夢の名残を / 6







「沖田さん、お茶です」



不意に耳に届いたその名に、ぴたりと斎藤は廊下を行く足を止めた。


あぶないところだった。慌てて柱の影に身を隠し、息を詰めながら曲がり角の先ををこっそり伺い見る。
昼前の中庭は良い陽気だ。どうやら縁側に座っているのは総司と山崎のようだった。
後ろ手をついてぼんやり天を仰いでいる総司は、心ここにあらずという様相だ。呆れるように、
盆を手にした山崎がそれを眺めている。


「あのさあ山崎くん」
「なんですか」
「ちょっと聞きたいんだけど、一くん、僕がいない間に」
「はい」
「君に弟子入りしたりしてないよね」
「はい?!」


裏返った山崎の叫びの後、ぶつぶつと不満げな総司の声は続く。


「だって逃げ足が速すぎるんだよね。
見つけたと思ってもあっという間にいなくなってるしさ、
忍ってほら、なんか手っ取り早く逃げられる技あったでしょ。
一くん、ついにそういうのを会得したのかなって」
「な……」


馬鹿にしないでください!と上がる声に、またやる気のない総司のつぶやきがかぶさる。


「やだなあもう怒らないでよ。その団子ひとつあげるからさ」
「これはもともと、俺が島田さんからいただいたものです」
「そう?まあ細かいことは気にしないで」


と、すぐに総司の声は一段低くなる。


「ほんと、べつにそういんじゃなくてさ。
……一くんがあんまり見事に逃げてくから、単純に不思議なだけ」
「そういうことでしたら」


山崎は茶を啜りながら平然と言う。


「簡単な話だと思いますけどね。
単に本気で避けられているだけなんじゃないですか。沖田さんが、斎藤さんに」


その言葉に、ぐ、と総司は息を詰まらせた。


「……君ってほんと、言いにくいことはっきり言うよね」
「言いにくいこともなにも。単なる事実でしょう」
「あのね」
「斎藤さんは朝餉も夕餉も、ここのところは広間でなくご自分の部屋でとられてますし。
沖田さんが戻られてからとたんにですから、そういうことなんじゃないかと思っただけです」


それからちらりと、山崎は隣の総司に視線を向ける。


「まあ、それでもしつこく追いかけたりなさらないところを見ると、
沖田さんにもなにか心当たりというか――思うところがおありなのでは」


よどみなく言い切る山崎の声。すぐに、ごほ、と総司が大きくむせる。


「っ、山崎くんさあ」
「なんですか。とにかく、局長にご心配をおかけしたりすることのないように」
「もう。…………団子もらうよ」
「あっ!」


沖田さん!と怒気を含んだ山崎の叫びに斎藤は目を伏せる。
あの二人はしばらく動く気配はないようだ。今はひとまず、部屋に戻ったほうが良いだろう。


「おう、斎藤なにしてんだ?」


と、背後からの突然の声に、びくりと肩が跳ね上がった。


「っ、新八」
「なんだ、今朝も来なかったけどよ、ちゃんと飯食ったのか?
皆心配してるぜ。んな忙しいなら、俺も何か」
「いや、……心配をかけてすまない。大丈夫だ」
「そうか?」


よく通る新八の声に、ちらりともう一度縁側を見遣る。
二人は相変わらず仲が良いのか悪いのかわからない応酬を続けていて、
どうやらこちらに気付いてはいないようだった。小さく胸を撫で下ろすと、斎藤は永倉に目配せする。


「……新八、頼みがある」
「ん?」


返事を確認するまでもなく自室に向かう。
不審がりながらもおとなしくついてきた永倉に、文机から、墨が乾いたばかりの書き付けを手渡した。


「これを、総司に渡してくれぬか」
「へ?」
「不在の間の一番組の者たちについて、連絡事項だ。特に変わったこともないが一応な」
「え、そりゃ、かまわねえけどよ、……総司、さっき向こうにいたぜ?」
「渡してくれ」
「斎藤」
「頼む」


言いながら押し付けると、永倉は困惑顔でその紙を受け取った。
それからしょうがねえな、と苦笑いして部屋を出て行く。
あれはきっとまた、いつものようにくだらない喧嘩でもしてるのだろうと思っている顔だ。
けれどそれはむしろ日常が戻ってきたことに安心しているようにも見えて、
ならば余計に、訂正する必要もない。そのほうが都合が良いくらいだ。
安堵なのか何なのか、わからないままのため息をひとつつく。





総司と、あれきり顔は合わせていない。
さして広くはない屯所の中で避け続けるのは限界がある。そうはわかっていても
踏ん切りがつかぬまま、ずるずると逃げ続けて二度目の朝が来た。
井戸を使う時間をずらすため普段より早く起き、朝餉夕餉は自室で、
そのほかは買い物や雑用でなるべく外に出、部下の稽古は他の組と合同で行う。
普段は基礎ばかり繰り返させていることもあり、あまりない機会なのだ、
これは公私混同にはならないだろう。そう自分に言い聞かせながら。


とにかく一人きりにさえならなければ、総司がやってきても
相手を任せてすぐにその場を離れられる。そう考えてのことだった。
思った通り、何度か近づいてくる気配はあったが、あからさまなほど即座に背を向ければ
普段はすぐにむきになる総司もそれ以上は追ってこなかった。





きっとまだ、自分はなにかに怒っているのだと、総司は思っているのだろう。


もの言いたげに、いつまでも背に刺さる視線を感じるたび後ろめたい気持ちになりはしたものの、
それだけでもうじりじりと火にあぶられたように頬が熱くなる。振り返ることなどできなかった。
わからない。どうして、もうとうに知っているはずの二度目の感情に、
辿りつくまでの道筋がここまで違うのだろうか。

今までは一滴一滴、知らず集まった雨水があふれるように自然と、
けれど今は坂道を転がり落ちたあとに突然、目的地に放り出されたような気分だった。
ただ茫然としたまま、体が返す反応にあたふたさせられるだけだ。

とにかく気配を察しただけで、声を耳にしただけで、どうしようもなく鼓動が暴れ出す。
総司だ、と認識したとたんにかっと頬に熱が上がり、思考回路が止まってしまうこんな状態で
まともに会話などできる気はしなかった。
それなのに頭ではまだ、あのときの一瞬の総司の気配を繰り返し思い出してもいて。


なにをどうしたいのだ、俺は。


今となっては、平気で喧嘩ができた頃がひどく遠くに思えてくる。
後ろ手に閉じた障子の桟を掴んだまま俯いて、斎藤は畳に目を落とした。





「はじめくん」





と、障子の向こうからの呼びかけに、はっと目を見開く。



「はじめくん、いる?めし、ちゃんと食った?」



無邪気なその声は平助のものだ。警戒しすぎだろう。
何度か瞬きをして斎藤は改めて障子に向かう。


「平助」
「体調とか、大丈夫か?」
「大丈夫だ。……心配をかけてすまない」


無理やりわずかに口の端を上げると、平助はふ、と表情を緩める。


「よかったー。あのさ、今日って三番組は非番だろ?
俺と総司と新八っつぁんで急に出稽古に行くことになっちまって、
悪いけど、あと頼んでもいいかな。夜には戻るからさ。
左之さんも土方さんもなんか忙しそうで……あ、でも源さんはいてくれっから、なにかあったら」
「問題ない。そういうことなら任せておけ」
「ほんと、いいのか?じゃ、頼むな」


それでもまだ心配そうな顔を残している平助を見送りながら、斎藤は小さくほっと息をついた。
心配をかけている皆には悪いが少なくとも夜までは、総司の気配を気にせず過ごすことができる。

浅ましいな、と自分にため息をつきながらそれでも、少しだけ気が楽になったのは確かだった。
















後ろめたさをかき消すには体を動かすしかない。
部屋に溜め込んでいた書物を虫干ししてから蔵に戻し、埃を払い、それから土間の整理と門周辺の掃除、等々。
総司の居場所を気にしながら行っていたこまごまとした雑用は
ひと息にすませれば思いのほか早く片付いた。残っていた書きものを済ませても、
皆が出て行ってからまだ一刻ほどしか経っていない。
かといってのんびり休憩などしてしまえば、余計にいらぬことを考えてしまいそうだった。
散歩がてらにと人気のない中庭を歩きながら、ふと目についた、干されたままの洗濯物を手にする。
もうからりと乾いていて、これは取りこんでしまっても問題ないだろう。
残っていると言われた井上もやはり忙しいのか、まだ姿を見ていない。
ふむ、と、斎藤は腕まくりをして息をついた。









取り込んだ手拭いや着物たちを自室の畳に積み上げる。
持ち主がわかるものは各自の部屋に届けておけば良いだろう。手先だけを黙々と動かしながら、
気を抜けばふとあのときの総司の体温が勝手によみがえってくる。
ぼんやりと逸れそうになる意識を持ちなおしては
ふるりと首を振って、そのたび真剣に布の山に向かう。いつしか動かす手の速度は増していた。
ほぼすべてを畳み終え、最後に手にしたのは見慣れぬ藍色の着物。


大きさからして平助のものではない。新八や左之が着ていたような覚えはなく、
土方のものかもしれないと思ったが、それにしてはほんの少しだけ大きいような。
そこまで考えて、はたと思いついた。


――これは、総司の。


近藤の供として行くからには失礼のないようにと、先日の長旅に持っていった着替えだろう。
そう言えば何度か、総司の部屋で目にしたことがあるような気もする。
いつでも畳まれたままで、昔姉さんに持たされたけど着るときがない、と
懐かしげに口にしていた。

布地はまだ固いままだ。縫い目を指先でなぞる。
あのときの、ほんの少しだけ子どもに還ったような笑い方まで、今もはっきりと思い出せる。
そんな顔もするのかと、胸の奥をちいさく打たれたことも。



……総司。



襟を揃えた手を止めたまま、斎藤は着物を抱えて壁に背を預ける。
しんと静まりかえった部屋には昼下がりの柔らかな光が射しこみ、
かすかに和やかな鳥の鳴き声だけが響く。あたりに人の気配はない。

まるでようやく、正面から総司と向かい合ったようだった。
腕の中に抱えた着物の重みが、総司のそれと重なる。ここにある、と思うだけで胸の奥がきゅうと鳴った。
じわりと、苦しいような甘さが胸を埋めていく。
恋しいと思う。顔が見たい。触れたい。声が聴きたい。それだけだ。


もうとうに知っていたはずの気持ちは、いつしか前よりも大きく育っていた。
それを持て余して、おびえていただけなのだ。あれこれと理由を付けて。
こんなに自分を乱す感情を、認めてしまったらどうなるのか。



そもそも待っている間に過ぎ去った時間を、費やした思いを、
ひとり勝手に天秤にかけたりするからいけないのだ。
総司には、同じだけ返さなくてはならない義務などどこにもないというのに。
まして平常心で顔を合わせられなくなってからというもの
余計にこちらのほうが不利なような、負けたような気になって。




本当に大事なのは無事に戻ってきたということ、ただそれだけのはずだ。
初めて穏やかな気持ちでそう思いながら目を閉じる。
深く息をすれば総司が近くにいるように思えて、
ゆるゆると体の力が抜けていく。それにまかせて、いつしか意識を手放した。
























風か。



頬でかすかに空気が揺らぐ。
いつの間に障子を開け放していたのだろうかと頭の奥で思いながら、
斎藤はゆっくりと重いまぶたを上げた。……いかん、眠ってしまっていたのか。
壁を背に倒れこんだ姿勢で、斎藤は目の前の畳の目をぼんやりと眺める。
うたた寝してしまったというのになぜか肌寒さは感じない。何か羽織っていただろうかと確認すると、
自分は手にしていた着物をすっかり抱え込んでいた。もう日も落ちたのかと思ったが、不思議と視界は明るいままだ。
と、覚醒しはじめた意識の中、目の前を染めるのは陽の光を受けた、一面の深い臙脂色。


「起きたね」


その、覚えのある声にはっと顔を上げる。
前髪の下から斎藤を見下ろす、ふたつの碧の光。


「っ、総……!」
「ようやくつかまえた」


総司はそう言うと意地悪く微笑む。
慌てて体を起こした斎藤がとっさに逃げようとするのを、壁についた手で遮った。










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