにずるい」
「な、にを、――っあ」


余裕のない総司の声は斎藤の首筋に消えた。いつのまにか緩んでいた襟巻をもどかしく取り去ると、
今度こそ強くそこを吸い上げる。ちり、と火のつきそうな甘い痛みが点で沸いた。


「っ、ん、……っ」


着物越しに触れるだけでも息が上がるほどだというのに。直に与えられる熱は
それだけで頭の奥を溶かしてしまいそうだった。刺激そのものよりも、
無心に舌を這わせる総司の吐息を感じるたび、びくびくと肩が揺れるのを止められない。













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